『さらざんまい』を見終えてのあれこれ

 先日11話の短さで大団円を迎えた『さらざんまい』ですが、皆さんはどう受け取ったでしょうか。
 twitterでは死亡説がバズっていて、僕も最初は大体同じ感想だったのですが、どうにも説明がつかないところがあり、死亡ベースのループ説に落ち着きました。
 『ウテナ』や『ピンドラ』のような最終回を覚悟していた割に、最終回があまりにもハッピーエンドだったから不安になってしまったんです。死亡説に流れている人たちは、こんな爽やかな終わり方には絶対裏があるに違いないと恐ろしくなり、ハッピーエンドのあら捜しを始めてしまったんだと思います。そしてそうやって要素を拾いに行くと、疑わしい描写がひっかかるように作ってあるわけです。おそらくあえて意見が分かれるような描写をやっているんでしょうね。

 僕も一旦は久慈の単独生存からの、入水自殺して河童の世界で三人が再開する線を疑いました。しかし飛び込みの描写があまりにも輝かしく力強さに満ちていたことから、何度か見返すと一稀のネクタイのデザインが変わってるじゃないですか。燕太も同じネクタイをするようになっていて、つまり二人はある程度校則がしっかりした高校に進学してるんでしょう。
 わざわざ飛び込みの水しぶきを描写していることからも、最初の解釈はないものだとの結論に至りました。

 ただ素直にそのままの生存説をとると、意味の分からないものがあります。特に終盤での春河のセリフと、1話冒頭のどこか遠くから聞こえてくるような春河の声、そして振ってくる大量の「〇ア」。これらの要素は単純な生存説をとった場合に明確な「余ったピース」となります。唐突に登場した天使カッパのモブイラストなんかはまだ演出ですと言っても済むかもしれないところ、余ったピースは確実に何らかの意味を持たされているはずで、この謎を解かずに素直に最終回を見るのには抵抗があります。だって幾原邦彦監督なわけだし、ね。
 
 で、それを解決するかもしれないのがループ説なんですよ。
 春河はケッピの完全体を「星の王子様」と呼び、その「星の王子様」は夢の中で愛と欲望の選択を迫ってきたと言っていました。そして最終決戦後の独白で、春河が何らかの選択をしたことがわかります。しかしその内容がブラックボックスになっていて、多分ほとんどの人が意味をとれていなくて、視聴者の中で意味が固まっていないからこそ、最終回の見解が割れてしまっている。
 僕もラストでの独白の意味はわかっちゃいませんが、なるべく『さらざんまい』という作品を解き明かし、最終回後も作品を味わって楽しめるよう、精一杯考えていこうと思います。

 さて春河といえば、1話冒頭でのどこかこの世ならざる場所から響いてくる「かずちゃーん!」の声でしょう。一稀が繋がりについての独白の中、吾妻橋のまわりをジョギングしているシーンですね。
 冒頭のジョギングシーンで「〇ア」が大量に降ってくる場面では、他二人の主人公やカワウソの存在が一瞬映ります。最終決戦で主人公の三人はカパゾンビを振り切って「〇ア」をくぐり、昔の一稀にミサンガを渡していることから、最終回がここに繋がるのかな、との考えがなんとなく見る者の頭に浮かぶでしょう。
 しかし実際に見返してみると、1話の冒頭とは見た目年齢だけでなく服装も微妙に異なっているんですね。わざわざ最終回と同じ、描かれた円が繋がる演出を入れながらも、服装はズラしてきている。全く同じではないんです。だから単純に1話にそのままつながる、という話にはならない。
 
 ですが1話の独白の内容はヒントになってるのかもしれません。一稀が「繋がりが切れることを良く知っている」「今度こそつながりを守る」と言っているのです。
 それは「過去に何かあった主人公」というお決まりの謎を撒いて視聴者の興味を引き付けていると受け取るのが自然ですし、最初は皆少しの違和感を感じながらもそう受け取ったはずだし、守りたい繋がりは携帯電話と何か関係があるかのような描写もされているので、偽アイドルの活動だということが分かります。素直に見ればそういう事になるのですが、そうすると結局「〇ア」と春河の声の謎が最後まで分からずじまいになってしまいます。それらの要素を解釈に回収するとなるとやはり1話に何らかのループが起こっていて、繋がりに関する独白の内容は、これからの展開と同時に前のループの話をも指している、と考えると辻褄が合ってきやしないでしょうか。
 バットエンドの後に春河が何らかの選択をし、それによってループが起こった次の周が本編であることを断言しきるだけの要素は拾えていないので、あくまで「ぼくはこうおもったよ」というだけで「こういうことなんですよ!!」というノリで言えたりは到底しませんけれども。
 
