ヨルシカ『盗作』感想――本当の価値を探しに行こう

挑戦的な表題、ガラリと変わった雰囲気のPV、ジャケットのロゴに引かれた取り消し線。
本当の価値とは何かを問われている気がした。
ヨルシカとは何なのか、信じる価値はどこにあるか。

これまでは、夏・別れ・思い出といった美しいキーワードの陰に隠れていたテーマが、
ここへきて前面に出てきた。僕は確かにそう感じた。

特設サイトのインタビューによれば、アルバムの着想は「爆弾魔」なんだって。
アニソンっぽさのある曲で元々好きだったから再録は素直に嬉しかったけど、
今回のテーマと繋がっているとまだまだ掘りようがあるね。

『負け犬にアンコールはいらない』の中で聴くと、
彼女の自殺をトラウマとして抱える少年の怒りと苦悩が垣間見えるけど、
『だから僕は音楽を辞めた』の世界観から曲単独で聴いてみると、
浮かんでくるのは持病に苦しむ青年の姿。

三度、見え方が変わるのか?
その辺りも念頭に置きつつ、アルバム『盗作』の全体像に迫っていく。


前半は犯罪三部作。アルバムのダイジェストに思える内容だ。
昼鳶(盗み・渇き)→春ひさぎ(自己の切り売り)→爆弾魔(破壊)のワンセットが、
『月光』モチーフのインストと『朝』モチーフのインストに挟まれて区切りがいい。

ここで一生としての一日が一巡しているとも取れるから、
エイミーの人生のような気もする。「爆弾魔」に「8/31」のメロディが入ってるし。


次のブロックは音楽泥棒の人生と思想の開示かな。
アルバム的にもテンションがどんどん盛り上がっていく上り坂のパート。

「レプリカント」は軽快なメロディの中、
徹底した相対化で価値観全てを偽物だと衝撃的に突き付ける。
これまでも愛や平和といった聞こえのいい御託の欺瞞について
何度か皮肉ることはあったけれど、改めて真正面から否定した形だ。
ニヒルなかっこよさがある。suisさんの声の幅に震えた。

全てをレプリカとするならば、
自分自身すらも紛い物になってしまう。
あらゆる作品が過去作の模倣だと言えてしまうように。

しかし怯まず全てを否定していく。

あれほど神格化してきた、
まさに「これまでのヨルシカ」ともいうべき「思い出」すらも例外ではない。
その中で残る絶対の価値の可能性を、「夜」に託して、
ヨルシカのキーワードのひとつ「空の青さ」に表彰して、
潔くこの曲は終わる。

「花人局」は、何となく「カトレア」っぽさがあるね。おそらく意図して似せている。

「カトレア」は別れの起点になっていて、
これまでの4作のスタートに相応しい曲って印象。
だとすれば『盗作』の核心はこの辺りにあるんじゃないかな。
忘れた事にしているのは「言って」の冒頭。空の青さといったらこの曲だ。


後半3曲は小説版『盗作』のストーリー。買ったのは通常版だから、違ってたらダサいけど。
今作のストーリーはアルバムの一部でしか語られないから、
今まで保管だった特典が独立した作品になったんじゃないかな。

表題曲「盗作」はsuisさんの表現力の幅がいよいよ覚醒して、
この人どこまで凄いのって呆然となってしまった。
「昼鳶」から新しい表現を魅せてくれていたけど、
「盗作」のサビそして「思想犯」の気怠さやスレ感が
キレッキレの迫力あるカッコよさで、プスプス煙が出ちゃうわ。


最終ブロックはタイアップ2曲。
ネトフリ用に売れ筋で作ったと思いきや、元々『盗作』用に作っていた曲を提供したらしい。
否定したうえでここに戻ってくる演出がいい。
「ああそうこれ、これだよこれこういうの」ってなる。古い友達に再開したような喜び。

