if:あと3時間で死ぬとしたら?
よくあるifの問いに、「あと一年の命だったら」みたいのがある。
三年だろうと一日だろうといいんだけど、さっきなんとなく「あと三時間で死ぬ」って言われたらどうするかな?と思って考えてみた。
残り三時間。
まず、どうやって死ぬかは大事だと思う。
私は昔から死ぬのはあんまり怖くない。具体的に考えたことはないけど、怖いのと痛いのと苦しいのは嫌。でも寝て翌朝目覚めないみたいのは、怖くもないし、あんまり嫌な理由が見つからない。
死因まで知れて、それが私の嫌な死に方だったら、三時間その心配で終わっちゃうかも。無駄なのにね。
で、私的に全く苦痛がない死に方が確定してるとして、それが私だけ死ぬのか地球滅亡的なやつなのかでも、具体的な行動としてだいぶ変わるなー、と思う。私はこういう裏設定みたいのが欲しいタイプ。
私だけ死ぬなら、まあ親兄弟に連絡はする。三時間で死ぬのが確定してるからって彼らとずっと時間を過ごすことはしないかもしれないので、死ぬとは言わない。
ただ、電話か、手紙か、動画くらいは残すかな。
あと、印鑑とか通帳とか、死後必要になりそうな書類とかは、準備できそうな状況なら一応まとめとくくらいの気遣いはする。
自殺と思われるの嫌だから、その否定もちゃんとする。
残された側が後処理色々大変だからね。
頑張ってやってもそれに一時間くらいはとられそう。
残り二時間。
でもその時の私はどんなことを感じているんだろう。
怖いのかな。死にたくないとか、過去の後悔、あれをしとけばよかったとか思ったりしてるのかな。
それを想定したくてこんなifを問いかけてみてるのに、私ときたら最低限の終活みたいなことしか思いつかない。
後悔はあるのかもしれない。ただ、たとえばオーロラ見たかったなとかはたぶん思わない。私にはあんまり欲望がない。ほんとに。あるのかもしれないが、そういうわかりやすい夢や目的みたいなものは強く感じない。少なくともそれのために必死に努力するとか、そういう衝動はない。したいんだけど。
だから後悔するとしたら、「もっと適当でもよかったな」とかそれくらいな気がする。あれもこれもどうでもよかったなとか。あの人とさっさと別れたらよかったなとか、めんどくさいこと言ってくるやつは無視すればよかったとか。頑張ったり我慢したことへの後悔は割と出てくる可能性はある。
私にとって価値のないことのために努力しすぎたと、思いそうな気がする。
この仮定した状況で、私が最後に思いそうだと思ったのは「最後まで何のために生まれてきたかわかんないまんまだったな」とか「つまんない人生だったな」とか。最悪か。
でも、とっても悲しいことだけど、私はそう思ってしまいそうな面が多分にある。
勿論、数十年生きてればいろんなことがあったさ。沢山の出会いもあり経験もあり、関係者各位に支えられて生きてきた。「いい思い出」だってある。ご迷惑も大量におかけしました。ありがとうです。
ただ、それとこれとは別。
あと三時間で死ぬって言われても、どうしても死にたくない理由すら見つからない、ふわーっとした人生だなって思う。やりかけっていう感覚すらない。なんのために生きてるかわからない。
だからって希死念慮があるわけではないよ、そこは誤解無きよう。
ただ、生きることに理由がないなら、死ぬ時も「やっぱり理由なんてなかったんだな。ただ生まれてただ死ぬのか」って思うのかな。
まあいいや。
話を戻そう。
あと二時間あるとします。
たぶん散歩に出かけるかな。家の近くに海があるので、いつも通り歩いて行って、足を海水に浸けて、海を見るかな。その時の海は、景色は、やっぱり特別に胸に迫って感じられるような気がする。そう願う。
その時初めて死にたくないって思うかもな。世界が綺麗、死にたくないって。
死にたくないじゃなくて、生きていたいと思うかもしれない。
生きていたい、私はこの世界にまだ生きていたい、生かさせてくださいって。
それは最高だな。最高。私はそう思いたい。
自分がここからいなくなることを思って泣きたい。泣けたい。
自分のこの身体とバイバイすることを思って泣きたい。
それは最高。
でもやっぱり、ここまで書いてきて、あれがやりたかったとかどこに行けばよかったとかあれにトライすればよかったみたいな具体的な後悔は沸いてこなかった。
私にはそういうのはあんまりどうでもいいのかもしれない。
夢も目的もない。行きたい場所も、それが努力とか我慢が前提にあるものなら、別にどうでもいい。私は寝てるのが好きなのだ。あと名誉欲やマテリアル欲求が非常に弱く、承認欲求も大したことない。誰か私に欲しいと思わせて、と思いながら生きてきたフシがある。
カオナシは「ほしがれ」と言うが、私は「ほしがらせて」と言う。
この世界に、欲しいものがない。あるけど、睡眠の方が欲求として強いから。
それはタダだし、一人でできる。(だから誰もほめてくれない。経済に寄与しないから)
なんなら死にも近い。(だから怖くないのかも)
私は、どうやら死ぬ時、頑張ったことについても「頑張らなければよかった」と思ってしまいそうだ。損したなと。いや損したっていうのもあれですけど。
まあただの想像なんだけど、あと120分で死ぬぞって時の海は美しく見えそうだし、空気は美味しく、人々の喧騒もいい感じに思えそうな気がする。ならば今からそうありたいし常にそうあれたら、私の人生素晴らしい気がするんだが、まあそれは悟りに近い境地だと思う。
やることもやりたいこともないし、できたらそっちに人生を寄せていきたい。それは結構やりたい生き方。
死ぬとしたらと考えて、やりたいことは出てこなかった。出てきたのは、やったら後悔しそうなこと。私にとってはそっちが本質な気がする。
死ぬ間際の世界が美しいなら、今も世界を美しいと思いたい。どうでもいいものに時間や気をとられたくない。関わりたくもない。一番は、自分が自分でいたいということ。たぶん私は、誰かのためにと思ってやったことには後悔する。それに後悔しなかったとしても、別に死ぬときやってよかったとは思わない。つまんねー人生、の一部として認識する。
私にとって大事なのは、優先すべきは自分がそれを面白いと思えるか。
寝ることにも優るか?
金とか、それ単体では全然睡眠の勝ちなんだよね。
面白い方がいいなー。
そんで、美しい世界を味わいたい。別に世界の果てに行かなくても、部屋から見る夜空でも、鳥のさえずりでもいいよ。それに気づける感性を常に維持してたい。雨音に切なくなるとか、シャワー熱くて気持ちいいとか、石鹸がいい匂いだとか、そんなことをいちいち感じ取れてたら、どれだけ豊かな人生かって思う。
ああ、そういうことか。
ここまでnote書いてきてよかった。いい着地点になったと思う。
これを読んでくださった方、if構文で死を意識してみるのいいかもしれんですよ。面白かった。私は。
それでは。
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