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顔色はいつも550nm 〈田園 #7〉

つまり稲穂と苗子とは、長い時間をかけて静かに淡々と喧嘩をしていたのかもしれない。歩みよるための喧嘩を。そこから思えば、ふたりはずいぶんと遠く離れたところへと漂着していた。そして今はただ無言で互いに伴走している。

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じじつ【事実】一( 名 )①現実に起こり、または存在する事柄。本当のこと。②〘哲〙時間空間内に現に存在するものとして我々に経験される出来事や存在。現実的・実在的なものとして想像・幻覚・可能性などに対し、また経験的に与えられている現象として理想・当為・価値に対する。

しんじつ【真実】一( 名 ・形動 )[文] ナリ①うそいつわりのないこと。ほんとうのこと。また、そのさま。②〘仏〙絶対の真理。

大辞林 第三版より

真実は闇に葬られるためにある。虚偽がなければ真実は真実たりえない。事実はひとつ。真実はいくつもあってどこにもない。真実とは、虚偽が事実の背後に落とす陰影にすぎない。

想像・幻覚・可能性・理想・当為・価値は、是と否が分かちがたく絡まりあったところに立ち上がる。「ほんとう」は「うそ」の存在を前提視したところに浮かび上がる。ゆえに真実は想像・幻覚・可能性・理想・当為・価値に括られるのであろう。

田圃は、認識を事実と真実の箱に振り分ける作業をことさら大事にしていた。田圃のばあい、真実の箱のほうにより多くの出来事が振り分けられた。

苗子は田圃の右耳に棲んでいた。草笛を鳴らしながら稲穂がくつろぐのは、ちょうど田圃の左目にあたる。田圃の中心でいれかわりたちかわり、ロンドを踊る苗子と稲穂。それゆえ田圃は、いやがうえにも分裂をなめるはめになった。

「よわったな」「ああもうどうあっても完敗なんだ」

呆れはて、あるいは面白がってそう呟くものの、田圃の顔色はいつも550nm近傍の波長を点していた。田圃はノブのないドアの前で困惑していた。開けかたを見うしない、もはや何が本当かもわからなくなっていた。

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