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親になるということ

本日は祝日ですが、
休日出勤。
コロナ対応の応援職員として働く。

平日の夜間は、
娘(5歳)がいるので応援に行くのは難しい。
だから、その代わりに、休日の応援には、
月に1、2回出勤するようにしている。

夫は冗談半分で
「お国のために働いてきー」
と字面だけ見れば時代錯誤なことを言いつつ、
快く送り出してくれる。

育児も家事も特に苦なくこなせる。
私がいても休日に娘と遊ぶのは、主に夫。
夫が休日に出かけた日に私が公園に連れて行くと、
他の子どもたちに、
今日はとと(夫)じゃないのかと、
露骨に残念そうな様子を見せるくらい。

娘も見事なパパっ子。
休日に出勤して私がいないことも
さして気にしていないと思っていた。

今朝も出かけようと準備をしていたところ、
起きてきた娘。
今日は仕事でいないことを伝えると
「とと と かか、2人とも一緒がいいな」
と言われた。

私を求めてくれていることへの
意外さ、嬉しさ。
希望に応えられない申し訳ないなさ。
色んな感情がふわっと湧き上がる。

「ごめんねー、かかも休みたいけど、
お仕事するってお約束したから、
今日は行くね。次のお休みは一緒だよ」
そう伝えるとあっさり了解し、
いつものように私を送り出す。

親が子に向ける愛情よりも、
子が親に向ける愛情の方が深い。
所謂、「無償の愛」と言われるやつは、
子から親に与えられるもの。

そんな風に感じた日の記憶が蘇る。

出産して、子育てをし始めてからも、
私は自分から「母性」みたいなものを
感じることができなかった。

自分のことを投げ打っても何かしてあげたい とか
この笑顔があれば辛さ帳消し とか
そういう類いのことを
心の底から思うことが正直なかった。

子どもは、
大切だし、
可愛いなとは思う。

でも、
自分のことも大切だった。
笑顔により、
苦しさや辛さ、しんどさがなくなるわけではなく、
一緒に並んで存在している。
そんな感じ。

1歳を少し過ぎた頃だっただろうか。
いつもの散歩道。
テトテトと歩けるようになった娘。
ちょっと離れたところから、
「おいで」と呼びかける。
娘が満面の笑みを称え、拙い歩みで、
真っ直ぐと私のもとに飛び込んでくる。

迷いなく、笑顔で私にかけ寄ってくる、
私を愛することに疑いのない娘。

そんな娘を目の当たりにしたとき、
今まで抱いたことのない幸福感に包まれた。

これが「無償の愛」っていうやつかもしれない。

未だに「母性」というものは、わからない。

でも、娘がくれる「愛」を
守り、育てたい。
その「愛」を受け取るのに相応しい存在でありたい。
それが、親になるということなのかもしれない。