見出し画像

2022.2.21「あらゆる場所で物語が始まり続けて」

このアルバム全部すごいな。それぞれのことを知れば知るほどより凄さに気がつく。


これは前にも書いたかもしれないが、Vtuberが「その人」たるか否かというのは、その外見でも名前でもなく、「物語を持つか」という所にあると思う。
物語というのはプロフィールの設定という意味ではなく、その人として過ごしてきた時間の積み重ねと観客によって生み出された文脈のことで、その人自身を歌ったキャラクターソングのような歌にはそういう物語性が強く出ていることが多い。
その人のことを知っていればいるほど「エモい」言葉がたくさん入っているというのが、キャラクターソングの定石だから。

だからVtuberがその名前と外見を捨てて全く別のキャラクターとして所謂「転生」をしても、同一性を感じづらいことが多いのはそのためかもしれない。
それが同じ声、同じ性格だったとしても、観客にとってそれはある一線を越えることのできない別人なのではないか。そう思わない人もたくさんいるだろうが……

キャラクターソングの歌詞を考えるという行為はなかなか凄い。それがフィクションのキャラクターならまだしも、一部または全体が現実に存在している人間(こうとしか表現できない)に関する「詩」を考えるというのは、結構こわい。頼まれてもできないよ。
作詞が本人であれ他人であれ、「自分が他人からどのように見られ、どのように消費され、どのような部分を「エモい」と思われているか」を理解した上で歌詞にするという行為……。
しかも今ではそういう行為を2人に1人はやっているんじゃないかというくらい、キャラクターソングというのは無数に存在している。しかも現実の人間に対して。怖すぎる。

なにを怖がっているのかというと、多分「責任」が生まれるということへの恐怖なのだろうな。
その人がいつか歌に歌われている「消費される自分」を捨て去りたいと思った時、その歌も一緒に死んでしまうんじゃないかという恐ろしさがある。Vtuberのようなフィクショナルキャラクタを纏った存在においては、それは「そのキャラクターの物語」として永遠になるのかもしれないけど。

でも多分、歌っている本人は結構簡単に捨ててしまえるんだと思う。人は思っているよりも過去の自分というものにそれほど執着がないし、忘れていくから。
「責任」を生んでいるのは観客側のエゴであるというのはもうわかっている。そりゃそう、消費される存在からの「転生」を咎めるのはそれを消費していた存在だけ……。
でもそれを消費させるよう積極的に働いていたのはそっちでは? という気持ちも、全体的に、若干ある。

だから私はずっと人間をコンテンツ化し消費させようとすることにいけいけどんどんな世界に対して恐怖を抱いてるんだろう。一度立ち上がった物語を自ら破壊して舞台を降りるのも、それを見る観客になるのも怖い。

ま~みんな楽しそうだし、ええか! とも思っているんですけど、Youtubeという場に漂っている不健康な匂いみたいなものをどうしても感じてしまう。
全員人間を見ているじゃん。私もめちゃくちゃ見ているんだけど……。でも私はこちらを一切見ずにしゃべり続けている人を見ている方が気楽かもしれない。


画像1

わたくしもそう思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?