 なんとかその説を補強できそうな要素を探すと、解釈の鬼門となっているだろう「〇ア」の解釈に行きつきます。
 あれは「はじまり」の意味があるのではないでしょうか。最終回では「@」の代用としても使われていましたが、アもaも最初の文字だからです。最後まで@用法を出さなかったのは、視聴者が「幾原邦彦なんだし多分愛だろう」と捉えてスルーを決め込むことを期待してのことでしょう。
 作中にあふれる「〇ア」が全てその意味だとは言いませんが、冒頭で落ちてくる「〇ア」、一稀がミサンガを受け取る際に出現する「〇ア」、久慈悠が吾妻橋から川に飛び込む際に出現する「〇ア」、辺りは「はじまり」の意味があるように思えます。

 そして燕太が浅草の遊技場で遊んでいるシーンでは、久慈誓が登場して「人生は一発勝負、替えの玉は無い」とパチンコを打ち、当たりを出して「〇ア」を大量に出します。あの場面では当たりの「ア」なんだ、と言ってしまうこともできますが、残基が増える描写とも取れます。
 そうやって最終回を見ると、春河の選択によって「ア」の星が輝くのも、新たな始まりが生まれたことを意味している、と考えることもできるでしょう。
 サッカー日本代表になる未来が「その通りなるとは限らない可能性」とパラレルワールドを示唆したり、「いつかの彼ら」「いつかの未来」と時系列をかき混ぜるような言及があるのもそのためかと。
 そうはいっても誓のセリフを普通に受け取るとループ説の否定になるので、結局はよくわからないのですが。ただ、ループ説を否定するなら春河は何なんだよ、っていうのが現状やっぱり残ってしまうように思えるわけで、そういうわけで僕はループ派です。

 ループなら作中の頑張りは一体何だったんだと言われるかもしれませんが、ミサンガの回想では「切れることで叶う願いもあるんだぜ」という悠のセリフがありましたよね? そして1話冒頭に円が繋がる描写があり、最終回ではケッピが希望の皿に「次」と書いていました。だから作中世界が悠のリスタートをもってハッピーエンドに達したことで、ループを脱して未来へと繋がったのだと思っています。
 明確に根拠を示し、内容を確定したうえで提示できはしないので、考察著というよりかはあくまでふわっとした感想レベルの話ですが。


 ではどうしてわざわざそんな面倒な仕掛けを入れたのか、について考えてみましょう。どう悪意を持って深読みしても、あの力強いハッピーエンドは覆せないように思います。罪を償った悠が全てを失ってまっさらになったうえで、光を浴びながら「それがどうした!」と叫ぶ。そして再び一稀と燕太との繋がりを取り戻す。1話からぶつかって離れて諦めずにまた繋がりを求めてという紆余曲折を経ながら、未来に向かって繋がりたいという欲望を繋いできた三人の頑張りがようやく報われたのです。
流石にこれ、ひっくり返してまで言いたいことなんてないのでは、と思うわけですよ。
 そう考えると、わざわざ視聴者を混乱させるラストにすることで狙いたい効果があった、ということになります。
 いやいや、確かにね、幾原監督はテレビ版『エヴァ』放送時に、「綾波レイが妊娠するラストにしてオタクを絶望に叩き込んでほしい」と庵野監督へ直談判したという噂があるようなひねくれ者ですよ。わざと無意味に混乱させて、無を深読みするオタクの姿を見てほくそ笑んでいるのかもしれません。でもそれでは元も子もないので、ここでは死亡説が生まれるような描写を入れたのには意味があるという前提で話を進めていきます。

 では何を狙ったかというと、いったん逆の要素を入れてからひっくり返すことで結論を強調する手法だと思います。一旦死亡説を考えながらも、最終的には繋がりを信じてハッピーエンドを肯定する。そのうえで、あのラストを導くに至った「欲望の肯定」と「自己犠牲の否定」に着地する。この流れを意識したのではないか、と思うのです。少なくとも、『さらざんまい』の意義は、今まで幾原作品が否定してきたかに思える欲望をついに肯定したことにある、という点において、違う見解を持つ人はあまりいないでしょう。

 作品の前半で『ユリ熊』と同じように愛と欲望の対比を描いていたのも、この結論を強く印象付けるために監督の仕組んだカラクリだったわけですよ。「欲望を手放すな」って、てっきりカワウソ側のテーマだと思っていたじゃないですか。でも実はレオマブのテーマで、レオマブはカッパだったと。
 そしてカッパの王子であるケッピも、一度分離した自身の絶望と融合して完全体となりました。絶望の根源には繋がりたい欲望が満たされないことにあるわけで、ここでも肯定する構造となりました。

 一方で『ウテナ』『ピンドラ』『ユリ熊』で描かれてきた愛や自己性はというと、レオから「そんなものはいらない」と言われてシュレッダー行きになり、奇麗なだけの塵として扱われていました。
 そして愛を選択したことで相棒の欲望を満たせなくなっていたことが明らかとなったマブは、繋がりが切れて自己犠牲に走り円の外側へとはじかれていきました。

