起業はツラいよ日記 #61
なんでも動物福祉のことに関連づけると嫌われるかもしれないのだが、最近読んだ『テスカトリポカ』(佐藤究)を読み終えて考えたことを記しておきたい。
メキシコ事情やアステカ王国について詳しくなくても『Breaking Bad』や『ナルコス』がお好きな方であればすんなりと読める作品だと思う。私は両作品ともに好きで繰り返し視聴しているが、同作もいわゆる麻薬カルテルの恐怖を存分に味わえる作品だ。
作中では日本国内にいる未就学の無戸籍児童(彼ら彼女らは親からの虐待や育児放棄(ネグレクト)の被害に遭っていた)をお寺地下のシェルターに保護するのだが、時が来たら彼ら彼女らから心臓を取り出し臓器提供者(ドナー)として移植用臓器を心待ちにしている海外の富裕層の子どもたちとマッチングさせていくという最低最悪のビジネスが展開される。
これまで最悪の家庭環境で過ごしてきた無戸籍児童たちは一転して最高の居住空間を与えられる。
ゲームは遊び放題、テレビも複数台ある。清潔な空間にはゴキブリ一匹も出ない。毎日お風呂に入ることができるし食事もある。何不自由ない暮らし。
しかしそれは臓器提供者として商品を完璧に保つために提供されているだけで、なにも児童たちへの愛情故ではない。さらに「生物学的感傷性(バイオセンチメンタリティ)」と呼ばれる考え方が導入され、ドナーである無戸籍児童たちは毎日の出来事を日記につけることを求められる。
なぜこんな日記をつけさせるのか。それは
ということだ。さらに
ここから動物の話を交えていきたい。
わたしたちが普段口にする牛や豚、鶏も当然ながら戸籍はない。名前は付いていたり付いていなかったりする。ギュウギュウ詰めの最悪な飼育環境であることが多いだろうし、少しはマシな飼育環境もあるかもしれない。しかし、どちらにせよいずれ屠畜場に送られるのだ。
スーパーの肉売り場では「この人が育てました」という宣伝文句とともに肉牛農家さんと肉牛が一緒に写真におさめられている姿を目にする。それを見てわたしたちは「そうか、この牛が売り場に並んでいるんだな」と思う(実際はそうではないのだが)。有り難くその命を頂こうと思う。
いまわたしは、小説と現実を少しごちゃ混ぜにしようとしている。しかし現実に日々起きているのは『テスカトリポカ』が示すような臓器移植ではない。
臓器移植はドナーから心臓を取り出し、レシピエントにそのまま移植される。移植された心臓はそのまま動き続ける。たしかに、そこには「生物学的感傷性」というのが生じるのだろう。しかし、わたしたちが口にする肉はもう既に生命活動を終えた死骸なのだ。なので、そこにセンチメンタリティーというのは発生し得ないのではないか。有難くいただいているのは、生命というより死んだ動物の肉である。
お肉を食べることで、牛や豚、鶏はわたしたちの身体の一部となって生き続けるのだよ。
よく言われる言説なのだが、これはどうにも受け入れ難い内容に思えてならない。食べたときには既に死んでいたし、彼らに対してセンチメンタリティーを感じることもない。
もしかしたら、生まれた時から飼育に携わり、屠畜もして調理する、全ての工程を自ら経験するのであればセンチメンタリティーを感じることができるかもしれない。そうだ、そこまでしなくてはきっと我々は動物たちの命をもらったなどと口にすることはできないのではないか。それ程にわたしたちは飼育される動物との距離がある。
なにより動物と人間を同一に語ることを嫌がる人は多い。
しかし、なぜ同一視してはいけないのか明確に答えることは難しい。『テスカトリポカ』の著者 佐藤究が記した「血の資本主義」が最低最悪の犯罪であることは誰もが容易に同意するだろう。さながら人間臓器ファームを運営して心臓を富裕層に提供しようというのだ。グロテスクすぎる話ではないか。そのグロテスクな構図を、動物たちに対しては不思議と受け入れてしまっているのがわたしたち人間であろう。まさか佐藤究氏も動物を引き合いにして引用されるとは思ってもみなかっただろうか。
先進国に限った話ではあるが、人間はとても裕福な生活をできるところまで世界を進めてきた。人間と動物。この関係をどう見直していけばよいか、わたしはその点に関心がある。是非、ご興味ある方は弊社から刊行されている『B.E. 特集「動物と植物」』をご一読くださいませ。