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2021年1月日記

以下の文章は2021年の1月に読んだ本とその感想や日々思ったことをまとめた日記です。

1/1 『禅とオートバイ修理技術』

1/2 『禅とオートバイ修理技術』『ぼくはなぜ小屋で暮らすようになったか』『スエロは洞窟で暮らすことにした』

・この日の日記は暗かった。生活リズムが崩れるとろくなことを書かない。

1/3 『禅とオートバイ修理技術』『ぼくはなぜ小屋で暮らすようになったか』『しないことリスト』

・「資本主義から背を向けて、うまくやっていきましょう」的な本にはあまり魅力を感じない。そんなことは無理だ。資本主義をサバイブしつつ、東京を楽しむ本が読みたい。

1/4 『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』『習得への情熱』

・コロナ騒動も、あるいはその他の問題でもそうだけど、「事実を伝えれば、相手は自分と同じ結論に至るはずだ」という発想は傲慢でしかない。また、自分のことを「賢い」と自己分析している人ほど、データを恣意的に解釈する傾向にある。

1/5 『習得への情熱』『もういちど読む山川哲学』『哲学ノート』

1/6 『禅による生活』

1/7 『本は床で抜けるのか』『禅による生活』『読書の腕前』『死をポケットに入れて』『DIE WITH ZERO』『旅をする木』『感じて、ゆるす仏教』

・東洋思想、特に禅に関する本は読んでいて面白い。一見、意味の分からない禅問答にも意味があると納得できたのはよかった。
・『DIE WITH ZERO』、要は無駄な貯金なんかする暇あったら、いましかできない経験にも投資しようぜという内容。おおむね同意するし、むしろそういう生き方をしている。一方で、こういった効率の観点からベネフィットを最大化する考えにはなんとなく違和感を抱いてしまう。うーん。いつか言語化してみる。この本もそうだが、誕生日にいろんな人がたくさん本を送ってくれた。感謝しかない。むろん頂いた本の中には、必ずしも肯定的な評価ができない本もあるんだろうけど、それも含めて経験として楽しもう。

1/8 『感じて、ゆるす仏教』『李歐』『旅をする木』

・『感じて、ゆるす仏教』についてはnoteにまとめた。ガンバリズムを経ないといけない時期はある気がする。

1/9 『李歐』『三行で撃つ』『職業としての学問』『流れとよどみ』『パンセ』
 
・『李歐』は本当に傑作。数年ぶりに読み直したが、はじめて読んだとき以上の衝撃を感じられた。また読み直すと思う。はじめて読んでから、一時期、高村薫にドハマりして、手に入る限りの本を取り寄せたのを思い出した。彼女の本は、作風的に前期と後期に分類されるんだけど(なにか彼女の中で変化があったんだと思う)、ぼくは圧倒的に前期が好き。てか『新リア王』なんか、父と息子(だったと思う)が一生2人で問答してるだけで、アレを楽しめた人いるのか?高村薫~~~、こんなこと言うのは失礼も承知だし、そもそも読んでないと思うけど、もし可能なら前期のような感じで頼む~~~

1/10 『パンセ』

・パスカルの人間観察には本当に驚かされる。読んでいて飽きない。ただ中盤~後半のキリスト教の部分はよくわからない。結局、中盤までを何度も読み直している。

1/11 『キッチンの悪魔』『パンセ』『エリック・ホッファー 魂の錬金術』

・『キッチンの悪魔』は「あ、いまじゃなくて、もう少し寝かせてから読んだ方が面白いな」と思ったので、積むことにした。次に開くのが楽しみ。

1/12 『波止場日記』『文章心得帖』『エリック・ホッファー 魂の錬金術』『パンセ』

・エリック・ホッファーの労働と思索を積み重ねるスタイル。頭でっかちのアカデミストにはできない芸当。
・『ハンチョウ』がまさに自分が求めていた本だと気が付く。何度も読み直しているが、飽きない。noteにまとめた。

