つらつらかくこと

言葉を紡ぎ出すことに抵抗があるかと聞かれたら、あるかもしれないし、無いかもしれない。
その時の自分の状態で左右されることは往々にしてあります。
故に、つらつら書いているときは状態がよろしいのでしょう。

さてさて。
そんな私がこのnoteに手を出してしまった。

何書こうか。

とりあえず、私の自己紹介でもしとこうかな。

私は熊本市の平凡な家庭の次女として「残念賞」の掛け声とともに生まれました。

男の子を期待していた父に向かって、産院の看護師さんがその様に言われたと、小さな頃から何度となく聞かされていた。

「ちっ」

と舌打ちしたかは覚えてませんが、小さな頃は「はいはい、どーせどーせ」みたいな顔をした憎たらしい娘だったと思います。

両親のことを好きとか嫌いとかをあまり感じず暮らしていたのです。
なぜなら私には大好きな婆ちゃんが居たから。
婆ちゃん大好き少女。

そんな婆ちゃんっ子の私は、ちょっと大人びた子でもあったかもしれません。

手のかからない子
邪魔にならない子
聞き分けの良い子

それが小さな頃の私だったと思うのです。

家庭の外ではどうだったかというと…。

保育園時代
かけっこは常に2番
先生に名前を覚えてもらえない
構ってくれるのはひとつ年下の背高のっぽの男の子
そんな記憶。

小学生時代
バレーボール部に入ったが、俗に言うエースの対角の裏アタッカー
その時のエースは保育園時代にかけっこが常に1等のMちゃん。
そう言えば、ゴレンジャーごっこの時、絶対Mちゃんがモモレンジャーだった。
私は…全身黒タイツみたいな悪者のひとりだった気がする。
あ、なんだっけ。
そうそう、小学生時代もそんなにパリッと目立つ子ではなかった。

中学生時代。
入学して早くも集団行動が面白くなくなる。
あー、もうここまで書くとどうだかな(笑)
まぁまぁ独特な子に仕上がってきていた。

高校生時代。
選んだ高校は、もうどうでもいいやと受けたとこ。
何も面白いと思ったことはなかったが、後に今でもお友達付き合いをしている友人はできた。
これは財産。

社会人になり、初めて勤めたのは病院だった。
医療事務として入ったのに、「年寄り受けが良さそう」ということでリハ室へ配属。
この時点でかなりなやる気が失せていた。
社会人になっても希望は叶わないのかと思ったりもしたけど、特段医療事務をしたかったのかと言われればそれも違う。

とにかく既に人生の楽しさを放棄するようなやる気のない子だったのです。


それでも時間だけは人と同じ様に過ぎていき
24歳の時に大好きだった
婆ちゃんが死んだ。

つづく。


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