トラウマ持ちの探偵といじめっこの高校生が半生を語り合う話
あらすじ
「今更だけどさ、別に話さなくてもいいし、聞きたくなきゃ言ってね。」
「それは、そっくりそのままお返しします。」
片手だけ手袋をした髪の長い男と、高校生の少女。この日初めて顔を合わせた二人は、それぞれの「懺悔」を吐き出すために向き合った。伝えるべき相手はお互いじゃないけれど、それでも……
「俺は人を殺した」と苦悩する探偵と、「私は今もまだいじめっ子だ」と叫ぶ少女の人生の、一瞬の交差点。
前書き・注意喚起
※一部暴力描写・性描写・並びにいじめやマイノリティ差別への言及が含まれます※
当作品はアルファポリス・小説家になろう・カクヨム・pixivでも掲載しています。作者の中の題名は「交差点でまた会おう」ですがキャッチーじゃないので今の題を置いています。
1
天気が悪いからか、酷く頭が痛かった。まさか先日の後遺症じゃあるまいな、などと考えが逸れかけて、幸也は慌てて電話口に意識を戻す。
「大丈夫です、もうぴんぴんですよ。ええ、本当に。いや酔っ払いは危ないですね。」
退院したばかりなんでしょうと気遣う馴染みの客に、冗談めかして大丈夫と答える。
悪いことは続くものだ。酔っ払いに殴られるし、そのせいで入院はするし、そのせいで友人には愛想をつかされたし。あぁいや、愛想をつかされたのは殴られたからでも入院したからでもなく、無抵抗にぼーっと殴られていたのが悪かったのかもしれないけれど。
「じゃあそうですね、一週間……はい、じゃあまたお電話しますから。」
依頼の日取りを確認して、電話を切る。踏んだり蹴ったりとはいえどうもここ数日現実味がなかった。鈍った感覚は、開いた手帳を見た瞬間じわじわと心を犯し始める。やっと感情が追い付いてきたらしい。
そうか、本来なら今日は。
「そもそも録音もしてねーもんなぁ。」
誰に言うことも無くぼやいて、幸也はSNSを開く。
『予定では本日が投稿日ですが、今月のラジオはお休みします。しばらく中の二人の都合がつかないので、来月も更新難しいかもしれません。』
ただのお遊びと言えばそれまでだが、毎月の投稿を期待する人が一定数いることも事実。いったい相方……つまり、幸也に愛想をつかしたらしい友人と連絡がつくのはいつになることやら。
ちらりと時計を見、再び手帳に目を落とした幸也はのろのろと立ち上がって手頃な紙を掴んだ。「臨時休業」と精一杯丁寧な字で書いて、ペンを置く。
事務所のドアを少しだけ開けた。顔を出し、腕を伸ばして掛けてある「営業中」の札を裏返す。それからテープをつけた紙を叩きつけるようにドアに張りつけて、またのろのろとドアを閉めた。
頭痛だか心労だかで一挙一動が億劫だ。さっきまでそんなこともなかったのに。病は気からってか。勘弁してほしい、拒否反応を示したところで何も解決しないのに。
アドレス帳アプリを開く。今日この後、引越しのための荷造りを手伝う予定だった依頼主の名前をタップした。続いたコール音が切れて、聞き慣れた声がする。
「もしもし?」
「どうも、堺探偵事務所です。」
「あぁ幸也か、かてぇな。」
大学からの友人がケラケラ笑うのが、頭に響く。人の笑い声が不快となると、これは重症。
「一応仕事の電話だからさ。」
「今日頼んでたやつ?」
「うん、そう。川崎、妹さんの引っ越しって週末だったよな。」
「そうだぞ。」
「荷造り手伝うのって明日でも大丈夫か?体調崩しちまった。」
「あぁ、平気だけど……お前は大丈夫なのか?今どこにいんの、事務所?」
看病しに行ってやろうか、と気遣う声にそこまでじゃねぇさと断りを入れる。通話を切って、スマートフォンを放った。
頭痛と心労と体調を一瞬秤にかける。冷静に回らない思考はすぐに逃げを打って、冷蔵庫に足を向けさせた。
冷蔵庫を開けたまま空の胃に缶ビールを流し込んで、空き缶をシンクに放る。三、四本腕に抱えて冷蔵庫を閉めた。ソファまで戻る気にすらならず、調理台に並べたそれをまた一つ開けた。
「ド昼間から仕事キャンセルして何やってんだ、バーカ。」
ズルズルと壁に寄りかかって座り込んで、自分を叱咤するように叫んだ。想像以上に覇気のない声が床に落ちる。
悪いことは続くものだ。アルコールで流せないことなんて、分かっているのに。インスタントな多福感と吐気が思考を蹴り飛ばしていくのに、幸也はただ乾いた笑い声を上げた。
***
――電話が鳴っている。
意識が浮上して、幸也はしばらく自分がどこに転がっているのか考え込んだ。事務所のキッチン、と答えを出しながら立ち上がって、コール音の元を探す。どうせ川崎だろうと思いながら表示を見ずに耳にあてる。