1/13 なし

・本読むの、というかなにもかもだるい。こういう日もある。晩飯食ってから寝るまで、ひたすら『ガンダム・スターダストメモリー』を観て終わった。本当に名作。91年のアニメだとは思えない。やはりニナ・パープルトンはカス女。

1/14 『不寛容論』

・なんかつかれた。だるー。

1/15 『不寛容論』 

・晩飯を食って本を読んだ後、ガンダム08MS小隊を観直そうとしたけど、主人公にイライラしすぎて観るのをやめた。残念。無能すぎるリーダー。昔はわくわくして観れていたのに、かなしいね。

1/16 『不寛容論』

・『不寛容論』、めちゃくちゃ面白かった。寛容という言葉は自らが相いれない存在を前にしてはじめて意味を持つ。はたして自分は相いれない他者に対して寛容でいられるか?Twitterでは少なくとも無理だ。対話の可能性には限界があるのでは?とはいえ寛容の精神を忘れるべきでもないが。

1/17 『はじめてのスピノザ』『欲望の資本主義3』

・『はじめてのスピノザ』は『責任という虚構』に通じるものを感じた。つまり、人間には自由意志は存在しない。
・『欲望の資本主義3』は正直面白くなかったので途中でやめた。内容が薄い。Kindle Unlimitedなのでタダみたいなもんなのが救い。つーか、マルクス・ガブリエルって結局どういう哲学者なんだ?よくNHKとかでも取り上げられている気鋭の哲学者なんだが、ぼくが不勉強なのかわからんが、さっぱり彼の唱える哲学が耳に入ってこない。マイケル・サンデルなんかはわかりやすいコミュニタリアニズムの論者だったし、『これからの正義の話をしよう』はわかりやすい哲学入門の側面も持ちつつ、アリストテレスの共通善の重要性を訴えていたわけだけど、マルクス・ガブリエルってそういうのなくね?なんかイケメンでそれっぽいこと言ってる有名教授だから取り上げられてるだけなんじゃねーのという偏見すらある。彼の著作も読んでいないのに、こんなこと書くのはよくないんだけど。

1/18 『漂泊のアーレント 戦場のヨナス』『パンデミックの倫理学』

・なんかだるい。まあ本は読めたけど。

1/19 『漂泊のアーレント 戦場のヨナス』『パンデミックの倫理学』

・『漂泊のアーレント 戦場のヨナス』には感動した。迫害の時代を生き抜いた二人のユダヤ人哲学者。あとアーレントの「特権を認めてほしいな。あなたがまだ食べている間に、私が煙草を吸い始めてもいい、っていう」、これで惚れない男がいるのか?実際、ヨナスは惚れてしまった。かわいそう。
・ヨナスは「未来への責任」をキーワードに、いままだ存在しない世代と現世代を結ぶ倫理学を創った。その一方で、アーレントはそれを批判した。アーレントにとって、あくまで責任とは、対話、具体的には現世代の、それも大人のみが参加する公的領域においてのみ成立するものであった。なによりアーレントは、生命の保護と人類の存続というテーゼが絶対化されることを拒んだ。同じ時代を生きたユダヤ人哲学者だが、ここまで考えが違うのか。シオニズムに若かりし頃は傾倒して戦場にも赴いたヨナス、あくまでユダヤ人というアイデンティティを否定したアーレントの生き方の差なのかもしれない。
・『パンデミックの倫理学』は本当にいま読んでおいてよかった。これから何度も手にすると思う。「ウイルスについては医者のいうことだけ聞いてればいいんです」的な空気が本当に嫌だったんだけど、この本を読めて自分は間違ってないなと確信できたのはよかった。むろん、ウイルスの予防/感染拡大を防ぐためには医者の言うことは聞かないといけない。しかし、それはそれとして、人間は家に引きこもってれば生きていける生き物なのかと言われると絶対にそんな生き物ではない。「引きこもりとか余裕」という人もいるだろうけど、その「余裕」にも個人差がある。経済的な問題もあるし、そもそも「人間の移動を簡単に制限していいのか?」という自由の問題もあるだろう。だからこそ、いろいろ勘案した上で、総合的な判断が必要になるよねって話。

