黛灰にハマったヲタクがアルタ前での映像を見て
はじめまして。いもね〜ちゃんと申します。
1週間程前に黛灰にハマり、自分の中で抑えられない気持ちを全部整理して文章化したいと思いTwitterとノートを開設しました。
「この感情を忘れないうちに文章として残しておこう」そんな衝動に駆られるぐらいアルタ前での映像は衝撃的なものでした。
アルタ前の映像に対して「すごい」とか「新衣装かっこいい」だけの言葉で片付けるのは違和感を感じていて、アルタ前の映像は「私達の考えるバーチャルとリアルの固定概念をぶち壊す起爆剤」だったのではないかと思っています。
自分が感じていた違和感を文章にして「可視化」するためにもこのノートを書きました。誰か1人のことを否定したい訳でも責めたい訳でもなく、思想の違和感や固定概念に疑問を投げかけ、この文章を読んでくれた誰かの【気付き】になればと思っています。
ヲタクになって日も浅いので知識が足りない点や解釈違いなどあるかと思いますが、ヲタクの独り言だと思って読んでくだされば幸いです。
【ハマったきっかけ】
自分はもともと他界隈のヲタクだったのですが、友達からのにじさんじの布教を受け、動画を見ていくうちにキレのあるワードセンスと普段は冷静沈着なのにエンタメのことになると全力で笑いを取りに行く姿勢に惹かれて「黛灰」を好きになった新米ListeNerdsです。
【黛灰の物語】
過去動画を漁りはじめて2日ほど経った時だったでしょうか。「黛灰の物語」の存在を知ったのは。3Dお披露目の最後(動画54分30秒ぐらいから)に倒れてしまった黛灰を見て本当に体調が悪いのだと思い、得体の知れない恐怖に包み込まれたのを鮮明に覚えています。
倒れた後に流れた映像に動揺しつつも彼の世界に引き込まれ、物語に関する過去動画を遡り、リスナーの方が作ってくださった「黛灰の物語の解説動画」を見て、黛灰の生まれた環境や師匠との関係、そしてこの物語で何を伝えたいのかをずっと考えていました。
【黛灰の物語で伝えたいことは何か】
まず、この物語で1番に伝えたいこととは「エゴを押し付けるリスナーへの警告」だと思ってます。黛のリスナーに限らず、全てのジャンルにおけるリスナー、ファンにも当てはまることだと思います。
「引退してほしくない!」っていう感情はファンであれば当然の感情だと思うし、出来るだけ長く活躍を見ていたいと思うのがヲタクという生き物だと思うんです。
だけど、それを演者に対して押し付けてしまったり、自分のエゴで演者を思い通りにさせようとしたり、人物像を勝手に作り上げてしまうのはただのヲタクの自己満になってしまうんですよね。応援してるんじゃなくて、自分の思い通りになって気持ちよくなってるだけ
リスナーである私達はあくまでも見守る存在であるべきであって、黛灰を操る存在じゃない。
黛灰は私達の操り人形じゃない。
Twitterのアンケートでリスナーに黛灰の選択を委ねることによって皮肉としてこの一番伝えたい部分を提示しているのかなと私は思いました。
私が黛灰の物語を知った時にはTwitterアンケートは投票が終わっており、野老山教授はリスナーの手によって削除されていました。黛が現実世界にいってほしくないというエゴから黛の大切な師匠であった野老山教授を削除してしまった。リスナー自身が黛の嫌いな「単眼」になってしまった。
「選択しないこと」もまた選択でリプで「選択肢を増やすこと」も一つの選択だった。
リスナーは、自分は、黛灰が幸せになるために何ができるのだろうと頭を悩ませていたのですが何もしないというのも視野に入れるべきだったのかなと。
ハマって1週間で黛灰のことを幸せにできる方法が自分にとって今のところない状況に自分の無力さを感じ絶望感すら感じました。
そもそも、「黛灰にとっての幸せ」が何かを提示されてない時点でリスナーはどう行動すればいいかも分からないんですよね。黛は何がしたい?
黛にとっての幸せって何だろう?
