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フラクタル〈5〉

体が欲するだけの眠りを貪ったのだろう、尿意に応える形で起き上がる。窓の外には夜闇がおり、隣の嗚咽の主も日常に還っていったようだ。

明かりの灯った部屋に時刻を求めると19時を回っており、診療時間もとうに終わっていた。安静室を出て手洗に向かう道すがら、迎えが来るまでいてもいいかと恐る恐る看護師に尋ねた。「いいわよいいわよ、大丈夫よ」と言う彼女の声に、今日初めて安堵を覚えた。

いいわよいいわよ、大丈夫よ──反芻しながら用を足し、見るとはなしに膝に下ろしたショーツに視線を落とすと、知らぬまにナプキンが当てられていたことに気がついた。死に近接するような大きな何かを施されたはずが、そこには拍子抜けするほどささやかな出血の跡があるばかりだった。

睡眠、尿意、安堵、止まるように仕組まれた出血。数週間ぶりの、はっきりとした空腹感さえ覚えている。魂が体から離れる感覚を嘗めながらも、私の命は否応なしに生きつづけようとしている。長らくそれを忘れていた。小さな芽が負うた痛みと引き替えに、お前は強く生きなければならないと、谺す声を頭上に聞いた。そうして、迷いなく水栓を捻り、抱えていては生きられぬもの全てを洗い流して便所を後にした。

帰路、無性にハンバーガーが食べたくなり、県道沿いのマクドナルドに寄ってもらう。これ以上に美味なるものがあるだろうかと思えるほど「おいしい」と感じた。飢えた子供のように貪った。空腹を満たした後ふと、唇が荒れているのに気づく。そうだ私の物語はまだ始まったばかりではないか。 剥がれかけた薄皮を整えるように、リップクリームをぐいとひと塗りした。

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