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結局は凡人

昔から文章を書くことが好きだった。

昔、といっても中学1年生の後半からだ。

それまでは主語と述語が理解できなかったから、書くことが苦手だった。

自分の内側の、モヤモヤとした部分をどう表現して良いのか分からず、気落ちする毎日を送っていた。


中学1年生の10月だろうか。

前世では敵だったのでは?と思うほど、私のことを厳しく指導していた国語の教員が、私の文章を褒めてくれたのだ。

授業のテーマは「自分の身の回りのことを500字程度で書いてみよう」。

私は迷った挙げ句「理科の実験で使われたミトコンドリアが、下水に流されてかわいそう」という内容で書いた。

ミトコンドリアの気持ちと自分をリンクさせて。

これを「着眼点が良い」と褒めてくれたのだ。


その時、世界が輝いた。

思っていることでも、言い方を変えたら伝わる。

これから私は文章で戦える、と思い身が震えた。

とにかく書くことが楽しかった。


それからは作文も国語の授業で書くエッセイも、スピーチですら校内で注目されてきた。

中高一貫校だったから、5年間。どんなに短い文章でも読まれることを意識していた。

修学旅行ですら、行事後に書く作文の内容や構成の検討に必死だった。

おかげで高校3年時の修学旅行の作文は反響を呼んだ。

たくさん褒めてもらえた。

「これからも書き続けてね」とも言われた。


だから、大きな勘違いしてしまった。

私に才能なんてないのに。


たくさん書いても何にも引っかからない。

新たにできた、短歌という趣味でも、ありきたりなものばかり量産していた。


つらい。つらすぎる。なにも書けないし、書きたくない。

書けば書くほど、自分が凡人だと認めなくてはならくなる。


苦しいけど、私は凡人だ。

着眼点もなにもかも、凡人でしかない。

書くことをやめよう、と思った。


その時に思い出したのがnoteの記事だ。

しかも自分の。


読んだら泣いてしまった。

書くことが楽しかった日々。スキをもらえて喜んだ時。書き終えた達成感。

なによりも文章から「書くことが楽しい!」が伝わってきて、それに泣けてしまった。

やっぱり書くことが好きだ。

これからは書きたい時に好きなように書こうと思う。


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