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死の先への憧憬

子供の頃、死ぬのが怖かった。死の先を想像すると眠れなくなった。死より死の先が恐ろしかった。それは本能的なものだと思う。誰かに忘れられてしまうとか、痛いのが嫌だとか。

無への関心がある。僕は大人になって子供の頃よりいろんなことを勉強している。宇宙や多次元世界への興味は必然的に無の体感を求める。生きている内には不可能なその憧憬は死の恐怖を著しく軽減させた。自死願望とかそういうのとは全く違う、純粋な興味関心である。それは全てを代償に、非可逆的に学びをもたらすのだろう。その知の器が果たして存在できるのかわからないが、少なくとも無の前では無なのだろう。無念。

転生とか死後救われるとか、宗教はやたら死を畏れているようだ。僕は無宗教だけど、文言を聞く限りだいぶ安っぽい。人間が考えそうな神だし死後だ。畏怖と言うには軽すぎる気がする。畏れ敬い、次のステップへ。地獄は人間を脅かすために馬鹿みたいな単位を生み出したわけだが(無間地獄とか)、そんなものを怖れる必要はない。もはや比べることすらかなわない、虚数でも零でもない、「null」が僕らを待っている。

null=無、なのか?圧倒的な質量でさえ届かない。無い、という概念すら存在しない。それは人間の生み出したあらゆる言語を超越し、つまり言語化できるものは人間が理解しうるという原則に逆に則った何かがそこには「在る」。無が在るという矛盾。しかしそうでもしなければ僕はここに何も記すことができないのでどうか見逃してほしい。

死の先への超弩級の圧倒的憧憬は死への恐怖を鈍らせる。しかし先に述べたようにこれは非可逆であるから、せいぜい生をなんとなく楽しみ尽くして全うして、何処かの何かが生み出した矛盾へと身を投げることにしよう。どうだい諸君。死なんて恐るるに足らないだろう。そして積極的に死へ身を投じるのがどれほど勿体ない行為かお解りいただけただろう。あらゆる自然的化学物質で脳を腐らせて悟るのも善し、大多数の誰某がしょうもない生を有耶無耶にするかのように流れるも善し。

僕たちは全員救われるのだから。

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