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フラクタル 〈1〉
陽が刺すように熱ければ、薄着になる。服を濡らす雨に耐えきれなければ、傘をさす。北風が体温を奪うのなら、コートに包まる。これだけの知恵があってもなお。
じくじくと膿み続ける傷を手当てする間もなく駆け出さずにはおれない、そういった類の前向きさも一種の野性なのかもしれない。ゆえに苦しまない人などなくて、付き纏う期待の多寡が道程を左右するに過ぎない。多すぎる期待も少なすぎる期待も、その人の道を一層険しくする。
過去は現在に影響を及ぼし続ける一方で、人は現状に規定された鋳型をもとに過去を想起する。「ずっと覚えている」膠着状態は、良くも悪くも自伝的記憶のもつ揺るぎない神話性の上に横たわる。しかしその意味を読みとるのは常に、“たった今”だ。
そう、『記憶はひとつの可能性に過ぎない』のだとすれば、人生は冷たい牛乳をガブ飲みしたい日の積み重ねで出来ている。
*
感じる、ということの種は個々人のなかにある。それが育ってゆく環境でさえ、天候と等しくままならないというのに、こと対人となると納得のゆかぬ思いを抱くのは、なぜなんだろう。ルールや礼儀、親切、絆、愛情、etc… 言葉という記号にすぎないものを尊ぶそぶりで他者を計り、ままならない環境をコントロールしようとするのは、なぜなんだろう。そうしたファッショを自覚せぬまま、容易く憎しみを「信念」と呼び替え身内に浸透させてしまうのは、なぜなんだろう。
例えばこんなふうに。
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