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フラクタル〈3〉

今朝がた詰め替えた食器洗い洗剤の、『ピーチの香り』がいやにどぎつい。泡にまみれた指の桃くささを、味わい尽くすように延々と嗅いでしまう。もぎたてをその場で乱暴に貪ったかのような錯覚におちいる。

なりたい自分になること自体は、さほど難しくない。今ならそう思う。難しいのは、安寧に裏打ちされた怠惰を洗い落とすことだ。怠惰とは、全身に施された刺青あるいは指に残る洗剤の匂い。桃の香り。日曜日の朝に何とも相応しい匂いではないか。

そう、どれだけ背伸びをしても、我が儘にはなりきれない。ましてや世界を恨むかのように苦しみきれもしない。期せず桃の香りとともに立ちのぼった記憶ももはや色褪せている。

***

「7週ですね」と、医師は無表情にそう告げた。

膣から撮ったはずの胎児の写真は、披露されずじまいだった。ふうん、堕ろしにきた患者には見せないもんなんだ。どこか他人事のように感じながら促されるまま別室に移り、看護師から手術の説明を受ける。やはり彼女も表情に乏しい。同情も慰めも、もちろん批難の色も何ひとつうかがえない。

「それでは、こちらの同意書にお相手のかたのサインをいただいて、手術当日にご提出ください」 

余白の多い、それでいて物々しいA4サイズの用紙をぐいと机の上で私に向かって滑らせながら、看護師は説明を結んだ。ふと、唇が荒れていることに気づく。そういえば妊娠に気づいてから、一度もリップクリームを塗っていない。なんとはなしに、においと味を体が拒絶していた。

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