『SSSS.グリッドマン』――新条アカネの少年漫画的救済について

 当初「しぶりんみたいな子のほうがかわいくね?」と思ったことを謝罪します。
 『SSSS.グリッドマン』は平成の終わりにもってこいの名作で、中でも新条アカネは大変魅力的な敵キャラクターでありました。江ノ島盾子を最後にこれといった敵キャラが出ないまま、ブロリーでお茶を濁して平成敵キャラ史は終わるのかと思っていたけれど、悪役名鑑にギリギリで新たな名前が記された。

SSSS.グリッドマンとは友情の復権である
 『グリッドマン』と新条アカネは数々のアニメ作品や平成美少女たちが作ってきた道があると思う。『エヴァ』を彷彿とさせるカットがちょくちょく登場するし、アカネの立ち位置は闇落ちした『ハルヒ』か異世界転生モノだし、黒幕の動機は『まどマギ』っぽく、内海の葛藤は『ピンドラ』だ。いままでの平成アニメを総括する地点として、『グリッドマン』という作品の立ち位置がある。
 ではオマージュだらけの作風の中で何が『グリッドマン』のオリジナリティだったのかと言えば、再び「友情賛歌」に帰ってきたということだ。そしてそこまでの話の積み上げ方や丁寧な描写が素晴らしかった。テンポ良い進行や細かな演出もよい。
 冒頭の六花が合唱曲のBelieveを口ずさむシーンも、結末を知ってから見るとただそれだけで目頭が熱くなる。無駄がなく的確な演出技巧である。
 他には、タイトルの「・」の扱いに膝を打った人も多いだろう。ずっと漢字二文字の間に・が入るサブタイトルでやってきて、最終話のエピローグパートで初めて「・」のないサブタイトルが表示される。未来へ向け旅立ったアカネの閉鎖的な自分の織からの解放と、ヒーローとして覚醒したアンチとの双方を象徴する、「ビー玉」だ。
 2話でキャリバーがラムネ瓶を斬ってビー玉を取り出してるけれど、アンチを人間として教育していったのが外ならぬキャリバーだっていうところが巧いなあと思う。

アンチくんの成長からアカネの救済へ
 外から来た人間をコピーし続けたパクリ怪獣のアンチは、ついに10話でアカネとの完全な決別のシーンを迎えるんだけども、このシーンもよい。坂本九の合唱曲をバックに雨の中繰り広げる静かなやり取りはどこまでも切なくて心を締め付けられた。
 「雨の日は傘をさす」ことを学んだアンチはゴミ箱のボロ傘を見つけると、アカネが孤独に街を彷徨っていることを予想し、自らは濡れながらも街中を駆け回ってアカネを探し出して差し出す。そのアンチを失敗作と罵って嫌いだと拒絶するアカネ。「好きな場所に行け」と言われてグリッドマンを目指して駆け出すアンチ。傘はその場に置いていかれるが、アカネは受け取らない。
 この時点では構造的な問題で、アカネはまだアンチの施しを受け取れないのだ。アンチはまだ「自分の作った存在」だから。自己否定を繰り返していくアカネでは、自分で自分を救うことができない。だからアンチの行為は意味をなさず、当然アカネの心はまだ動かない。
 アンチがアカネを救い得る存在になるのは、自分の道を見つけて完全に創造者から独立した存在になる、10話後半パートでの戦闘を経た後だ。アカネの心の外からきた存在を、自らの存在を変えるまでコピーにコピーを重ね学習してきた結果である。アンチによって怪獣の中から引っ張り上げられたアカネが微笑むのはきっとそういうことなんだと思う。
 「きみは本当に失敗作だね」は「完全に私の作った怪獣じゃなくなったね」という意味なんだろう。