1/20 『すべて真夜中の恋人たち』『ハンス・ヨナスを読む』

・とくになにもない。書くこともない。おわり。

1/21 『ハンス・ヨナスを読む』『すべて真夜中の恋人たち』『人間の条件』『パンセ』『〈責任〉の生成〉『今こそアーレントを読み直す』

・『ハンス・ヨナスを読む』がとても面白かったので、ハンス・ヨナスの著作を取り寄せようとしたら、Amazonでプレミアついて3万円弱だった。死んでほしい。3万円の本を躊躇なく買える身分になりたい。金。
・『すべて真夜中の恋人たち』もとてもよかった。そこにあるもの。不確かなもの。

1/22 『〈責任〉の生成〉』『責任という虚構』『はじめてのスピノザ』『暇と退屈の倫理学』『大衆の反逆』 

・『暇と退屈の倫理学』のラストは「ここまで読んで考えたことに意味がある」というもので、数年前は「なんだよ、丸投げじゃないか」と納得できなかったのだけど、『はじめてのスピノザ』を読んで納得できた。要はデカルト的な普遍的な真理ではなく、スピノザ的な自己をアップデートしないとたどり着けない真理として、暇と退屈の問題を考察していたということ。
・『〈責任〉の生成〉』における熊谷さんの障碍者論はとても面白い。通常の障害が外的環境に依存されない形で描写される、例えば下半身不随の人は「足が動かない」と描写されるのに対して、統合失調症などは外的環境を前提に「周囲とコミュニケーションがうまくとれない」といった形で描写される。後者の記述に問題があるのでは?という指摘。
・あと予測誤差という概念も面白い。これは赤ん坊や幼少期はなかなか自分の予測と現実がかみ合わず、経験を新鮮なものとして受け入れられる一方で、年齢を重ねるごとに、その予測誤差は小さくなっていく。そもそも予測誤差が大きすぎると人間はストレスを抱えてしまうし、我々は予測誤差を小さくするために行動をとる生き物。で、あるにも関わらず、退屈、つまり予測誤差が限りなくゼロに近い状況にも耐えられない生き物である。
・あと、健康な人間が過去のイベントをカテゴライズすることで情報を処理しているのに対して、自律神経失調症やADHDといった精神疾患の患者さんは、あくまで目の前の出来事を特別なものだと捉えてしまい、それによって処理速度が健康な人間より遅いのではないかという指摘。

1/23 『大衆の反逆』『死をポケットに入れて』『遠い太鼓』

・『大衆の反逆』は100年近く前に書かれた本であるにもかかわらず、書いてあることがそのまま2021年の現代に当てはまる。オルテガの「貴族主義」志向(社会階層的な意味での「貴族」ではない)にはやはり反論もしたくなるが、しかしその洞察自体は鋭いし、むしろこの本は「大衆とならないためにどう善く生きるべきか?」を説いた自己啓発本ともいえるかもしれない。まあオルテガは「大学教授とふつーの主婦が同じ一票なのはおかしいだろ」と公言していたような人なので、べつに『大衆の反逆』を自己啓発本として書いたわけではないんだろうけど、そういう読み方もできますよねって話。
・ 呪術廻戦のアニメは本当によくできてるし、Chef's tableはとても面白い。Chef's tableに出てくるシェフの人生、だいたい波乱万丈すぎる。まあ普通にうまくいった人の人生をドキュメンタリーにされても困るが。
・哲学ガチ勢(博士課程)の友人と論文を輪読することになったので、その準備。題材は『平等主義基本論文集』、まずはロールズから。ただロールズは無知のヴェールくらいしか知らんけど、ついてけんのかな。

1/24 『遠い太鼓』『〈責任〉の生成〉』『暇と退屈の倫理学』『パンセ』『平等主義基本論文集』『情報生産者になる』『啓蒙とは何か』『フェルディドゥルケ』『あえて選んだせまい家』