「はい、堺探偵事務所で、す……?」
視界に仕事用のスマートフォンが入って瞠目する。じゃあこれはなんだっけ、と混乱するうちに高い声がした。
「え、っと、サチさんのお電話で間違いないでしょうか。」
サチさん。呼ばれた自分のハンドルネームにますます思考がこんがらがる。悪酔いした脳味噌はないも同然で、ろくに働きすらしない。
「あ、はい、そう、です。あれ?」
「すみません、企画の時間外なのは分かっているんですが。」
企画、と言われてやっとこのスマートフォンがプライベート用のものであることに辿り着く。そうだ、電話番号を変えるから最後に、と番号を公開したんだった。つまり相手は「ラジオ」のリスナーか。そういえばキャリア変更やろうと思ってしてないな、なんてまた思考が一人歩きを始める。
「あー、いや、まだ電話繋がるようにしていたのは俺の不手際なんですけど、えぇと、どうしたんですか?企画は終わっていますが。」
暗にもう切ってもいいかと尋ねれば、声が思わぬ言葉を続けた。
「えっと、あの、私、ノノです。メール、返してもらった、野々宮彩花です。」
「……ノノちゃん?」
「あの、メールで話すと、すごく長くなってしまうような気がして、それで……今、お話出来ますか。」
戸惑いを含んだ自分よりも幼い声に、返すべき言葉を探して目が泳ぐ。
「うん、言った。聞いてあげたいんだけどごめん、めっちゃ申し訳ないんだけど今俺ガッツリ酔っちゃってて、どうしよ、」
「あ、すみません、」
「いやいやこれは俺が悪い、こんな昼間っから、っあー、ちょっと待ってね情けないな。やだねいい大人が自己嫌悪でこんな……」
言い訳を探すように溶けかかった思考からボトボトと言葉が落ちていく。かけ直すから、と言いかけたが、相手の言葉に遮られた。
「どうか、なされたんですか。」
「いや、」
なんでもないよ、と。そう言えば良かったのに。ふと我が身を省みて、幸也は言葉を失った。
どうかした、んだよな。どうしたって言うんだろうか、一体。
「あの、」
心配そうな声にハッとする。
「いやごめん、ごめんしか言ってねぇな俺、じゃなくて……」
「サチさん、あの、ホントに、大丈夫ですか?」
「あはは、大丈夫だよ、ちょっと、ちょっと色々立て込んだから、だから、えーっと、」
大丈夫、初めてじゃない。きっと、何とかなる。
本当に?
なぜか視界が滲んだ。
「……あれ、俺大丈夫じゃねぇのかも。」
自分の口から出た音が自分の耳に入って、幸也は慌てた。どうもさっきから、思考が制御出来ない。これじゃあ話にならないだろうと、誤魔化すように言葉を重ねる。
「待って取り消し、ごめん、ごめんほんと、またかけ直してもらってもいい?先いってくれれば絶対時間空けとくから、さ。」
返事がない。おや、と思って言葉を切った。
「ノノちゃん?あれ、聞こえてる?」
「あの、すみません、迷惑かもしれないんですが……私と同じで、話したら楽になりますか。」
何が、と溶けた脳が尋ねる。束の間彼女の言葉を頭の中で転がして、幸也は掠れた声で問う。
「……俺が、楽になるかってこと?」
「はい。誰にも言えないからしんどいんじゃないですか。私も、貴方に大丈夫かって聞かれて気がついたんです。大丈夫?って言われて、やっと大丈夫じゃないって、思ったんです。多分、同じです。」
大丈夫か、と立ち止まって我が身を振り返るきっかけなどなかった。あったのかもしれないが、見て見ぬふりをして来た。
大丈夫じゃないなら、話したほうが楽になりませんか。そう重ねて問う声に、幸也は酷く頼りない声で質問を返した。
「ノノちゃんは、話したら、楽になる?」
彼女を助けてあげたいと、思っていた。最後の意地みたいに、自分一人が楽になるのが嫌で、己が彼女を救えるのかと問う。束の間、沈黙が落ちた。
「分かりません。でも、話さないと、重くて潰れそうで。」
返された言葉は、説得力を持ってストンと幸也の胸に落ちた。重くて潰れそうという感覚は、今正に自分の状況であった。
「そっか。そだよね。うん、じゃあ俺、ノノちゃんの話聞くよ。半分持たせて。」
話しても何も変わらないかもしれない。でも、誰かにもこの重さを持っていて欲しくて。覚えのある感情の救い方はよく分かる。自分が望むことと、同じだから。
「長くなるなら、電話でも話しにくいかな。」
「そう、ですね。サチさんは?やっぱり長くなりますか。」
「俺、も、長いかも。あれ?俺どっから大丈夫じゃなかったんだろ。」
話すって、いったいどこから?振り返ってみても、何がきっかけなのかすら分からない。そのことに初めて気がついて、自分が一体いつから、何から目を逸らしていたのか愕然とした。
