気軽にオタクになれるけど楽にオタクは出来なくなった

ここ最近「オタク」「推し」「推し活」などの言葉が当たり前のように使われるようになって、今やほぼ誰しも「推し」がいて何かしらの「オタク」である状態だ。
昔より趣味を曝け出しやすく好きなことに対して活動しやすくなった一方でその言葉たちが世間に馴染んでいる現実にどことなく違和感があった。


(以下、あくまで私の個人的な感想であり特定の誰かや考えを否定するものではありません。)




オタクの定義は人それぞれだし、オタクとファンの違いも人それぞれだと思う。好きと推しの違いもこれもまた人それぞれだ。多様化になった今、オタクの種類も多様化している。
SNSが充実して好きになるきっかけがどこにでもある状態、さらに誰もが誰もの推しになれる現在、推し活が普及してることによって色んな方法で応援出来る環境が増えた。そのおかげで昔より「オタク」という言葉のハードルが下がり気軽に「オタク」になれる。有難い話ではある。


しかしその一方で気軽にオタクになれすぎる環境であるが故に楽にオタクが出来なくなったと感じることもある。

1番はこれもまたSNSの充実にあると思う。知るきっかけがSNSであると同時に情報を集めるのも好きを発信するのもSNSが中心だ。もちろん良いこともたくさんある。各々が自分の好きを発信すれば好きの種類がたくさんあることが分かる。自分の好きを発信すれば誰かの好きも見ることになる。それを楽しく見て楽しむことが出来ればそれが何よりで何も問題はない。ただ例えばそれが自分と違う価値観の好きだとしても同じ物(人)を好きという事実は変わらなく何とも言えないモヤモヤが募ることもある。さらに「推し」に対して好きの共有が出来る人と出来ない人もいる。時には本当に同じ人を好きなのかなって疑問に思うくらい応援のスタンスが違う人もいる。


私は好きの形は人それぞれなので誰かの好きを否定するつもりも自分の好きを肯定しろとも思わない。自由で良いと思っている。ただSNSを見ていると何故かそれがうまくいかないことが多いのが気になる。自分と少しでも違う意見や否定されたと思ってしまったら攻撃してしまう、マウントを取ってしまう。自分はこんなにも応援しているんだからと自分の正義を振りかざしてしまう。あたかも「オタク」代表として意見を述べてくる。そういうやりとりを目にするたびになんだかとても息苦しく感じてしまう。ただ好きなだけなのになんでこんなことになるんだろうと。
全く同じ人間なんて存在しないのだから自分と違う意見があるのなんて当たり前ではないか、何故わざわざそれを口に出してしまうのだろうか、言わずに黙っていれば良いのに。そのせいで何かを発信するのも多方面に気を遣って言いたいことも言いにくくなってしまって、自由なはずなのに自由に動けなくて楽に「オタク」が出来ないなと感じることが増えた。


主観と客観では見えてる景色が全然違うから、自分が楽しいと思えばそれで良いし合わないと思ったら一旦離れてみるのも良いと思う。たまに気になるグループがあってもそこのファンの雰囲気がどうしても苦手で好きなりきれないということもたまにある。どうしてもファンの印象が先行してしまう。そんなの気にしなければ良いのに無視できないほど存在がデカすぎる時もある。自分的には楽しく応援してるのに突然唐突に「あ……なんか疲れた」ってなることもある。難しい。ただ自分の感覚や感情が全て正しいとは思いたくないので、そういう人もいるんだなって思うようにしてる。


私のこの投稿も黙ってれば良いのにと思われる内容になるかもしれないので一概に言えないけど、特定の誰かに向けた度が過ぎた意見はわざわざ言わなくても良いのになと思う。
言葉のニュアンスって難しい。多分この投稿も読み方によっては誤解を生むだろう。というか、もう書いてて分かんなくなってきた。同じ話をずっと繰り返しているみたいな文章で頭痛くなってくる。これもまた多方面に気を遣いすぎた結果どこにも気を遣えてないということを表している。純粋に文才ないだけなんだけどな。


だから何が言いたいかって言うと、他人が羨ましくなったり他人の目が気になったりするかもしれないけど、自分の好きは自分がいちばん大切にして大好きな推しにとって自慢のファンでいられるように胸張って幸せになろう。大好きな気持ちは大好きな人にストレートに伝えよう。まぁそれがなかなか難しいんだけどな〜!


情緒不安定なときに書く内容じゃなかったなと反省しながら、何にも考えずにオタクできた昔の方が不便だったけどなんか楽しかったよな〜〜〜



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