・ぼくは本当に散髪が嫌いなんだけど、なんで散髪したくないのかうまく説明できなかった。ランチをした知り合いに「世捨て人になりたいっていう願望があるんじゃない?」と言われて納得した。その通り。まあ本当に世捨て人にはなれないので、せめて散髪という「まともに社会で生きていけてますよ」とアピールする行為からは逃れたいということなのかもしれない。
・とはいえ、散髪はやはりすべき。同じくランチをしていた親友から「散髪したくないのはわかった。嫌いなのもわかった。でも例えば今日は高級ホテルでランチだろ?友人といいご飯を一緒に食べたいなら、そこは例えば『長髪でも問題ないように身だしなみを整える』とかそういう折り合いはつけるべき。実際、俺がおまえと雑な飲み屋で飲むときはケチつけへんやろ?場所を考えろって話なんや」と昏々と諭されて、いやもう本当にごめん。ぼくはガチの散髪嫌いなんだけど、それはそれとして、半年に一回だけの散髪はやりすぎなので、頻度をあげます。
・老人と若者の世代対立について。上野千鶴子氏の言動は対立を煽るもの。一方で、「老人と若者のいる社会はゼロサムだから仕方ない」という指摘があったが、そもそも本当にゼロサムだと想定していいのか?
・『平等主義基本論文集』、わからん。とりあえずロールズの論文読んでるけど、わからん。輪読いけるこれ?
・『あえて選んだせまい家』、ざーっと読んだけど、まあ本持ってるやつおらんかった。解散。紙の本が好きなぼくとしては、お金がないから狭い家に住むことはあっても、あえて住むことはないです。金が欲しい。宝くじあたんねえかな。

1/25 『フェルディドゥルケ』

・ 『フェルディドゥルケ』、マジで面白い。自己という存在は2種類の幼児、すなわち自己の中にいる幼児性と、他社の中にいる自己の幼児性によって規定される。この2つに囚われて、息ができない主人公。成熟を拒む30歳をすぎた大人。リプライで知ったのだが、90年代の文壇でちょっとしたブームになった作家らしい。

1/26 『〈責任〉の生成〉』『フェルディドゥルケ』『死をポケットに入れて』

・決まった時間に決まったことをやるのは大事。たとえば眠剤を夜24時になったら飲むとか、朝8時半にはご飯を食べるとか、あるいは在宅でも外生きの服に着替えるとか。ぼくはすぐ気が散ってしまって、目の前のTo doを放置してしまうことが多い。脳がマルチタスクできるようにできていないので、シングルタスクでもうまくまわるように生活を整えないといけない。
・『フェルディドゥルケ』、形式/部分は全体を規定してしまう。そこからいかに自由であるべきか。自分を規定しているものと同じであることはやめなければならない。永遠の未熟者。
・Chef's tableのブラジルのシェフが最高にかっこよかった。料理人であり、哲学者であり、地域コミュニティへの還元を常に考えている。放浪した時期もあったようだ。タトゥーも多い。アウトサイダー。