【6/19 黛灰に関する一本の映像】
6/19 、18時30分から新宿アルタ前にて流れ出した2分20秒ほどのメッセージ。
黛が自分が生きていた世界が現実世界ではないことに気付いてしまい「自分がただの1キャラクターで空想上の産物に過ぎないことを知った」「どこかの誰かが描いた伽藍堂の側でしかなかった」とバーチャルとしての姿を失いながらも訴える姿をみて言葉を失いました
「黛灰」という人間を好きになったのに本人が伽藍堂の側という自分を卑下するような発言をしていることがどうしようもなく辛かった。
こんなにも黛灰のことを愛している人間がいるのにそれが届かない。黛が生きたかったリアルに生きる私達が黛に何を言ってもそれはもう皮肉にしか聞こえない、そんな状況にまた絶望の音がした。
「どうしてそっち(私達のいる現実)がリアルでこっち(黛がいる世界)がバーチャルなの?」という最後の黛の問いかけだが、
そもそも私達の住むこの世界は現実世界なのだろうか?
「ここは現実世界なのか?」という疑問も抱かないまま私達は生きてきた。黛が「自分が現実を生きている人間」だと思っていたように。
私達もまた筋書き通りに決められた物語を辿っている操り人形なのかもしれない。
なぜ自分達リスナーが物語を見ている側だと錯覚していたのだろうか。
黛灰の人生を物語として見てしまっているリスナーがいるようにリスナーをまた別の次元からシナリオ通りだと笑うように見ている者がいるのかもしれないのに。
6/19の映像をこの大変なご時世でYouTubeでもなくアルタ前で流したのか? ただ投げかけるだけだったらYouTubeで全国の人が見れるようにすればいいだけじゃないですか。わざわざ莫大なお金をかけてアルタの広告に映したかった「理由」が絶対あるはずなんです。
考えられる理由として
一つ目はリスナー以外の現実を生きる人にも自分がどう見えているのか黛自身が客観的に知りたかったから
二つ目は何百人もの人がアルタ前の映像を見るために新宿まで来て動画を撮っているその光景がリスナーもまた操られているというメッセージなのではないかと個人的に考えています。
黛灰の存在を知らない通行人が「映画の撮影かな?」という疑問を口にしていたのを見て傍から見たら私達も物語のシナリオの一部なのかとハッとさせられました。
アルタビジョンに映る黛灰、そしてその黛灰の動画が始まった瞬間に耳を傾けカメラを向け出すリスナー。知らない人からすれば演説者とその言葉に賛同して集まった支持者のような関係に見えてもおかしくないんです。もはや宗教活動のような恐怖を覚えた人もいるかもしれません。
アルタのビジョンとそれを見るたくさんのリスナーの異様な構図の写真がTwitterに出回っていましたが、そのことすらも狙っていてシナリオ通りだったのではないかと思っています。
Twitterでの反応までも物語の一部にされているような気がしてなりません。
こうして私が文章を書いてることさえも、物語のピースになってしまってるんですよね。
もしかしたら、今日のアルタ前に集まった何百人ものリスナー、Twitterでさまざな発言をするリスナーを第三者がどこからか見てるのかもしれません。
【黛灰のツイート】
アルタ前での映像が始まった時間に
「Error message: セッション内に異常を検知しました。」https://twitter.com/mayuzumi_x/status/1406182468835692546?s=21
映像が終わった瞬間に
「System message:当該シナリオ及びセッションの安全な維持のため、エラー要因の削除を実行しています。」https://twitter.com/mayuzumi_x/status/1406183221532848130?s=21
黛灰の公式Twitterからこの文章がツイートされた。
このことから考えると
セッション内の異常=黛灰が2434システムの線引きを超えて現実世界に干渉してきたことによるもの
エラー要因の削除=黛灰の記憶の削除
だと私は考えています。次、黛に会う時には「はじめまして」になってしまうのかな。リスナーのこともにじさんじのメンバーのことも忘れちゃうのかな。黛灰の存在も周りの人の記憶から消えてしまう可能性があるのが本当に怖い。
【👁】
黛灰の人生を物語と言ってしまってる時点で私も野老山教授の言っていたような「彼の物語を物語として楽しんで傷ついて感傷に浸り切った自分を見せたいだけ」の人間なのかもしれない。
黛灰のことを心から想って理解することができているリスナーはどのくらいいるのだろうか。
今日のアルタ前の映像から伝えたいことは新衣装発表ではなく、黛灰からの、そして黛灰でも教授でもない「第三者」からのメッセージかもしれない。それを読み取れていた人はどのくらいいるのだろうか。
自分のこの感情が、記憶が、消えないうちにここに書き記しておこうと思う。黛灰という存在が続くように。
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