第1回 1997年5月1日「運命の日」

その年の3月に高校を卒業し、4月から東京の大学へ進学していた私は、旅立ちを笑顔で見送った次男坊の不在を寂しがる母の意を汲み、最初の大型連休たるGWを地元で過ごしていた。

1997年5月1日、日付が変わったばかりの国道を北から南へ走る救急車のサイレンが耳に入ってきた。確か少し前に北へ走っていくサイレンを聞いた気がした。

(早いな。こんな時間に、事故かな?)

心のなかでふと、そう思ったことを覚えている。

当時、私の両耳のイヤホンから大音量で流れていたのはJUDY&MARYの最新アルバムで、曲間を明確に覚えており『くじら12号』と『クラシック』の間だった。

それからしばらくして、階下で鳴る固定電話の着信音。

「はい、はい、はい、………。」

ハッキリと聞こえる、母の大きな声。

あとはジェットコースターが一気に急坂を下るかのような感覚、その先は1週間ほど、記憶が飛び飛びでしかない。

・病院へ行く車の中、春に開通したばかりの自動車道IC交差点の踏切と車中の会話
・初めて入ったと思われる中央病院、しかも救急処置室の待合所
・ストレッチャーに乗った、兄ではない誰か(ハッキリと目が合った)
・当直医師の一言
・病院に駆けつけてくれた親族の顔
・久しぶりに会った、地元で子供の頃から知る兄の同級生の面々
・ほとんど面識のない、兄と最後に仲良くしてくれていた人たち
・つい先日までいつも一緒にいた、私の同級生たちとの思わぬ形での再開
・当時の町長はじめ多くの弔問者の方々
・家に来るも追い返したストレッチャーのあいつ
・事故車の置き場から拾い集めてきた、ペダルに挟まれたままになっていた靴などの遺留物
・第一発見者がわかり、自転車で5kmほど走って御礼を言いに行ったこと
・東京へ戻ったあと、入ったばかりのサークルの先輩たちとの最初の会話

当時からずっと変わらない、数少ない記憶。

あれから23年が過ぎた。

実は、20年が過ぎた頃からこのときの記憶が夢の中で時々フラッシュバックする日々を送っている。

その度に心は明から暗へ向かう。自分に宿る影の部分だ。
この苦しさから抜け出すには、どこかで吐き出すしかない。
そんなことを考えていたとき、このサービスに出会った。

ここでは、私が様々な葛藤と共に生きてきた証を綴っていきたい。

【初稿:2020.5.1】

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