読書メモ:ゲンロン0 観光客の哲学

久しぶりのnote更新。「毎週本を一冊読む。隔週でnoteを更新する」というのが新年の抱負だったわけですが、前者はギリ保てているものの、後者は完全に無理ゲーでしたね。仕事が落ち着いたら。またペースを戻していきたいけど、次はいつになることやら……

前回のnote更新から大きく変わったことといえば、やはりコロナウイルスが蔓延して、とうとう非常事態宣言が発令される事態にまでなったことがあげられる。正直、当初ここまでの事態になるとは、ぼく含めほとんどの人が予想していなかったと思うし、弊社も非常事態宣言前から全社員に原則在宅を課するようになった。この在宅勤務というのがじつに曲者で、Twitterでタイムラインを追いかけていると「せっかくひとりの時間が増えたのだから本をたくさん読もう」といった趣旨のツイートがたくさん流れてくるのだけれど、個人的には読書をはじめとする「独りの時間」を活用する趣味は「みんなと一緒にいれる時間」があってこそ、はじめて意義があるというか楽しみを見いだせるものだと思っていて、「独りの時間を強制される」現環境においては、独りの時間を享受できるメリットよりも、むしろ人と会えないストレスというデメリットのほうがはるかに大きいように感じてしまう。

まあそんな状況下でもどうにかこうにか時間を見つけて、何冊かの本を読んだ。今日はその中の一冊である『ゲンロン 0 観光客の哲学』(以下、『観光客の哲学』という)を取り上げたいと思う。

(Amazonのリンクをnoteに貼ると9000円弱の値段が出てしまっているんだけど、普通に2000円前後で買えます)

この『ゲンロン』シリーズについて、馴染みのない人に概要を説明すると、思想家の東浩紀(Twitter ID : hazuma)が、「学会や人文書の常識には囚われない、領域横断的な「知のプラットフォーム」の構築」を目指して創業した小さな会社(ゲンロン)が出しているオリジナル人文書籍だ。ぼくはTwitterをはじめた初期からこの東浩紀さんのファンで(彼の言説に必ずしもすべて同意するものではないが)、今回のコロナウイルスによるゲンロン支援キャンペーンにも少額ながらカンパさせてもらった。

2017年に出版された『観光客の哲学』は「観光客から始まる新しい(他社の)哲学を構想する(p.17)」ことを目的として書かれた哲学書である。簡単に書くと、「観光客という概念から既存の哲学をアップデートしようぜ」というのが本書の趣旨だ。なぜこの本をいまのタイミングで手に取ったのかという話なのだけど、一言で書くと「コロナ騒動が落ち着いたあとの世界について、ちょっと考えてみたい」と思ったからだ。どういうことか。

先述の通り、『観光客の哲学』が出版されたのは2017年である。いうまでもなく、この本が出版された時点ではコロナウイルスなんてものは影も形もなかった。このnoteを書いている2020年現在、世界は一時的に経済活動の中断を余儀なくされているし、政府や医療関係者はコロナ対策で奮闘している。Twitterのタイムラインを見ていても、コロナの話題でもちきりだ。しかし、よくよく考えてみると、たぶんこのコロナ騒動はいずれは落ち着くことになる。経済的な損失は甚大だろうが、それでもぼくらがこれまでのように外出をして経済活動を再開する日はいつかはやってくる。「コロナをどう乗り切るか」ももちろん大事なのだが、「コロナを乗り切った後どうするか」も同じくらい大事なことなのだ。『観光客の哲学』は当然にしてコロナについてはまったく触れていない本なのだが、しかし現在ナショナリズムがコロナの影響で一時的に台頭している中、いずれはやってくるグローバリズムの揺り戻しについて考えることはけっして無駄ではないと思う。

『観光客の哲学』

本のすべてを紹介するとさすがにいくら書いても足りないので、個人的に気になったところをまとめていこうと思う。

まず、『観光客の哲学』というタイトルだけを見ると、ついつい観光そのものについて論じた本であると誤解を招きそうなのだけど、この本はそういった観光実学について論じた本では全くない。先述の通り、「観光客という概念から既存の哲学をアップデートする」ことを企図した哲学書だ。本書では何人もの哲学者が呼び出され、東浩紀はその哲学の古さを指摘し、ときには大胆にテクストを読み替えながら、既存の哲学のアップデートを試みている。

ここでいう既存の哲学とは「グローバリズムを悪としてしか捉えてこられなかった」哲学を意味している。本noteでは詳しく触れないが、シュミット然りコジェーヴ然りアーレント然り、彼らは経理材合理性のみで駆動された、政治なき、友敵なき大衆消費社会を批判するために、古き良き「人間」の定義を復活させようとした。しかしこんなものが21世紀の哲学として通用するわけがない。だからアップデートが必要だ。東はこう述べている。

