日本におけるタイ式ボクシング史を調査する

 タイトルの歴史を調査するにあたり、断言出来ないような調査結果しか得れない歴史がいくつもあった。自分は断言出来ない不確かな事に関しては【〜らしい】、【〜ようだ】という言葉を使用する。


 日本の書物で、ムエタイ(タイ式ボクシング、タイ拳法)か最初に紹介されたのはいつの事なのか全く分からない。だが、それを日本で公の場で最初に公開したのは後にキックボクシングを作った【野口修】だと言われている。

 ボクシングの仕事でタイにいた野口は、タイ式ボクシングと当たり前のように出会った。野口のいくつかのインタビューから【1958年か59年頃】のようだ。(※1959年が可能性が極めて高いと思われる)タイ式ボクシングを初めて見た野口は、【これを日本で広めたい】と思った。そこでその年の10月18日、浅草公会堂で行われたボクシング興行(サンデースポーツ)でタイ式のエキシビジョンを披露した。サノン・ETB対ベラノイ・チャルンムーン。共にボクシングの試合のために野口に雇われたボクサーであった。日本ではボクサーとしての扱いでもタイではムエタイ選手でもあり、それも強豪選手達であった。

1959.10.19 日刊スポーツ


 この後、野口修の仲介でタイ式ボクシングと日本拳法空手道と接点を持つようになったと言われている。 

 【フルコンタクトKARATE No,209】に日本拳法空手道とタイ式ボクシングの接点について次のように書かれている。
【この頃(1959年末)にカウキーという元ウェルター級1位の選手と山田侃は、山田辰雄、ライオン野口、野口修が見ている前でスパーリングを行った】と。日本拳法空手道とタイ式ボクシングの接点は、後に旗揚げされるキックボクシング史に大きな影響を与える事になる。だから凄く重要な歴史である。

 これが1959年の接点の写真として紹介されているが、調査の結果、これは1962年の写真である可能性が実は高い。それはまた後ほど書く事にするが、1959年の時点で日本拳法空手道とタイ式ボクシングの接点は果たして本当にあったのだろうか??

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