『SSSS.グリッドマン』――怪獣が人間になるための諸々について

 ヒーロー物語でメンヘラの構成を象徴的に描いた『SSSS.グリッドマン』のストーリー上の構造は前回考えたので、今回はより構造に視点を当てていく。ストーリー上のテーマは友情の復権だったと考えているが、よりメタな視点における作品の意図していたところというのは、フィクションの復権だったように思う。

 実をいうとオタクを名乗りつつもここはにわかなのだけれど、引きこもりに外へ出ろと言ったアニメといえば旧版の『エヴァ』だろう。当時のオタクにとってはまさしくニーチェの「神は死んだ」の如き衝撃が走り、多くの社会不適合者が拠り所を失って路頭に迷ったと本田透で読んだことがある。
 都合のいい世界に逃げ込んでいた引きこもりが、外から来た正義の存在に打ちのめされるという『グリッドマン』のストーリーにも同様のメッセージがあるのかというと、むしろ逆なのだ。

 引きこもりという行為を悪と糾弾し、無理やり外に連れ出しても、辛い世界に心が壊れたままの人間が放り出されることになる。引きこもりは社会が悪いから社会が変われという。すると世の中のいかにも正論ですっていう涼しい面をしたよくわからない連中があらわれ、上から目線で偉そうに何様だお前が変われと言う。
 オタクにアニメばかり見てないで外に出て人と関われというメッセージを突き付けるのは、つまり後者の立ち位置に全面的に同意する態度だ。引きこもるに至った辛い現実の存在は無視したまま。

 フィクションに逃避することは、本当にそこまで悪なのか。100パーセント当人が当人の責任でもって解決するべきものなのか。辛いから助けてくれと言ってはいけないのだろうか。『グリッドマン』という作品がとったポジションは、これらの意見に味方するものだった。

 勿論完全な他者依存は否定している。自分が変わらないまま他人が都合よく動けばいいという考えは作中での新条アカネのスタンスそのものだ。グリッドマンと新世紀中学生はそれを変えに来た。彼らとラスボス以外の登場人物が元を辿れば新条アカネという一人の人間である構図は、見ようによっては変わろうとするアカネと頑なに変わるまいとするアカネの内部で起こる葛藤と見ることもできる。

 心を深く傷つけられ、自己否定を繰り返す人間が救われるには、外側と内側の両方からの救済圧力が必要だ。これは前回書いたのだが、価値ある他者からの肯定と自分自身の救われる覚悟である。現状に不満を述べつつも変わろうとしない人物は潜在意識で変わる覚悟ができていないのだ。
 『グリッドマン』においてそれは怪獣の中の人に象徴される。怪獣がアカネの悪意なら、その中から出てきた怪獣は凶暴な潜在意識だ。あの貝がまさに存在するだけでアカネの作った街を破壊し尽くしたことからも、意識的に制御できない自己否定を見ることができる。
 決別の儀式を経て価値ある他者となった六花とアンチの活躍で癒されたのはアカネの潜在意識であり、その内部までは届かなかった。アカネにはラストで吐露した深い深い自己否定があったからである。だからこそアカネを吸収したアクレシスに「まだこんなにも情動があるじゃないか」と言われている。情動とはつまり怪獣であり、変わらずあり続ける病んだ精神の象徴に違いない。そこを治したのはグリッドマンのフィクサービームとアカネの決意だった。
 グリッドマンは最後のシーンにて今までのバトルスタイルを捨て、原作の特撮で使っていた癒しの力に目覚める。それをアカネに向けて放つことで心を治し、邪悪と分離させるわけだが、ここにも「傷つき内に籠ってしまった人間を、外部の社会の正論で殴ることはしない」姿勢を見て取れる。その一方で、自分自身の中で救われるための準備が整いそれを受け入れることも重要であると示す。

 僕が今まで色々と集めてきた情報と、『グリッドマン』の内容を合わせて考えると、救済には以下の要素が必要に思える。

 1.本人に変わる気があること(=アカネの感じている退屈)
 2.外部と関わること(=グリッドマンと関わった作中人間の変化)
 3.(自分にとって価値のある)相手の肯定を受け止めること(大丈夫どこにでも行ける)
 4.自分のあり方を自分で定義すること(=悲しいかどうかは私達が決める、お前は新条アカネだ)
 5.行動を変えること(=自室のドアを開け放つアカネ)
 6.相手に与えること(=みんなは私の友達、ごめんなさい)

 これが全てではないだろうけれども、少なくともこれらは最低限果たすことが求められる自己責任である。救済のスタートラインに立つためにはこれらが必要だ。そして『グリッドマン』はこれらを経験していくプロセスにおいて友情を提案していた。
 作中ではグリッドマンのフィクサービームでアカネの潜在意識が癒されたが、本来ここには途方もない時間がかかる。僕は腰を上げるのに10年以上かかったけれど、その過程においては肯定的他者の力が必要不可欠だった。
 しかしそういう人が簡単に現れるかと言うと、残念ながら探し当てるまでかなりの根気がいる。一人では済まない場合も多い。しかしながら、世の中にはこちらが弱いと見るや目を輝かせて僕らの私的領域に踏み込み、我が物顔で踏み荒らして略奪を行うイヤな人間が次から次へとやってくる。それを耐える場所が、安らげる隠れ家が必要である。運よく肯定的他者が見つかっても、そこから準備が整うまで、ゆっくりと癒しを重ねていく場所が必要である。そういう場所が、新条アカネにとっての「うまくいっていたツツジが丘での一学期」であり、僕らにとってのフィクションである。

 旧『エヴァ』はフィクションやコンテンツへの逃避を否定してしまった。『グリッドマン』はそれらの価値を肯定し、いきすぎたポジションを中庸に戻したのだ。物語はあっていい。逃避的コンテンツに没頭していい。傷ついた心には、あるいは疲れた現代人には、安らげるフィクションが必要だ。
 これというのは、TRIGGERがアニメ制作に対するスタンスを示したもののようにも思う。卒業してもいい。必要がなくなれば忘れてもいい。でも、傷ついたときに頼れる場所は必ず作っておく。ふとした拍子に思い返せる場所は守っておく。コンテンツはフィクションは物語は、いつでもあの日の少年少女の味方であると!

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コミュニケーションと普通の人間について知りたい。それはそうと温帯低気圧は海上に逸れました。よかったですね。