ヒーロー裕太の友達で、一般人代表の内海
 ストーリーは「闇ハルヒこと新条アカネが救済されるまで」って感じだけども、作品テーマとしては前述のとおり「友情」がある。その役を受け持ったバランサーとしての内海が地味ながらも要所要所で光っていた。彼がいなくては「友情」のテーマは描くことができず、巡り巡ってアカネの救済もなかっただろう。
 終盤の内海は直接的に事態の打開に貢献しうるリソースを持たない自分の存在に疑問を感じて悩み始める。ヒーローに変身して戦う裕太と、変身アイテムの元々の所持者であり終盤はアカネの為に奔走する六花。二人とは違う一般人代表としての自分。ポップやロンもぶち当たったこのアイデンティティにまつわる葛藤は、『輪るピングドラム』の「何者にもなれないお前達」に通じる。
 作中で提示された、決して大々的に掲げられる看板がなくとも、親しい人間からすれば大切な「何者か」であるという答えは『ピンドラ』の終着点と大体一緒なんだけれども、『グリッドマン』では「友情」に重きを置いているのが印象的だ。『ピンドラ』はその辺がもっとふわっとしていた。

 戦闘メンバーが全員揃った状態で「全員の力が必要」となった時の
 「全員ねぇ……内海と六花がいないんだけど?」
 のやり取りは、それを端的に表している。
 例え戦力にならなかろうとも、友情はただそれだけで重要であり、価値がある。友達とは誰かに必要とされるポジションであるというわけだ。熱い。実に熱い。熱すぎる。深夜アニメだけれどもこれぞ少年漫画の文脈だ。しかもこれ何がすごいってたった2言のやりとりでそれを表現しているんだ。

アカネの理解者、六花
 正ヒロイン兼ボスキャラの友達という複雑な立ち位置のキャラクター。しかも自分達は人間のまがい物だと最初に知らされる人物でもある。
 これらの要素を見ると一体どう描くんだろうと思ってしまうけれど、終盤の六花は行動原理を友情に全振りして一心不乱にアカネ救済の為に奔走する。その活躍はまさに友情天元突破だ。

 そんな六花に対して当のアカネは「私を好きになるように設定しているんだ」と言う。六花は違うというけれど、アカネは納得しない。違うと言い切る根拠は一見するとない。これでは押し問答だ。
 でもここで内海がGJを出す。思い出してほしいのだが、彼は序盤にアカネを絶賛していた。それがその本性を知ってからというもの一転手のひらを返し敵意をむき出しにしている。アカネにとって都合の良い夢にとらわれて懐柔された際には、「こういう形で出会えていたら友達だったかもしれない」と明確に現状の関係を否定していた。
 内海は一般人代表なわけだから、その言動があの世界の普通だということだ。設計時の設定がどうであれ、アカネの本性を知れば否定的になる。その中でアカネを慮り続ける六花の想いは本物だろう。

 しかしその六花も夢で懐柔を受けた際にはアカネを拒絶し、バスを途中下車している。アンチが雨の日に去ったように、六花も一度は決別しているのだ。しかしこの行動が結果としてプラスに働く。
 この物語をハッピーエンドにするためには、アカネのコントロールを外れた登場人物が決別の儀式を執り行う必要がある。そのうえで自らの意思でアカネを助けに来てはじめて、アカネが納得してその肯定意志を受け入れることができる。一旦バスを降りることで六花はその資格を得、最終決戦で単身桜ガ丘に向かって駆け出した。隣町など存在しないはずなのに、あると信じてバスに乗る。アカネはそこで待っていると信じている。展開と演出で表現する無言の友情があった。
 アカネが怪獣となった際のアレクシスとのやり取りも実に象徴的で、印象深かった人も多いと思う。
 
「自分を人間だと思っている作り物。その作り物と友だちの神様。悲しいよねぇ」
悲しいかどうかはあたし達が決める

 これ、これ、これですよ。ここ凄くいいよね。六花さんに痺れるよね。よくない?
 アカネのような人間に必要なことって、これなんですよ。この一言。これを強く言い切る本人の意志と、それを言ってくれる他者を心から信じることが必要なんです。一人でも、他人依存でもうまくいかないんですよ。アカネは一人でやろうとしていたからいつも失敗していた。
 そしてアンチと六花の肯定を受け入れた後も、まだ自分の意思が伴わなかったから怪獣になってしまったんです。怪獣の中の人、深層意識とか潜在意識とかいうものが自己を否定していたからです。