「夜行」は、その昔に君と歩いた夏の田舎道を思い出す曲。
何となく「ただ君に晴れ」っぽい。
『空も言葉で出来てるんだ』『思い出だけが本当なんだ』と、
一度はで否定したはずの価値観に戻っていく。

「逃亡」でつまらないことを全部置いてきた僕は嫉妬心も捨て去れたのかな。
「昼鳶」や「盗作」で語られてきた世間との齟齬や軋轢がなくなって、
自分自身が追及する本当の価値へと戻っていった、ということっぽい。
全てを失うことでようやく諦められる。それで残るのは純粋なものだけ。

それは夏であり、思い出――。

ここでね、注目のフレーズはもう一つあるんですよ。
それは一輪草。

夏の終わりに思い返される春の象徴と言われているけど、
二輪草を知っていればニヤリとしてしまう。

二輪草はその名のとおり一輪草ソックリの花がピタリと寄り添い2つ咲く。
藍二条を思わせる洒落た「君の不在」の表現なんですよこれ。
そうなると一つの仮説が浮かぶの。

音楽泥棒がエイミーのリフレインであるなら、
末路はまたもや服毒自殺なのかもしれないんだ。
二輪草は食べられる野草なんだけど、若葉は猛毒のトリカブトと瓜二つ。
これ、藍色と花緑青のパラレルでしょ。

「花に亡霊」は奇麗な音と言葉をとことん追求した曲だという。
これがヨルシカが出す「空の青さ」なんだろう。
n-bunaさんはまだ描き足りないらしいから、
青空のレプリカってことになるんだろうけど、それでも癒される。


ただ、「これがヨルシカ」なんて言っしまうと、まんまと術中にはまった感じがする。
こうは思わないだろうか?
思い出の中の奇麗な夏のイメージ、男の子と女の子の青春の記憶、別れ……
そういったものがヨルシカなら、
それらの構成要素を忠実になぞった作品があれば、それはヨルシカなのか。

『盗作』は曲の雰囲気をガラリと変えながらも、
これまでのヨルシカらしいキーワードや
過去作を彷彿とさせる仕掛けが豊富に散りばめられていた。

それらとその他の楽曲や詩からの引用を隔てているフィルターは、
リスナーの主観でしかない。
ならば『盗作』の中にヨルシカを見出し、
これはヨルシカだと定義しているのは他ならぬ僕ら聞き手なのではないか。
だとすればヨルシカとは一体何なのか。

ここで『盗作』の神髄がようやくわかった。雷に打たれたよう。なんと破壊的な作品か。
これを仕掛ける人間、それはまさに「爆弾魔」のようだ。

作品の価値と作品の評価は連動しない。
一方で楽曲によってリスナーの心が動かされたなら、それを否定することはできない。
作品の価値、世間的評価、個人の感想。これらは相対的に並列している。
なら、本当の価値は存在できるのか。

『夏草』から『盗作』まで、ヨルシカはそれを「空の青さ」や「月明り」と呼んでいる。
「言って」と「雲と幽霊」が象徴的だけど、何となく愛のようだった。
今回はそれをかなり強く出している。

心を売った春ひさぎが漏らした「愛してほしいわ」の言葉を思い出そう。
栓の無いこと、世間的はどうでもいいような
取るに足らないものにでも価値を与える「愛」を、『盗作』では確かに欲している。
ただ、その存在を確信しきれてはいない。朧げにしか分からない。
だからn-buna氏の作曲はまだ続くんだろうな。

本当の価値が分からないまま、それも自分は信じたものを追及していく。
そういう所信表明であると同時に、
もしヨルシカの描き出す美しい楽曲や世界観に共鳴する人がいるなら、
そういう人に聴いてもらえさえすればいい、ということなんだろう。

売れるように作っていた楽曲も、suisさんの表現力と共に、本質の追及に移っていくのかもしれない。

コミュニケーションと普通の人間について知りたい。それはそうと温帯低気圧は海上に逸れました。よかったですね。