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『都会でいい感じで暮らす方法』についてのメモ


上記リンクの書きなぐりがいろんな人の目の止まったようなので、もう少し思ったことを書いてみた。先日の深夜のツイートをもとに、一部加筆している。

平均以上の年収を稼いでいる人がそれでも感じている「日々の物足りなさ」について考えてみたんだけど、その物足りなさを埋めるための娯楽が、すべて『都会の上昇志向』によるものだから、そこには終わりがないってことなんだろうな。
つまり求める娯楽の『質』を転換させない限り、この飢えは満たされない。安いもので「我慢」しろという方向性ではこの飢えは満たされない。そうではなくそういったものからも快を見出せるように自己をシフトさせない限りは、この飢えから逃れられる術はない。

このシフトをどうやって行うか、というのが難しくてそれには『文化資本』が必要なんだろう。

本来の『文化資本』という言葉は、フランスの社会学者プルデューによって提唱されたワードで、「金銭以外の個人的資本」と定義される。
プルデューは、さらにこれを①身体化された文化資本(知識・能力・技術など)、②客体化された文化資本(書籍・レコード・絵画など)、③制度化された文化資本(学歴・各種ライセンスなど)の3つに分けた。

まあプルデューのように難しく考えなくても、なんとなく「お金がなくても豊かに生きていけるためのノウハウや知見」とこの場では考えても差し支えないと思う。
以下の『文化資本』はプルデューの正確な定義にではなく、上記の雑な定義で用いることとする。

読書スキルもそうだし、自炊スキルだってそう。ただそういった『文化資本』は一朝一夕では身につかない。
自分自身を掘り起こす必要があるし、なにより金と時間も投資しないといけない。『文化資本』を手に入れるために『資本』が必要になるというのはなんとも残念な話に聞こえるが、一般的な『資本』と異なり、こういった『文化資本』は一生モノになる。

たとえば『しないものリスト』のphaさんは、ゆるいお金に縛られない生き方を提唱しているけど、その前提として「phaさんはお金がなくても豊かに生きられるスキルを持っている」というのがある。

たとえば彼はたくさん本を読むし、そこで得た知見を生き方に活かして、なんなら本まで出している。自炊スキルだって高いし、散歩しながら目に映る風景を見ていろいろ考えることもできる。
このスキルを持っていない人が彼の生き方を真似ても失敗するだけだと思う。なんせ彼自身も京大卒のインテリだしね。

べつに金を使うな、と言いたいわけじゃない。むしろ贅沢は働く人間の特権だし、それがないなら働く意味も消失してしまう。
たまの贅沢に高級な鮨を食うのもいい。日々の贅沢にスタバのコーヒーを飲むのもいい。ただそのときに常に『自分が本当はなにを消費しているのか』について考える必要がある。この意識なく消費を続けているなら、結局はそれは贅沢という名の『情報』を消費しているだけに他ならないし、ゆえに、際限のない飢えのスパイラルからは逃れられない。そのための『文化資本』でもある。

市場の需要と供給について考えてみるとき、古典的な経済学では「需要があるから供給がある」と考えているわけだけど、経済学者のガルブレイスが喝破した通り、実態はその逆なんだよね。供給側が需要側の欲望をコントロールしている。この欲望のレールからうまく片足を外に出さないといけない。
「片足を出す」と書いたけど、市場の欲望から完全に降りることは、少なくとも僕のような一般人には不可能なんだよね。それを推奨する本はたくさんある(資本主義はクソだ→お金を使わずに生きることにしました、みたいなね)けど、ぼくら一般人にはそれは難しい。だからこそ、市場の欲望に従いつつも、自分の「軸」となる領域ではそこに左右されない己の欲望と向き合うことが求められる。欲望のスライドと呼び変えてもいいかもしれない。

『文化資本』を鍛えるというのは自分が世界を見る目が変わるってことなんだろう。
フツーに見落としてた何気ない風景が、ある日突然まったくべつのコンテクストを伴って見えるようになる。そういう経験の積み重ねが日々の豊かさを少しずつ確実なものにしていく。

ただシンプルゆえに難しい問題もあって、それは「一度あげた生活水準をどう落とすのか」ってことなんだよな。これはもうほかならぬ自分自身がよく知ってるんだけど、本当に難しい。一度あげたもんはそうそう元に戻らない。やはり「落とす」と考えてる限りは無理なんだろう。つまり「基準を落とす」のではなく「楽しめる幅を増やす」といった感じで、ポジティブな読み替えが必要になる。

またなんか思いついたらメモにします。

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