機関車の火室に石炭をくべる 〈田園 #3〉
とうの稲穂はといえば、浮薄で盤石な大人の会話を盲導犬のように大人しく、いかにも殊勝なおももちで聞いていた。独白のうちにある自己弁護は、機関車の火室に石炭をくべる作業のようなものだ。「なるようにしかならない」というわかったふうで何ひとつわかってはいない台詞で、稲穂はしばしば自身を慰めた。
「いずれどこかへ行くことだけは確かでも、どこへ行っても本質は何ら変わらないダロゥ」
そう覚ってしまった挙げ句のはてに、
「本質なんてものはない? そんなら、なおさらだネェ。『怖いと感じていることが怖い』って、なんだかわかる気がするナァ」
と、わからず屋を気取ってみせるのだった。稲穂は、現実に過大な期待をよせなくなったかわりに、期待そのものにずいぶんと鈍感になってしまっていた。楽しい、深い、わかりあう。そうした動機をもって差しむかい、会話をもち時間を充たそうとする風潮に、稲穂は心底うんざりしていた。一言ごとに自ら汚穢を塗りこめる感覚にみまわれ、終始おちつかなかった。
社会は個をまたない。内情を掘りさげることなしに、目に見える部分だけを掬って眉をひそめる、あるいはもてはやす。ひとりひとりに心と過去があることなどおかまいなしに、好き嫌いに上書きされた善し悪しの札を貼る。貼られた自身の馬鹿さ加減に稲穂はしばしば沸騰した。
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