1/27 『フェルディドゥルケ』『パンセ』

・知り合いから勧めてもらった漫画『チ。-地球の運動について-』がバカほど面白い。天動説が当然とされていた時代において、地動説を訴えた人間の群像劇。最近読んだ漫画だと、ブッチギリで一番面白いと思う。
・あと恥ずかしながら『スラムダンク』をいまさら読み始めた。30年近く前の漫画とは到底思えん。当時の少年たちが熱狂してたのはよくわかる。ただバスケというスポーツに、正確にはバスケをやってる人間(チャラいリア充と言い換えてもいい)にあまりぼくがいい印象をそもそも持っていないのと、『スラムダンク』も不良がバスケに目覚めるというストーリーなので、めっちゃのめりこめないのはやや残念。「安西先生、バスケがしたいです」は普通にマジで泣いたが。
・親友から「最近のツイートちょっとおかしいぞ」と指摘を受けた。ぼくはよく質問箱でアンチにわざわざ返す人間のことを「ストレス抱えるからやめたほうがいいのに」と思ってみてたんだけど、一方で、ぼくも明らかな極論をいう人に対して「おかしくね?」と指摘することが(おそらく以前よりは)増えている。極論に言及することでアドレナリンが出るんだろう。まともな人間は、極論をいう人のことはスルーするので、極論をいう人に意見する行為そのものが「こいつもこいつでおかしいぞ」と思われてしまう。ぼくが「違うんです!!極論マンと一緒にしないでください!!!」と言ったところで何の効果もないから、シンプルにそういう人への言及は今度控えます。いや、するかもしれないけど、相当頻度は落とします。あと、なにかを語るときの言い方も偉そうに見えてしまうことがあるらしいので、そこも気を付けよう。こういうのは自分ではわからないので、指摘してくれる友人がいることはありがたい。
・神田の天下一品、マジでうまい。特に炒飯。「正直、チェーン店なのに店によってそんなに違うかな?」と自分の舌を疑っていたんだけど、リプライでも「あそこの炒飯はうまいですよね」と反応があったので、たぶんマジでうまいんだと思う。
・ぼくはメシを食う前にそのジャンルの料理漫画を読んで、テンションをあげるという習慣がある。今日は天一を食う前に、『ラーメン発見伝』をいまさら読み直してみたんだが、この漫画はマジで化け物ですね。ラーメンマニアの主人公とラーメンプロのハゲの対比がすごい。

1/28 『フェルディドゥルケ』『平等主義基本論文集』

・一緒に『平等主義基本論文集』のロールズ論文を輪読予定の友人に「申し訳ないんだけど、輪読のタイミングずらせる?むずい」と正直に打ち明けたところ、「これは普通に難しいから時間かけて読み込むより、とりあえず意見を出し合おうよ。ほかの論文が理論そのものの説明をしているのに対して、ロールズの論文は理論を説明した『正義論』に対する追加の説明で、本の部分が理解できている前提で書かれているから、論文集の冒頭なのに、じつは一番難易度高いと思う。気にせずやろう。ぼくも研究室で『正義論』を確認しておくよ」と返された。ほんとに頼りになるガチ勢だ…………土日どっちかに意見交換やるか。むずすぎてぶん投げそうになった、というかぶん投げてたけど頑張る。
・紙のノートとPCメモ帳の使い分け。ぼくは寝る前にノートを目の前において、なんとなく思いついたことをふわふわ書いて、一方でPCのメモ帳(この文章もメモ帳に書かれている)にはある程度まとまった文章を書いている。前者が抽象的、というかもはや支離滅裂になっているのに対して、後者はあとで読んでもわかるように一応はちゃんと文章にしている感じ。ただ、どっちが優れているとかは特になくて、たぶんどっちも大事なんだろう。思いついたことを紙のノートに書いて、それが後日、なんらかの形で自分に落とし込めることもあるし。こういう感じで日記をつけるのははじめてなんだけど、いまのところ捗っているから継続。noteにして公開するかはまだ決めてないが。つーか、Twitterで「この本面白いですよ~」とか「ぼくはこう思います~」とかはいつも書いているんだけど、このメモ帳はあまりに赤裸々すぎる。紙のノートに至っては、赤裸々以前に、寝る前に書いていることもあり、内容が意味不明なので公開はありえないが。しかし、少数ではあるけどTwitterのリプやDMで「考え方が面白いです!」とか「あなたのオススメなら信用できます!」と言ってくれる人がいるのは、まあうれしい。別に自分がひまだからやっているんであって、その人たちのためにやっているわけではないんだけど、それはそれとしてうれしい。
・ロールズの論文、意味わからなさすぎる。なんで数式がでてくるんだよ。「ノイマンモルゲンシュテルン効用」ってなんだよ。土日の輪読ほんまにイミフで終わりそうでつらい。つーかこの論文なに?とりあえず読んだ。わからん。

