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答えのない世界で答えに近しいものを考える生き物

ただいま絶賛長編を書き下ろし中なのですが、もう少しというところで筆というかキーボードが止まり、立ち尽くしています。

さて、こんな時はざっくばらんに心の思うままに書き出してみようと思います。

すると、さっきまで止まっていたキーボードが嘘のようにカタカタと、、、ほらね。

タイトルはたった今考えて、たった今つけてみた仮のタイトルです。

ですが、そんなことに引っ張られながらもそれっぽい話をしようかと思います。

答えのない世界というのは、僕たちが生きる社会全体のことです。

何をすれば正解なのか、不正解なのか。

成功なのか、失敗なのか。

誰も知らない答えを求めて、何となくいい方向に行くようにもがいてる。

それが僕です。

きっと成功する人は、何か可視化できる成功の条件を決めて、それを成し遂げていくのでしょう。

これをすることが正解だ、という人生の規範がある人はそれを踏み外すことなく歩むのでしょう。

でも、僕にはそんなものがないのです。

答えは多様だといいます。

でも答えが未決定の場合もあるのではないかと思います。

未決定という答えはアリなのかナシなのか。

それは誰が決めるのでしょうか。

と、こんな風にどうでもいいことを考えて、考えたフリをしています。


だから僕は「この世界において決まりきった答えなどない」と主張します。

答えなんて、最初からないんです。


でも、誰しもが答えを求めています。

きっと、義務教育の中で僕たちは心の奥深くに植え付けられたのでしょう。

答えを見つけなさい、と。

テストで良い点数を取るためには、答えを見つけることが最も重要です。

だから社会に出ても、答えを探すのです。

では、答えがない世界では、
答えを求める行動そのものが悪なのか、アホなのか。

それはどうでしょう。

答えがないからといって、何もしない、あるいは何をしても自由、ということにはならないのです。

意味がわからん、矛盾している。と思ったあなたは脳死認定準1級を授けます。気を付けてくださいね。

この世界に答えがないことと、僕たちが答えを求めること、これはまったくの別次元の話です。

僕たちが答えを求める理由は「そこに答えがあるから」といった登山家みたいな理由ではありません。

答えがないけど、探すのです。山がないけど登ろうとする登山家なんです僕たちは。

また意味不明な論理に巻き込まれましたね、ご愁傷さまです。

でもさすがに支離滅裂に見えてきたので、そろそろ核心に入りましょう。

タイトルに書いたように、答えはなくとも答えに近しいものを求めていくのは人間の摂理です。

かつて、人間は狩猟民族でしたね。

そこでの答えは生き残ることでした。

答えがあるように感じるとは思いますが、これはただ生存するだけで、何も真理はありません。

農耕を始め、村を作り始めたころ、ようやく社会ができました。つまり上下関係が生まれたのです。

この頃、答えは生存だけではなくなりました。

欲望の多様化が社会を覆ったのです。

結局のところ、答えって何なのさって話なんですが。

実はこれ、自分が決めない限り、見出せないものなのです。

自分が生きる上で、自分がなりたいと思うもの、自分がやりたいと思えるもの、自分が成し遂げたいと思うこと、そのすべてが答えに近しいものです。

それを言語化した瞬間に、自分なりの答えの偶像が出来上がります。

何度でも言います。この世界に、答えはありません。

でも、答えに近しいもの。
その偶像は自分次第で自由に生み出すことができます。


人生わかんねー。
俺何のために生きてんだろ。

って思ったあなたは、ちょっと考えてみて。


自分なりの、答えを。


うわテキトー。。。。

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