リトルウイング 5
ノートパソコンをバチンと閉じた。
私は31歳の 独身女で、仕事は競走馬の世話をする調教厩務員をしている。趣味は読書以外は無く、馬と小説をこよなく愛する日々を送っている。
調教厩務員の仕事に就いて10年目に突入したということもあって、一ヶ月ほど前からリトルウイングを主人公にした小説を書き始めた。
この小説を世に出そうとか、そんなことは考えていない。
私の近くにいる人に読んでもらい、競馬というものを深く知ってもらいたいだけだった。
そして、まだ途中なのだが、幼馴染みの京子に読んでもらおうと思っている。
京子は明日、東京から私に会いに滋賀まで来てくれることになっている。
久々に会えるのが楽しみすぎて、昨日から私の動き一つ一つに跳ねが加わっているのが、自分でもよくわかる。
でも、この作品を見たらきっとこう言うだろうな。
「綾乃、小説書く前に、もっと現実を見なさい。調教厩務員の仕事もいいけど、あんた結婚はどうするの?」
なんて事を言いながら、喫茶店の机を叩くんだろうな。
そんな、おせっかいな部分も含めて好きなんだけど。
昨日書いていた小説の一部分を見直していると、時刻は午前3時20分になっていた。
栗東トレーニングセンターに出勤する時刻が迫っている。
慌てて半分まで食べていたトーストを一気に頬張り、それをインスタントコーヒーで流し込んだ。
ドタバタな朝食の後は、シャワーから出るお湯を頭からぶっかけ、ショートカットの寝癖を直した。
アパートの自転車に股がった時の体内時計は3時48分くらい。
トレーニングセンターに着き、事務所のタイムカードを押すと3時58分だった。
「よし!」と小さく右こぶしを固める。
「何が、よし!なんだ。もうちょっと余裕をもって来い」
体がピクンッと浮き、無重力を一瞬体感する。
「はっはい、すみません」
いつの間にか、私の憧れでもあり、ここのボスでもある坂本厩務員に怒られてしまった。
「さぁ、子供たちが待っている。早く行ってあげなさい」
「行って参ります」
私は事務所を出ると、駆け足で自分の担当している競走馬の馬房へ向かう。そして着くといつものように一頭ずつ「おはよう」と声をかけ、馬の首筋にキスをしていく。
朝の儀式が終わると、馬房内にある寝藁を片付け、担当馬の体温測定、馬体を点検し健康状態を調べる。
そのあと、水を与え調教後に食べてもらう朝飼い葉の準備をする。
この作業をすべてこなすと季節を問わず、いつも額から汗が噴き出てくる。
作業を終え事務所に戻ると、坂本さんと11人の厩務員たちはすでに席に着いていた。
「綾乃ちゃん、昨日やんちゃ坊主に噛まれたらしいな。大丈夫なんか?」
「大丈夫じゃないわよ。見てよこれ」
私は右腕部分のジャージをまくりあげ、担当馬に噛まれた歯形を村西厩務員に見せた。
「うわー綺麗な型ついてるな。紫色になってるやん。嫁入り前やのになぁ。おっさんは綾乃ちゃんが結婚できるか、いつも心配してるんやで」
「大丈夫よ、そのうちイケメンジョッキーをゲットしてみせるんだから」
「綾乃、早く座りなさい。さぁ、始めるぞ」
坂本さんの一言で私は席に着き、馬の状態や調教メニューなどを話し合う朝のミーティングが始まった。
ほんとうに朝は目が回るほどの忙しさだ。
ミーティングが終わると私は馬房に戻り、一ヶ月前に入厩してきた黒鹿毛の二歳馬に鞍をつける。そして、引き綱で誘導して、芝の調教コースへ移動する。
調教コースに着くと私のか細い腕に噛みついたリトルウイングに声をかけた。
「今日はたっぷり調教してあげるわ」
左右の耳を交互に前と後に動かして返事をかえしてきた。
怒っている様子だったが、気にせずリトルウイングに跨がり調教を始める。
初夏の朝日を浴びながら、競走馬の上に乗って時速60キロの速さで駆ける。
私の152センチの小さな体が自然と空気に溶け込んでゆく。
土や素敵に刈り上げられた芝の匂いが好き。
風で乱れて耳にかかる髪の感触が心地いい。
私にとってかけがえのない時間がここにはある。
競走馬は人間の都合で交尾をさせられて子供を産む。人間の都合で馬を売買し、レースに勝たせるために厳しい訓練を馬に行わさせる。
18歳から競走馬を扱う北海道の牧場で働き始めた時は、その現実にずっと悩まされていた。
しかし、私は馬が好きで、ずっと関わって生きていきたいという答えを自分なりに出した。
人間の欲望の中でもがいてる競走馬を支えていきたい。彼たち彼女たちの一生を輝かせ、無事に終えさせてあげたい。
そんな思いから私は牧場を辞め、厩務員資格を取って競走馬の世界に足を踏み入れた。
自分の行動や答えがどれだけ正しいのか解らない。でも、動いてもがいた先に答えはあるのではないかと思っている。
私は人としてはまだまだ未完成な部分が多い。しかし、未完成だからこそ、おもいきって前に向かって進むことができる。
悩みや不安、コンプレックスなんかもまとめて燃料に変えて、これからも走り続けたい。
しっかり地面を蹴って、私なりの人生を 駆け抜けたい。
そして、今は私の小説がノンフィクションになるように全力を注ぎたい。
私はお尻の下にいるリトルウイングに話しかけた。
「ねぇ、いつか有馬記念に勝ってよね。そしたらいつもの三倍多くキスしてあげるわ」
「俺は全部のレースに勝つつもりだがキスは遠慮する。ほんと気持ち悪いんだよ、お前は」
「照れちゃってまぁ。実は毎朝、私が来るの心待ちにしているの知ってるんだから」
「うるさいよ馬鹿!」
「やっぱり君は可愛いね。じゃあ、そろそろスピード上げていこうか」
「びっくりするくらい速く走ってやる。しっかり捕まっていろよ」
「了解!」
私たちは今日も風の中で会話をする。
おしまい
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