1/29 なし

・散髪した。すっきり。
・エヴァQ観てる。正直二度は見たくなかったけど、ヴンダー発艦シーンはめっちゃテンション上がるな。あと意外に映画を楽しめた自分がいて、なんならシン・エヴァンゲリオン前にもう一度見直してもいい。数年前に劇場で観たときはブチギレてたのに何で楽しめたんだろう。作品は変わってないのに。ぼくが変わったんだ。
・こたつで寝落ちしたら3時半になってた。美容院の頭皮マッサージがきもちよすぎて、一日中ずっと眠かった。明日は本を読もう。つーか明日Amazon午前中に届くのに何で寝ちゃったんだろう。起きるのだるい。

1/30 『フェルディドゥルケ』『死をポケットに入れて』『ライフワークの思想』

・昨日寝る前に紙のノートにいろいろ書いてたことをまとめてみる。以下4段落。
・著作権と責任の問題について、著作物の定義は「「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」(著作権法第2条1項1号)」ということらしい。かみ砕いて書くと、オリジナリティがあるかどうかということだ。でも例えば既存の文献をまとめたものにオリジナリティはあるのだろうか。どういう観点からまとめ直したのかというのが大事になるのかもしれない。ただのコピペはだめだろう。独自の観点での「まとめ」はオリジナリティがあるといえるのか。そもそも情報がtoo muchすぎる現代では、むしろ不要な情報を「けずる」行為にこそオリジナリティが現れる?独自の視点とはそもそもなにか。それはどのように生まれるのか。これって「責任」の概念にも通じるものがあるな、となんとなく思っている。「人間には自由意志がある」「よってお前の行動には責任がある」と論じるのは果たして正しいのか。そもそも自由意志なるものは存在するのか。我々は環境に大きく影響される生き物だし。『責任という虚構』では「人間に自由意志はない。社会が成立するために責任という虚構を創造し、その結果として自由意志が存在すると仮定されたにすぎない」と論じられていたけど、つまり「自由意志は存在する」と「断言」することに意味があるんだという話で、これって「オリジナリティってそもそもなに?」っていう著作権の話にも通じるのかなと思った。あらゆる作品はその作者がこれまで読んだ作品に影響を受けている。でも、そこになんらかの「オリジナリティはある」と断言することに意味がある。実際にオリジナリティなるものが存在するかはさておき、断言する。これにより責任という虚構が成立する。もう少しまとまったらちゃんと書こうかな。
・とあるツイートで元自衛官の人が「なぜ日本軍は負けたのか。〇〇していれば勝ったとか、架空のたらればをいう分析に意味はない。むしろ、なぜその敗北にたどり着いたのかを分析する必要がある」と言っていた。これ、すげー大事な指摘だと思う。よくいろんなニュースで「たられば」を見るけど、そこにあまり意味はないよね。なぜ賢くて経験豊富な人が誤った結論に至ったのか、その過程を分析すること。
・数日前に哲学者の千葉雅也さんが大炎上していた。ツイート内容としては「性に関わる自然的な「そうならざるをえない」が定期的に訪れるという意味では、女性の生理と男性のマスターベーションには似たところがある。十分知られていないかもしれないが、男性はマスターベーションをしてもしなくてもいいのではなく、切迫が生じるので、する必要がある。」というもの。これに対して「オナニーと生理を一緒にすんな!」と大炎上。その後の千葉さんの説明によると「だれがオナニーと生理を一緒にしたんだ。2つの異なるものに共通点があるといっただけ」「ちゃんと文章を読む訓練をしろ。前後の文脈も含めて」ということだった。まあ、でも燃えるよね。Twitterって文脈の切り取り/誤読は発生しやすい。まして生理なんていうセンシティブな事象。そこに「お前らが読まないのが悪い」的な態度をとるのは、やや書き手の傲慢にも思える。彼は特に間違ったことは言ってないが、自分が燃えたことを受けて「はー、3.11前のTwitterはよかったな」なんていうのはちょっとなあ。いい悪いの問題ではなく、そういうツイートをしたら、燃える。ただそれだけ。べつに彼のツイートが悪いとは必ずしも思わないが、明らかに燃えやすい話題を投下したんだから、そこは燃えても仕方ないって割り切りも必要だと思う。