 人間は欲望で繋がっているから、自己完結してしまう、奇麗なだけの愛では繋がることができない。
さらざんまいで一稀たち三人が自身の影の部分とそこからくる欲望を晒して共有したように、欲望を認め合うことが繋がりのプロセスには必須となってくる。
 作中の三人がそうであったように、欲望の共有には衝突が伴い、その時に繋がりが切れることもある。しかしそれでもなお、諦めずに繋がろうと欲し、絶望に負けず行動することで、ようやく未来が開けていく。
 繋がりが切れることも縁を繋ぐための要素の一つであるから、欲望を恐れるな。欲望を手放さず、カパゾンビのように無尽蔵に暴走させることなく、うまく他者と共有可能な塩梅に調整して、絆を手にしていこう。その中でぶつかり合うことも覚悟しなくてはならない。例え一度失ったように思えても繋がりを諦めるな。
 多分、そういう話だったように思います。


 かわうそが概念であることを強調したのは、絶望が誰の心の中にもそれぞれ独自の形をもって存在していることを示しているんでしょう。繋がりが切れてから繋がっていたことに気が付くとは、つまり本当は繋がっていても繋がりを実感できない場合があるということ。そこに心の迷いがあり、繋がれない絶望が顔を出すことになります。あるいは一旦繋がりが切れたときに、これで終わりだと絶望が首をもたげてくる。しかしそれは人生にはつきものだと受け入れ、支配されることなく、繋がりを志向していこうとなのではないでしょうか。その辺はレオとマブの悲しいすれ違いに強く表れているでしょう。

 幾原作品はいくつかの対立軸をベースに描かれていることが多いです。何者かと、何者でもない存在。何者かの中にも、光のイモータルと闇のイモータルがいたり、愛の中にも本物のスキと欲望との対立があったりします。
 なお、以下の解釈にはファンからすると突っ込みどころがあるかもしれませんが、あくまで僕の解釈としてこれまでの流れについて書いていきます。

 『ウテナ』では世界を革命しうる力を持った、革命せざるを得ない事情を持った生徒会メンバーという超人たちと主人公が対決します。そしてその陰に、超人の素質がありながら敗北者としての地位を与えられてしまった黒薔薇がいて、その超人たちの上には本物のイモータルである王子と花嫁がいました。最終的には主人公の犠牲によって救われた花嫁が王子の支配するシステムを革命して、社会の鎖から抜けだした本物のイモータルとして独り立ちしていきます。
 『ピンドラ』ではイモータル、つまり何者かになる力がなく、光の超人桃果と闇の超人眞悧との対決に翻弄される高倉家やその周囲の人々が、愛によって理不尽な運命を変えようと藻掻く話でした。そこでは愛も罪も分け合い、絆を繋いでいくことが「何者にもなれないお前たち」に必要な生き方であるということが示されたものの、その過程では無償の愛としての自己犠牲がありました。
 『ユリ熊』では、イモータル=熊と何者でもない人たち=透明な嵐との対比と交流が描かれ、周りと繋がれない浮いた存在が、欲望を捨て去って純粋なスキを突き詰めることで、イモータルの世界に旅立っていくようなストーリーだったように思います。

 そして『さらざんまい』は再び何者にもなれず、繋がりもできない者たちを主人公にして、イモータルの世界に行かずに、いかにして縁から弾かれながらも諦めずに繋がりを求めるかを描いてきた、ということになるでしょう。
 そこでは初めて欲望が肯定的なキーワードとなり、全くなくてもダメ、暴走してもダメ、絶えず絶望と隣り合わせ、と厄介な性質を持ちながらも、そのエネルギーこそが繋がりの中で生きていくために必要なのだということが示されました。
 『ピンドラ』では家族・親友・恋人など、身近な肯定してくれる人物との繋がりが描かれていましたが、『さらざんまい』ではイモータルの世界とは別の世界に軸足を置いた三人が主人公となり、より普遍的一般的な弱くて緩い繋がりについて扱っていたように思います。
 今の時代、繋がりを得られない人間が一発逆転を狙うインターネットでも、結局何者かにならないと肯定を得ることができなくなっていて、『ピンドラ』の価値観はアップデートが必要となっていました。『ユリ熊』はやっぱりイモータルを目指すうえで大切なこと、という切り口だったところ、『さらざんまい』は大勢の他者の中で生きていくうえで大切なこと、という切り口だったのでしょう。
 しかしながら三人は光のイモータルであるカッパの姿で未来に船出し、将来はサッカー日本代表という最高クラスの「何者か」になります。『さらざんまい』における「欲望の肯定」は何者でもない人たちの価値観にとどまらず、何者かの世界にも波及していくのかもしれません。
 もしくは、どのような何者かにも、何者でもない中で苦悩し、もがき、あがいて、それでも絶望に屈することなく「それがどうした」と諦めなかった時期がある、ということなのでしょうか。
 完全に終わっている君にも、まだ欲望はあるじゃないかと。

コミュニケーションと普通の人間について知りたい。それはそうと温帯低気圧は海上に逸れました。よかったですね。