悪役で裏ヒロインで主人公、新条アカネと作品の意義
 序盤で完璧なスペックの存在であると紹介されながら、グリッドマンの快進撃に反比例してどんどん転げ落ちていく流行り筋のメンヘラちゃん。
 見かけの上で主人公の裕太が実はグリッドマンそのものであったことから、物語で成長した人間こそが主人公であるという観点で言えばアカネが実質的な主人公です。タイトルのSSSS.持つ意味は最後の変身で明かされ、グリッドマンらはアカネを救済する目的で派遣されたことがわかります。そういう点ではヒロインでもあり、無論悪役でもある。てんこもりですね。

 アカネは現実世界を苦にして安らぎに満ちた理想の世界に逃げてきたのに、そう設計した人間モドキから好かれても虚無感をぬぐえないでいる。周囲に傷つけられない、居心地の良い世界を欲しながらも、実際にその世界に身を置いている限り救いは訪れない。メンヘラへの洞察が鋭く光る。
 『グリッドマン』の凄い所は、徹底してリアリティのある細かい描写でメンヘラの行動や思考を25分12話の中で見事に描き切っていること。終盤のセリフ一つ一つがジトっとして暴力的な確固たる質量をもっていて、人間としての新条アカネが確かにそこに存在しているとしか思えない存在感を持って語られる。新条アカネは間違っても流行りに乗っただけのキャラクターではなく、平成後期を象徴する集大成としての美少女である。

 内にこもった精神を象徴する貝の怪獣が、戦闘行動をとるわけでもなくただ存在するだけで街を破壊していくさまはメンヘラの情動が荒ぶった際の破滅的な言動そのものであるし、破壊されつくしてから我に返り自己嫌悪に陥るところも実にリアルだ。
 「怪獣はやられるために生まれて死ぬのかな」は、現実世界でのアカネの扱われ方を自身でどう捉えているかというメタファーであろうし、裕太刺殺の際につぶやいた「私もグリッドマンと話してみたかったな」は自分をのけ者にして世界を正しく変えていかれる疎外感と悲しみがふと漏れたのだ。
 裕太ら3人を夢の世界に取り込んで関係性を書き換える作戦が破られ始めると、電車の走る画面左から走ってくるアカネのイメージが映る。下手入り。これは現実からの逃避だ。しかしその先にはグリッドマンがいる。今やどちらの世界にも味方はいない。授業中にマージナルマンへの言及があったのは絶対何かあるだろうと思っていたけれど、このシーンにかかってきた。
 どこまでも救いがなく、どこまでも救いの受け皿を持たない、そういう存在が新条アカネだった。だからこそその救いにはカタルシスがある。

 こういったキャラクターをどうやって救っていくかが、ヒーロー物語の裏にあるテーマで、それがが徐々に表に出てくる構成となっている。そしてそこに解として「友情」を置いたのが『グリッドマン』のオリジナリティである。更に言うと、答えを決して「恋愛」にしなかったことに意義がある。『グリッドマン』では、徹底して友情を恋愛に優越させているのだ。

 裕太がグリッドマンの宿主になったのは唯一アカネではなく六花を好いている「イレギュラー」だったからなのだが、恋愛要素はそれくらいだ。それ以外だとアカネがセックスを餌に裕太と内海を味方に引き入れようとした点しかない。そして2人ともが「友達」を根拠にして誘いを断っていた。
 さらに、裕太と六花の恋愛を掘り下げることもできたはずのところ、それをせず終盤の六花はアカネを救うために全力を注いだ。むしろ勇太との関係はアカネへの想いを同性愛的にしないためにあるようにすら思える。アカネを救ったのはこの友情だ。
 ダメ押しとしては、六花に加えアンチの活躍もアカネ救済に大きく貢献した点。男女双方に役割を担わせているのだ。グリッドマンのフィクサービームで語りかけるシーンも裕太・内海・六花の3人で行っているだろう? そうでなくてはならない。これは友情が勝利する物語なのだから。