・村上春樹っていつからPC使ってるんだっけ。『ノルウェイの森』は全部手書きだったと『遠い太鼓』で読んだ。ぼくも少しは文章を書くからわかるけど、PC/スマホ/手書きではそれぞれ全然違うスタイルの文章になる。むろん「文章を書く」という意味では全部同じ。ただデバイスを身体の延長ととらえるなら、どのデバイスを用いるかでアウトプットは異なる。手書きの春樹をまた読んでみたいな。
・以上、昨日寝る前の手書きメモより抜粋。今日マジで眠すぎて何もやる気が起きない。昨日のこたつの寝落ちダメージが体に来てる。
・緊急事態宣言が1か月延長らしい。勘弁してよマジで。
・『フェルディドゥルケ』、もうすぐ読み終わる。本当に面白い。ぼくみたいに永遠のモラトリアムを送りたい人間にはブッ刺さる。ぼくは主人公みたいにキモくないと信じたいけど。
・「書くことの第一目的は愚かな自分の救済である」とブコウスキーは言っていた。その通り。日記をつけてはじめて気が付いた。
・このメモをnoteに公開するかどうかについてすごい悩んだんだけど、結局やめた。パブリックにするのはセンシティブすぎる。TwitterのDMで「読みたいです!」と言ってくれる人だけに送ることにした。いろんな人から「きみの文章ならお金とっても怒られないよ」「有料noteにすれば?それがいやならFansでもいいじゃん?」と言われたのはすごいうれしい。うれしいけど、絶対にやらない。まず、ぼくは自分の文章が人様からお金を頂けるようなものだと思っていない。ましてこんなつらつらと書いているだけの日記なら、なおのこと。おそらくTwitterの「いわんこ」というキャラには少数のファン(と書くのは大変恥ずかしいが、あえてそう呼ぶ)がいてくれていて、彼ら向けに有料noteを書くのはおそらくできる。ひと記事500円にしてもたぶん買ってくれる人はいる。おこづかい稼ぎにもなるだろう。でも絶対にしない。ぼくは文章でお金を稼ぐ人を心から尊敬している。専業のプロであれ、あるいは兼業のアマであれ。なにより「文章でお金を取る」ということは、お金を払ってくれた人に責任を持つということだ。これまでのように「好きだから読んでるんでしょ?いやなら読まなくていいよ」なんて言い訳は通用しない。たとえnoteの価格が100円であっても5000円であってもこれは変わらない。べつに有料noteやFansをやっている人を批判するつもりはない。好きにすればいい。ただ、これはぼくの問題、ポリシー、信念と言い換えてもいいけど、文章でお金を取るというのはそういうことだと思う。べつにこれは文章に限らない話だと思うけれど。なんで文章にだけこんな強いこだわりがあるんだろうな。文章を書くことが好きだから。とどのつまり、それに尽きる。
・明日午前10時から友人と論文の輪読。ヤバい。2回しか読んでない。軽い気持ちで声掛けたら、ガチでレジメまで作ってきてくれた。もうあとにはひけない。ひー。
・前言を撤回するようだけど、やっぱりnoteで公開するか悩むな。1月だけ公開して2月以降はDMくれた人だけとか?あー、このオールオアナッシングのnoteの仕様がほんとに嫌だ。はてぶよりは気に入ってるしなあ。なんで悩んでるかというと、ありがたいことに読んでくれる人の人数がそこそこいて、単純にDMを一人一人に送るのがめんどくさいからです。でも、これはこれでメリットがあって、一人一人からリアクションが返ってくるのはうれしい。いちばんいいのはメルマガみたいな形式なんだろうけどね。いまさら誰がメルマガをやるねんという話。やっぱnoteのマガジンか?と思ったけど、金だけはとりたくない。でも読む人はある程度絞りたい。困ったなあ。
・映画『ボビー・フィッシャーを探して』を見た。これは大変な傑作。『クイーンズ・ギャンビット』の薄っぺらさとは大違い。ジョシュはなにも変わらない。成長したのは周りの大人たち。

