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非常口のピクトグラム

非常口サインは当初、小学校5年生にならないと学習しない「常」の字を真ん中に3文字の「非常口」が並んだ文字表記で、保育園で目にするのも同じでした。'72大阪と'73年熊本のデパート火災で260名の死者が出て、10W1本の蛍光灯内装サインが、煙で見えなかったのではないかと国会でも問題になり、消防当局は20Wと40Wを2本内蔵した巨大文字サイン灯を全国に取り付けました。

八王子の大学(東京造形大学)で授業中の太田は、わずかな空き時間を見て消防庁に電話し、全国の進捗状況を尋ねたところ、ショッピングモールはまるで危険地帯の形相だと全国でブーイング、病院では夜間も消灯できないため、病室に明かりが入って安眠妨害だとクレームの嵐。その結果、文字サインの表示面をすべて取りはずして1980年、同じサインボックスを利用したピクトグラム(絵文字)サインに切り替えられ、文字サインで沸き起こった全国的アレルギーは、それ以降、全く聞かれなくなりました。

総務省消防庁のキーパーソンはそれ以前の1975年、ISO非常口ピクトグラムの審議に4年ほど遅れて、太田を講師にしてピクトグラム懇談会と称する勉強会を何回か持っていました。安全標識の「非常口」国際規格案が国際標準化機構(ISO)の国際会議で審議され、ソ連案に内定していたのに、日本は代表を送り込んでいなかったので、遅ればせながら勉強会を持つことになった次第です。

最終懇談会でピクトグラムデザイン制作料についての質問に及びました。公共的趣旨のものだから実費だけでも良いと思ったけれども、3~4人のアシスタントや協力者と一緒に数10案の素案を作り出して、客観的評価の実証実験もするのに、少なくとも3~4ヶ月はかかるので、最低限の人件費の概算もお伝えしました。けれども、国費で調達する予定のないことが明らかになった担当者は工業会に肩代わりを求めて断られていました。

懇談会メンバーとして毎回出席していた東京消防庁も予算はないと断って、東京池袋駅の新しい地下コンコースに日本で最初のピクトグラムによる非常口サインを取り付けたいと、デザイン制作を太田に依頼されました。複数のデパートや私鉄、地下鉄それに国鉄が共存する池袋駅には、多くの出口サインが使われています。東京消防庁が求めている非常口サインがそこに加わると、狭いコンコースがオーバーサインになるので、既存の出口サインを全て取り払って、代わりに出口表示の非常口サインを設置すればプラス、と考えた東京消防庁と太田が合意して、64基の出口(非常口)サインが実現し、その後、25年間ほど使われました。

池袋駅コンコースの出口サイン

出口の文字は、日常学習効果が見とれたら削除するというもの。上下2本の水平線は天井と床を表わし、壁の縦線がなければ開口部であることは誰にもわかる。平面図でとらえれば、壁の枠線で切り離れている部分が開口部を意味して出口となる。この国際的視覚言語とも言えるデザインが、ミュンヘン空港や駅にも登場していることを後年知ったので、ここにその写真を添えました。

ミュンヘン市の出口サイン(写真 太田幸夫)

日本とドイツのこの共通性は、先行していた非常口サインのピクトグラムソ連案が、後発の日本案とほとんど同じデザインであった事実と合わせて、素晴らしい共通性であると言わざるを得ません。後年NHKテレビが「共通のイメージ」をテーマに池上彰の教育番組「メディアの目」を制作し、出演を頼まれた太田は、日本の非常口サインを事例に、ソ連案との共通性こそが重要だと強調したところ、その後何年も再放送され、NHKテレビ再放送の記録を塗り替えたとの知らせを受けました。また外務省からの連絡では、世界65国の国営テレビ局に、文化協力のため、この番組の録画を無償で提供したいとの知らせです。もちろん快諾しました。

