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生物の寿命と人間の健康寿命

私は人間的な認識に基づいた「健康」という捉え方が嫌いで、自然観察での生物達の生き様を見て、人間の本来の「野性的健康」というのを考えたりしている。

庭に適当に撒いた種達は勝手に芽吹き、雨の水を受けて実り、種をもう一度土に落とす。そうやって植物達や動物達が何回も自らの子孫の為に、実を動物に食べさせたり、枯らした我が身すらも虫に喰わせて土を肥やす様子を眺めている。

私の農法では「育てる」という人間的傲慢を排除して、植物達が根付ける環境だけを守り、その対価に実を頂くという考えの農法を行っている。
親は子孫の為に最善を尽くし、日々を生きている。例え、その根が枯れようとも子孫が親を見失わないように枯れた植物も横に倒して、子供達の横で「死」を迎えさせる。

そこでふと思うのだ。
この植物達も動物達も野生に生きるものは、「祖父」となれる程の年齢ではないのではないか?と…例外として木という植物は確かにいるが…
つまり、私の言いたいことは人間でいう40歳程で寿命を迎える生物ばかりであるということだ。自らの子供を見れる生物はいても、自らの孫を見れる生物はほとんどいないのではないだろうか?

人間と食料の権利

生物の身体機能は自らの子孫に狩りの仕方や採集の仕方を教えるまで、または出産した以降に衰退を迎える。老人のように歩く野生動物はいないし、全ての動物は助け合いをする事はあっても食料においては譲り合わない。

老化が進んだ動物は、餓死するか衰弱して捕食者の餌食になる。
食料を老化しても様々な手段を得て恵まれるのは人間だけなのだ。

本来、私達人間は火が無ければ肉を食べる事はできない。
ましてや、動物を脚で追いかけて捕まえることもできない。
手で魚を捕まえることもできない。
そうすると、自然と木の実や植物や虫が主食であることが分かり、木に登れない人間は死んでいなければオカシイ事が分かる。
木に登れない猿はいない。逆に考えれば木に登れない猿は死ぬのだ。
全て知恵によってそれを払拭しているに過ぎない。

この事を考えれば、人間が本当の健康であれる適正な寿命というのは予想できる。子供が大人になるまでの20年間を見守れる年齢であり、孫を見ることができない年齢である。つまりは、35歳~50歳辺りが人間の適正な寿命であるのではないだろうか?

未来に託す自然循環と先人を敬う人間感

私は長く生きれば自らの寿命は40歳程でこの世界には別れを告げようと思っている。それ以上生きる意味があるとすれば、子孫が出来た場合のみでしょう。

インディアンは自然環境に対してこのような捉え方をするようです。
「未来の子どもたちから借りてるものだから、元通り返さないといけない」彼らの生活や価値観というのは常に未来に託されているものが多いと思います。そして野生動物達も自らの子供に尽くし、親が子供に尽くされることはありません。

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このインディアンの未来に託すという考えは、まるで野生動物のようだと私は思います。それが決して正しいと言っているわけではありませんが…

私は爺ちゃんが生きていて会えることは人間の権利だと思っており、それ自体は嬉しいことだと思っています。
ただ、人生の30~40年間程を社会に尽くして子供を学校に行かせ洗脳させるような社会構造がなければ…親が子供と寄り添い育てられる世界であれば…
40歳~50歳の生涯であっても80歳~100歳まで生きた程の、時間と人生を得られたのではないでしょうか…。

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