この本が書かれる少し前、同じく東浩紀が著した本に『弱いつながり』という本がある。

この『弱いつながり』について、簡単に概要を書くと、人間が豊かに生きていくためには、特定の共同体にのみ属する「村人」ではなく、どこの共同体にも属さない「旅人」でもなく、ふだんは特定の共同体にのみ属しつつも、ときおり他の共同体も訪れる「観光客」的なありかたが大切なのだ、と論じた本だ。
『観光客の哲学』は文章こそ平易でかなり読みやすいものの、その思考は相当アクロバティックなので、理解に時間を要するところがあるし、正直に書くと『弱いつながり』を読んでいないと、そもそもの議論の前提がイマイチ呑み込めないところが出てくると思う。個人的には、まず『弱いつながり』を読んでみて、興味がわけば『観光客の哲学』に入るという流れをオススメしたい。

話を戻すと、先述のとおり、『観光客の哲学』の中では何人もの哲学者が取り上げられている。以下、東の哲学の「アップデート」例をひとつ取り上げたい。
そのうちの一人がイマヌエル・カントだ。カントは『永遠平和のために』という本の中で、タイトルのとおり「永遠平和」を実現するための条件を検討している。単なる「一時的な平和」ではなく「永遠平和」を実現するための諸条件として、カントは以下の3つを挙げている。

① 各国家における市民的体制は共和的でなければならない。

② 国際法は自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。

③ 世界市民法は普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。

ここで東が注目するのが③である。

「普遍的な友好をもたらす諸条件」とはなんだろうか。カントは興味深いことを述べている。カントによれば、ここで「問題とされているのは人間愛ではなく、権利であ」る。カントが考えているのは、諸国民がたがいに愛し合い、尊敬しあうべきだといった友愛や感情の問題ではなく、あくまでも権利の問題なのだ。では具体的にはいかなる権利の保障が「普遍的な友好をもたらす諸条件」になるのか。カントはそこで「訪問権」について語る。国家連合に参加した国の国民は、たがいの国を自由に訪問しあうことができなければならない。(中略)そしてカントによれば、これがきわめて重要なのだが、それはあくまでも訪問の権利だけを意味し、客人として扱われ艦隊される権利は含まない。(p.77)

東はここでカントの哲学を大胆にも「観光客について語っている」と読み替える。カントの時代にはまだ観光産業は存在しない。したがい、カントがここで観光客について語ったと考えるべきではない。しかしあえて「そのように読み替える」ことで、カントの哲学を『観光客の哲学』に接続している。
先述の①②が説く永遠平和への道は、要するに成熟した市民が成熟した国家を作り、成熟した国家が集まって、成熟した国際秩序を作り、その結果として永遠平和が訪れるという、いわば成熟の連鎖の果てに永遠平和を企図するものだ。しかし、それは換言すると、「成熟していない国は排除しろ」ということである。むろん現実はそう簡単ではなく、そうたやすく未成熟の国を排除することなどできはしない。なので『観光客の哲学』としての③が要請される。東はそう論じている。

ぼくの考えでは、この第三条項の追加でカントが提示しようとしたのは、国家と法が動員となる永遠平和への道とはべつに、個人と「利己心」「商業精神」が動因となる永遠平和へのもうひとつの道があり、この両者が組み合わされなければ永遠平和の実現は不可能という認識である。(中略)したがって、その訪問権の概念の射程は、国家意思と結びつく外交官の「訪問」ではなく、商業主義的な観光のイメージで捉えたほうが、より正確に測ることができると思われる。観光は市民社会の成熟と関係しない。観光は国家の外交的な意志とも関係しない。言い換えれば、共和制とも国家連合とも関係しない。観光客は、ただ自分の利己心と旅行業者の商業精神に導かれて、他国を訪問するだけである。にもかかわらず、その訪問=観光の事実は平和の条件になる。それがカントが言いたかったことではないか。(p.80~82)

以上はカントを取り上げた一例なのだが、東は本書で(というか本書以外でも)こういったテクストの読み替えによって、新しい価値観の提示を行っている。実際、東が提示する価値観をどう捉えるかはさておき、彼の書籍には常に新しい発見があるし、本書も期待以上に楽しむことができた。2,300円と相当お値打ちなので、ぜひ読んでみてほしい。

【少し感じたこと】

以下、殴り書き感想なので支離滅裂。

マルチチュードの概念を提示してベストセラーになった『帝国』について、東は「いまも活動家により参照され続けているのは、その分析の力や思想の深度ゆえではなく、ほんとうはむしろこのようなマルチチュードの運動論的な欠陥ゆえなのではないだろうか?」と批判しているわけなんだけど、逆説的に言うと、マルチチュードの運動論的な欠陥を持ち得なければ、そもそも影響を持てないというジレンマが発生するのでは?

連帯のための連帯に意味がないというのはよくわかる。敵は権力ということで同じなんだから、個々の闘争の特異性を棚上げにして、お互いの主義主張にかかわらずいったん連帯しておけばよくね?という、戦略的「無意味」の選択は短期的には効果を発揮するけど、長期的には必ず崩壊するというのはおっしゃる通り。でも、そもそも短期的にすら効果を発揮できない言説って、結局は影響をだれに対しても及ぼせないのでは?つまり長期的な戦いを視野に入れるということは、市民の成熟を前提にしたものであって、まさにそれは本書の観光客が否定したものではなかったか?

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