非常口サインのピクトグラムではまず、3373点のイメージ・アイデアが全国公募で集められました。NHKも協力した各種視認効果実験、(煙を通して見たり、瞬間照明でどの形が見とりやすかったかなど)で絞られた1点をもとに、太田が中心となって(協力:鎌田経世・坂野長美・小谷松敏文)デザインを整え、1980年にはそれまでの文字表記から絵文字表記の国家規格(JIS)になりました。消防庁は直前の文字サインで巨大化したサインボックスに非常口ピクトグラムをとりつけ、ISOに日本案として提案したところ、国際規格案は数年前からソ連案に内定していたため、ソ連からも国際委員会からも厳しい拒絶反応に出会い、日本政府には正式な抗議文が届き、新聞も大きくスクープしました。

ソ連案と日本案のデザインを比較して太田がコメントを書くよう当局から頼まれた内容については、デザインレベルに一切触れず、「どちらのデザインも屋内と屋外が表現されており、走る人が屋内から屋外に避難しようとしている点で全く同じだ。この共通性こそ、ピクトグラムでは最も重要なポイントだ。」と力説したことは、すでに述べた通りです。

絵文字としてのピクトグラムの特質は、全ての人の生活の衣食住や喜怒哀楽などの体験と認識の共通性を形にして意味の理解に役立てることにあるのです。

左:日本案 / 右:ソ連案

1984年にはソ連が自国の国際規格デザイン案を取り下げたので、入れ替わりに日本案が国際規格になりました。地震や火事の時はここから逃げなさいということが、外国の人にも幼児にもわかります。けれども、国際規格になる時、走る人の足元が横に閉じられてしまったことは残念です。下が閉じられていないと、走る人を取り巻く空間が、見ている人を囲む空間と心理的につながり、避難する人の姿が自分自身になるのです。下を閉じると見ている人との関係は希薄になり、額に入った絵を見ることになってしまいます。

ISO安全標識の国際規格(ISO3864-1)より

車で1時間も走れば外国語の道路標識を学習せねばならない陸続きの欧州で文字だけの標識はダメとわかった国連が、丸、三角、四角の枠で囲った現行の色と形の絵文字標識を1949年に提案したので、陸続きのヨーロッパですぐに普及し、東京オリンピックを翌年に控えた1963年、同じ標識が日本にも導入されました。全国の交差点にはそれまで、15cmほどの文字で「右折禁止」「左折禁止」と書かれた文字標識だけが取り付いていたのを、太田はよく覚えています。

国際標準化機構ISOの専門委員会第2分科会(絵文字による安全標識の国際標準化分科会ISO/TC145/SC2)は、国連が1949年に提案した道路標識の色と枠囲みを準用したので、非常口の枠にも四方を閉じることが求められたわけです。同委員会には三つの分科会(案内用、安全用、機器操作用)があり、太田はその全てに関わり、特に安全標識の分科会は太田一人が日本代表という状態が長く続き、30年以上も各国での国際会議に出席してきただけに残念です。

ISO安全標識のルーツと言える国連の道路標識

道路標識は法律なので、デザインの是非が問われることはありません。無条件の順守が求められます。高速移動中に、遠くから枠の形と色で注意か禁止かを判断し、近づいてから何に注意し、何を禁止するのかを枠内の絵文字で認知・理解する。この2段階方式が本当に有効かどうかを実験・評価して、改善すべきところを明らかにすべきだと主張してきました。職場の安全標識は、車のような高速移動下で使われることはないと主張してもダメでした。絵文字が道路標識に使われて72年間、一度も実験・調査されたことはないのです。

そして赤色の円形の枠内に斜め棒が入って禁止を表すのも、日本人には大きな問題です。この形は否定(ダメ)を意味するNOの縦棒2本が湾曲して円になったもの。日本の文化では、テスト用紙の採点の丸は小学生時代より「正解」とか「よい」を意味する。丸印が「よい」で、斜め棒が「だめ」なので、「良いけどダメ」となって、日本人は毎日、混乱させられている。否定を表すなら、左ききでもないかぎり、通常、斜め棒は右上から左下へ表現する。ただし非常口のピクトグラムだけは、世界中で日本だけ、原型(太田のデザイン)のまま足先が左右に閉じられないで使われている事実は、特筆できることでしょう。

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