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時間の川を遡上しているの 〈田園 #2〉

物思いの最中、ふとした瞬間に食器の鳴る音に意識が引き戻される、というようなことがある。おなじように、「そういうものじゃなあい?」というみずからのコトバによって、それまで苗子をとりかこんでいた膜がシャボン玉の弾けるごとくほどけ、瞬時にして内から外へと意識が開かれるのだった。

苗子にとって、言語は時間の流れに拘束されている。それが証拠にうしろうしろへと列をなし、コトバは順番にしか語られない。視覚はもっと瞬時的かつ同時的だ。つまり言語のほうが、短期記憶の構築において階層の数がおおくなる。

見たものをコトバで表現しようとするとき、苗子の内では短期記憶の再構築がおこっている。ひとたび見たものを、記憶のなかでふたたび見なおすという作業がしょうじている。そして色を形を質感を、目に焼きついたものを層状に書きかえ順番に語ることで、見たものを時間の枠内に凍結する。

逆に、そうしてできあがったコトバの羅列にふれるとき、苗子の意識内で仮想の意味世界がえがかれてゆく。いったん時間の枠内に凍結されたコトバを、再び瞬間とすべく解凍するというわけだ。

苗子にとって、これが言語を理解するということだった。

ゆえに苗子は、翼をもってどこへでも羽ばたいてゆけるけれども、舞いおりた先の世界を知ることは叶わなかった。言語理解の構造上、コトバは苗子の意図によっては自動解凍されえない。しかし苗子はくりかえす。

「わたしたちは時間の川を遡上しているの、いつかかならず今この瞬間を懐かしくふりかえるときが来る」

例によって音もなく、息継ぎをしてひとつ。附言。

「そういうものじゃなあい?」

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