2021年の抱負について

新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

2020年はほとんどといっていいほどnoteを更新しなかった。

正確には何本か更新したのだけど、やる気が続かずで、結局最後に記事を更新したのは4月である。つまり、このnoteは8か月以上ぶりのものとなる。
なんでまあ「やるぞ!」と決めたnoteを放置していたのかというと、単純に書くネタが特に思い浮かばなかったのはあるんだけど、なにより、Twitterで140文字で文章を打つ行為に慣れすぎてしまって、長文を書くという行為、もっというと「書いた記事を完結させる」ということが大変おっくうになってしまっていた。実際、途中まで書いたものの、そのまま結論まで書くのがめんどくさくなってしまい、放置されている下書きが無数に存在している。

なので、今年の抱負は「noteを年間で20本は書くこと」「質のいい読書をすること」、この2つにしたいと考えている。

ところで二つ目の抱負、つまり「質のいい読書をすること」とはいったいなんのことだろうか。新年の抱負にしては、なんとなく目標がざっくりしすぎている気がしないでもない。

2019年は本当に本を読まなかった。あまりに本を読まなさすぎて、自分の中になにもインプットがないことに気が付いて愕然とした。なので2020年の抱負として、まずは「量」をこなすことを考えた。そこで「最低でも年間50冊は本を通読する」と決めたわけだが、実際、2020年中に読み切った本を数えてみると60冊は超えているので(流し読みした新書とかも含めると100冊は間違いなく超えていると思う)、とりあえずの目標は達せられたといっていい。

でも2020年の読書には反省点もある。ほとんどの場合、精読をしなかったのである。
この場合の精読とは「一冊の本を一週間、あるいは一か月かけて何度も何度も読み直す」とかそういうことだと思ってもらえればいい。「2019年は本をほとんど読まなかったんだから、2020年はなんとか少しでも読む量をリハビリしないとまずい」という意識が先に来てしまって、一冊一冊に対してあまり誠実に向き合ってこなかった気がしている。

読書はそもそもなんのためにするのだろうか。人によっては知的好奇心を満たすためだろうし、またある人にとっては自分自身を豊かにする行為なのかもしれない。
ぼくにとっては読書とはどちらかというと後者、つまり「自分自身を豊かにする行為」として読書を位置付けている。

もう少し考えてみる。自分自身を豊かにするために「誠実に本と向き合う」とはどういうことだろうか。
本というのは往々にして一回読むだけでは理解できない。「むしろ本を一周してからはじめて読書が始まる」という人もいるくらいだ。誠実に本と向き合うために、何度その本と向かい合えばいいのかはわからないけれど、少なくとも「一回なんとなく読んだ」だけではたぶん足りないだろう。

でも、当然ながら時間は有限である。なんでもかんでも手当たり次第に読み直すわけにはいかない。ではいったい、どういう本を読み直すべきなのか?

そもそも本にはどのようなものがあるのか。

ここで本をジャンル分けしてみたい。まっさらな紙に二つの線を垂直に交差する形で引いてみる。すると平面は四つに分割される。
縦軸を「みんなが面白いといった本」、横軸を「自分自身にとって面白かった本」にしてみる。ここでいう「みんな」とは世間一般というよりかは、自分の周囲にいる人々、つまりリアルの友人だったり、Twitterで繋がった人だったり、くらいの「ぼくが日常的にコミュニケーションをとっている人たち」のニュアンスで用いている。

雑な区分だが、とにかく線を引いてみると、本は4つのジャンルに分類される。

① みんなが面白いと思うし、自分も面白いと思う本
② みんなが面白いと思ったものの、自分は面白いと思えなかった本
③ みんなが面白いと思わなかったものの、自分は面白いと思えた本
④ みんなが面白いと思わなかったし、自分も面白いと思わなかった本

①の「みんなが面白いと思うし、自分も面白いと思う本」、これは「みんな」と語り合うことができる。読書という枠を飛び越えて、コミュニケーション手段にもなりえる。「みんな」へのアンテナさえ張っておけば、無限にそれに関する情報が流れ込んでくる。だから特に意識的に触れる必要はない。
②については疎外感を感じることになるだろう。「みんながその話題で盛り上がっているのに、自分だけが仲間外れである」という感覚を味わうのは、まあ気分のいいものではない。

②と同様、③もある意味では孤独な読書だ。その本を心から「面白い」と思っても、それについて語り合える人が誰もいないのだから。でも、ある意味では一番読書らしい読書だといえるのかもしれない。読書とは本来孤独な行為である。
④については、いわゆる「駄作」も含まれているので、時間をかける価値は(ないとは言わないが)あまりない。

今年一年、ぼくは意識的に②と③に焦点を当ててみたい。つまり「② みんなが面白いと思ったものの、自分は面白いと思えなかった本」と「③ みんなが面白いと思わなかったものの、自分は面白いと思えた本」である。
②と③にはそれぞれズレが存在する。このズレとは「世間と自分のギャップ」と言い換えてもいい。それらの本と向かい合うとき、必然的に以下の問いが出てくることになる。

つまり

「みんなが面白いと思った本を、なぜ自分は面白いと思えなかったのか」
「みんなが面白いと思わなかった本を、なぜ自分は面白いと思ったのか」

という問いだ。

本を買うときだけに限らず、レストランを選ぶとき、ぼくたちはAmazonのレビューや食べログの点数を基準にすることが多い。だいたいの場合、それらの点数が高い本やレストランにお金を落とすことが多いだろうし、実際それらが素晴らしい体験を提供してくれる可能性は高い。
しかし、一方でこういう経験をしたことはないだろうか。つまり「サイトの点数は高かったけど、個人的にはイマイチだった」、あるいは「サイトの点数は高くなかったけど、とてもいいお店だった」、こんな風な感じだ。この違和感はいったいなんのせいなのか?

これはぼくに限った話ではない。「みんな」と「自分」は違う。もちろん共通項はたくさんあるだろう。でもどこかで必ず食い違う。この「差異」に注目することは、つまり自分自身を見つめ直すことに他ならない。

念のために書いておくと、①の「みんなが面白いと思うし、自分も面白いと思う本」についてはなんだかんだで触れる機会は多いと思う。
でも①にだけ触れ続けていると、きっとそこで芽生えた価値観はもう「みんな」のものであって、「ぼく」のものではないのだ。ぼくは「自分だけの価値観」が欲しい。そのためには、一度、「みんなと自分の差異」について考えていけたらなと思っている。

ぼくにとって読書とは「自分自身を豊かにする」行為だ。去年の読書は読んだ本の数に囚われて「豊かな読書」とは必ずしも言い切れなかった。
なので今年は「豊かな読書」を、そのために「差異の読書」を進めていければなと考えている。

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