 恋愛というのはこの世の中で力を持ちすぎている。それを僕はずっと言ってきたのだけれど、恋愛で救われるという思想は他者依存である。自分を好む美少女が突然やってくるとか、異世界転生でモテモテで万事うまくいくとか、あるいは白馬に乗った王子様とか、どれも他者依存によって自身の存在や人生が救われるという認識だ。そしてそれらは恋愛に力を持たせすぎることで生まれる。
 しかし実際の救済の構造は『グリッドマン』で描かれるように、他者に依存する点と自己の認識に依存する点との双方向だ。正義の青と悪の赤が混ざった瞳の二人が救済の立役者なのも、他者と自己両方の要素を持つからだろう。二人に肯定されたアカネがなお怪獣化したのは、まだ潜在意識下で自己否定に囚われていることの象徴だ。そこから自分で抜け出して初めて道が開ける。
 そういった心の動きや感情のやり取りを行う関係として、恋愛よりも友情に注目し、その復権を図ったのが『グリッドマン』だ。
 相手を頼る。相手が困っていたら助ける。相手の言葉を信じる。どれもお互いに肯定し肯定される関係だ。それらのエッセンスを網羅しているのが友情という観念だろう。これは今の時代にあって大変意義深かったと思う。
 とはいえ六花もアンチも設定上はアカネ自身であることから、自己救済の構造も持つ。友情を賛美しながらも、友達ができない人間を完全に突き放しているわけでもない。最も重要なのは殻にこもらないこと。
 遠回りであっても、少しずつ他者と関っていくことで変化は起きる。アンチが少しずつ学習していったように。そこには初期のグリッドマンとの戦いを楽しんでいたアカネくらいのささいな好奇心でもよいから、他者と関わる意識が必要であると、まあ多分そういうメッセージになっている。
 それを決して押しつけがましくならないように描いているのがまた『グリッドマン』のすごいところ。グリッドマンに救済される決断を下し、部屋のドアを開け放ったのは他ならぬアカネ自身だったのを思い出してほしい。潜在意識の変革を受け入れる内側からの自己救済であった。
 いやはやこれは時代にあった名作である。そして泣ける。アカネちゃんよく頑張った。悪いところも全部ひっくるめて肯定した六花さんも流石だ。僕は泣いたよ。

最後に、エンディングテーマについて
 全部見終わってからエンディングアニメをもう一度見てほしいとのインタビューがあったらしい。 
 本編では敵対関係にあるアカネと六花がやたらと仲良さそうにしている点、作中世界では季節が秋なのに六花がマフラーをしている点などが不可解で、考察サイトのログを見ても皆さん解釈に迷っていたように見える。しかし確かに本編を見てから見直すと、定まらなかった解釈がほぼ一つに定まる。

 エンディングテーマは、つまり本編におけるアカネの救済の補足である

 本編だけではアカネが救いのないまま追い出されたと見た人もチラホラ見えたんだけれど、友情というテーマとエンディングの映像と歌詞を照らし合わせればアカネの救済がはっきりと見えてくる。
 季節は冬で、時系列は本編の後。六花はこれまで通り学校に通っている。世界は暗めのソフトフィルターをかけたように色が弱い。歌詞が虚無感に触れるとふと気づくのが、アカネの席がもうないこと。ここで六花以外の生徒が消え、イメージの世界に入る。
 イメージの世界で窓際にアカネのような人物が現れ、世界は一転光に包まれる。これはおそらく六花の妄想の世界。平静を装うも、指を人に見立てて手すりを走り、喜びに満ちた六花はアカネに駆け寄って飛びついていく。アカネの指も歩み寄り、お互いの心が通じ合ったことが示される。曲の終わりで世界の色は元に戻り、アカネがいない日常での六花が映って終わる。
 まだわかってなかった奴、歌詞を聴いてみろ! 完全に本編終了後の二人のことを歌っている! 六花がアカネにエールを送り続けていることがわかるぞ!
 そして映像の最初は実写の学校だった。つまりアカネから始まり六花で終わる構成。しかも二番の歌詞を見てみると今度はアカネっぽい。そう! 二人の心はラストの約束のとおりその後も繋がっているということ!!

 六花の頼みどおり、最終決戦での決断のとおり、アカネは戻ってこなかった。辛い現実世界で救いがあるかは不明だけれど、確かに現実でやっていっている。なぜならアカネには友達がくれた定期入れがあるから。「私たちの神様だもの、堂々としていて」「大丈夫、どこへでも行ける」という祝福があるから。だからアカネは頑張れるのだよ。これが泣かずにいられるだろうか? 俺はまた泣いたよ!

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