1/31 『平等主義基本論文集』

・友人のレジメ読みつつ、ロールズの論文を読み直した。ようやくなんとなく意味が分かってきた、気がする。とりあえず最初読んだときの「あ、もうだめ」感は消えた。今日朝10時から勉強会やるぞ。
・勉強会めっちゃよかった。あとでまとめる。
・ヘッドスパ最高。人生初だったけど、あまりに気持ちよくて寝落ちしてた。
・ロールズの論文『アレクサンダーとマスグレイヴへの回答』を読んだ。そもそもこの論文はロールズの主著『正義論』に対するアレクサンダーとマスグレイヴの反論に対して、ロールズが再反論したものなので、『正義論』の内容を理解していることが前提の論文となっている。「どこが基本論文なんだよふざけんなよ」と思って読んでいたが、友人と読んでかなり理解が深まった。
・ロールズは原初状態(まあ人間が国家を建設する前の状態だと理解していい)を「無知のヴェール」という言葉で表現した。これは「もし国家の候成員が、自身の容姿/経済的ステータス等の自身に関する一切の情報を知らない(=無知のヴェールで覆われている)と仮定して、そこから公平かつ善をなす国家像を描く」というスタンス。ロールズの原点は(友人曰く)功利主義、つまりベンサムの「最大多数の最大幸福」を批判するところからスタートした。例を挙げる。国家の構成員がAとBの2人だけだったとする。AとBの効用(幸福を点数化したものだと思っていい)がそれぞれ、60と40であったと仮定しよう。この場合、効用の合計値は100だ。古典的功利主義は、なんらかの政策によってAの効用が80となり、Bの効用が30となることを肯定する。なぜならば2人の効用の合計値は110となるから、国家としては「正しい」政策なわけだ。これに待ったをかけたのがロールズで「自分が無知のヴェールで覆われていたとするなら、自分がAなのかBなのかはわからない。よって仮に一番の弱者(今回であればB)が損をするような政策をとるべきではない」と彼は主張した。つまり、古典的な功利主義者が効用の「平均値」に注目したのに対して、ロールズは社会的弱者を見据えつつ、効用の「分散」にも注目した政治哲学者だといえる。実際、アメリカのアファーマティブアクション(ざっくり書くと、黒人や女性といった社会的弱者にゲタをはかせること。大学の入学者のうち、最低でも3割は黒人にする)なんかはロールズのこの考え方に影響を受けた(らしい by友人。)
・このロールズの考えを批判したのがアレクサンダーとマスグレイヴ。前者はすごいざっくり書くと「おまえも功利主義の亜種なんじゃね?」というのをよくわからん数式を使って指摘し、後者は「マルクス的な共産主義と一緒じゃねえの?恵まれた生まれとか才能に人頭税でも課すつもりなのか?」と指摘した。
・アレクサンダーに対するロールズの回答は「その数式に入る変数がどういう構想で使われてるのかを見ないと意味がないよね。その数式に入る前のお話だよね」というものだった。ここは友人とも議論したんだけど、ぶっちゃけ友人もここはよくわかっていないとのことだった。なんやねんこの数式。なんとなく言いたいことはわかるけど。
・マスグレイヴに対するロールズの回答は「否定はできないね。でもぼくが言いたいのは、仮になんらかの税制によって、富裕層の資本が貧民層にまわるとしても、それが許容されるのは富裕層の自由の侵害がなされていない限りにおいてだ。あと人頭税はありえないけど、才能を合理的に見積もる税制があるならOKじゃない?」というものだった。ロールズの掲げる「自由」とは思想の自由と良心の自由、身体の自由と政治的自由であって、そこには富を際限なく確保する自由は含まれていない。ロールズがリバタリアンから批判を受けるとすれば、まさにこの「自由」の定義の差に他ならないだろう。リバタリアンは個人的な自由に加えて、経済的な自由も追求することを是とする。
・やっぱ自分より勉強してる友人とこうやって一冊の本に取り組むのはいいですね。すごい勉強になった。

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