セミと僕とあなたの世界について

セミの鳴き声がした。

今日は在宅ワークだったのだけど、うちの辺りはというと薄曇りで、最近は涼しいからと冷房を入れずに作業をしていた。
すると午後のあるときに、いきなり部屋が明るくなった。外が明るいのだ。一帯が雲の切れ目に入って一気に陽の光が差し、青い空が見え、夏が戻ってきたようだった。

暑くなってきたし冷房でも入れるかと、窓を閉めるべく机を立って桟に手をかける。

窓の外でセミが鳴いていた。

音楽をかけていて気が付かなかった。夏の気配を察知したセミがこの機を逃してなるかとばかり賑やかに鳴いている。

青空と日差しの輝き。ギリギリ我慢できなくはない蒸し熱さにセミの声。

何故だか急に懐かしくなって、もったいない気分になり、どうせだからとそのままにして作業に戻った。

今日はこれが良かった。妙によかった。そういう一時だった。
そういう出来事は、きっと皆さんの中にもあるはずだ。取るに足らないけれども素敵に感じた世界というのは、貴方にもきっとあるに違いない。

一人一人の中に十人十色の世界がある。
僕はそれを祝福したいけれど、それを表に出す人はあまりいない。
「で?」と言われるのが関の山だとわかり切っているからだ。
些細な一瞬で共感を呼べるならそれで飯が食える。食えていない僕たちの感動を分かち合ってくれる人なんて居ないことを知っている。

その点、インターネットはいい。

凡人が無常にとことん相対化された結果、誰も僕のことなど気にしなくなったからこそ、セミが鳴いていたことを自由に表出していい。誰も見ないかわりに、オチのない話を聞かされる被害者もいないのだ。

三者三様の需要特性でもって刺激に対し多種多様な反応を示す、というのはそれだけで貴重なことだと僕は思うのだけれど、一々それを尊重していたら過多になる。
それに価値を置かず、自らも外に出さないのは社会性のなせる業だ。

それを平気でやるのは幼児までで、思春期に入れば皆で示し合わせたようにやらなくなる。やめなければ排除の対象か、先に排除された幼稚な誰かを見て我が振りを直すかだ。


つまり、セミの鳴き声について他人に話さないのは社会化ということになる。
それを許される大人は商売に出来る者だけだ。絵、写真、詩歌。やりたければ共感を獲得してみせろと責められているのだ。

でも、それぞれに世界はある。
もう他の誰も目を向けないけれど、一人一人にそういう世界があって、一瞬一瞬の素敵な輝きがある。

コミュニケーションと普通の人間について知りたい。それはそうと温帯低気圧は海上に逸れました。よかったですね。