言葉に詰まった幸也の耳に、恐る恐る、ノノが尋ねる声が届く。
「サチさんさえ良ければ、直接会いますか?」
2
ゲームだったら良かったのに。「最初から」を押し続けて、君の顔が曇らない選択肢を探すことが出来れば良かった。でも、きっとそれでも上手くいきやしないんだ。だって、俺、いったいどこの分岐から間違えたかすら、分からないんだから。本当に、分からないんだよ。
***
何もかも現実味がなくて、はっきりとしない心地がする。本当に、今から赤の他人に洗いざらい話すんだろうか。電車にぼんやりと揺られながら、幸也は窓の外を見た。ほとんど折れた心は判断力を失っていて、差し出された手を後先考えずに掴んでしまったように思う。おかしいな。最初は助けようと思って手を伸ばしたのに、気がついたら助けを求めていたらしい。
助けを求めた両者が手を取っても、結局一緒に溺れるだけかもしれないが。
県外に出かけることは久々だ。いや、最近は依頼も室内で済んでいたのだから外に出ること自体が久々か。道理で太陽が目に染みる。少し引きこもり過ぎたなと自嘲した。ただでさえ成人男性にしては小柄で線の細い自覚がある。その上体力まで落ちればこなせない依頼も増えよう。
幸也の仕事は名こそ「探偵」とついているが、その実、便利屋のそれだ。それ故、人より動けることが強みとなる。気が滅入ったからと、あの日から久しくトレーニングをしていないのは良くなかった。衰えては、いけない。鍛えていても大の男には敵わなかったのだから、せめて。
思考が嫌な方に逸れて、幸也はするりとレザーを撫でた。左手だけを覆う手袋が熱を貯めて、夏はこればっかりは参るものだとため息が落ちる。じゃあ外せばいい、と何回自分に言い聞かせたものか。薄いペラペラの布一枚で、気が狂れるのを防いでいるのだから笑えない。
頬にかかる髪が鬱陶しくて、耳にかける。適当に結いた髪が解けてきているらしい。一度ゴムを引き抜いて、手櫛で結び直す。さらさらと指から逃げる髪質に、毎度の事ながら苦笑いが浮かぶ。細くて髪量の多い生来の質のせいで、ゴムはまたすぐにずれて解けてしまうに違いなかった。切ってしまえばいいのだろうが、この髪が好きだと笑う顔のせいでその思い切りもつかない。本当に、馬鹿馬鹿しい。
一日に何度も結び直すから、この行為自体には慣れている。もう左手が邪魔をすることも無くなった。最初は革に阻まれた感覚で細かい作業をするのに苦心したが、今となってはもう肌の一部のように馴染んでいる。外さずとも、髪が絡むことはない。再び綺麗に首の後ろで括って、肩から左に流す。
電車が止まった。立ち上がりながら、駅に着いたと待ち合わせ相手に連絡を入れる。すぐにカフェの前についていると返信があった。先に入っているように伝え、地図アプリを見ながら目的地を目指した。初めて歩く道だが、どこもビル街は似たような面をしている。
見た事のあるロゴ。コピーとペーストで量産したビル。
コーヒーチェーン店の自動ドアをくぐって、店内を見回した。カウンター席の奥、入口向かって右側。分かりやすいメッセージに感謝しながら目線を動かして、目印の白いパーカーを確認する。
「あの、」
昨日確認した写真の顔より些か成長してはいたものの、目当ての人物に違いないと当たりをつける。服装を伝え合ったとはいえ、相手は自分の見た目を知らない。こちらから話しかけるのが筋だろうと正面から目を合わせる。職業柄散々慣れた人当たりの良い笑顔を、幸也は常ならまず関わらないであろう年の少女に向けて浮かべた。
「ノノちゃんですか?」
「……サチさん?」
お互いのハンドルネームを確認して、幸也は彼女の正面に座った。一瞬の間はきっと長い髪のせいだろう、と容易に想像出来る。小柄で、華奢で、長髪。反して低い声。女性かと思って気がつかなかった、と事前に電話などで話した依頼人に驚かれることは多い。自分の容姿は、声と性別だけで打ち立てられたイメージとは一致しないらしい。案の定、前に流したポニーテールを彼女の目線がなぞるのに、気が付かないふりをした。
「ごめんね、少し待たせちゃって。」
「いえ、わざわざここまで来ていただいてありがとうございます。」
「いーのいーの、受験生の時間取ってる時点で申し訳ないくらいなんだから……ノノちゃんは何か飲む?俺、一緒に頼んできちゃうよ。」
緊張していてもペラペラとよく回る自分の口に感謝する。とりあえず匿名で知り合った相手が申告通りの見た目をしていることに胸の内で息を吐いた。向こうもおそらく同じようなことを考えているのだろう、力の入っていた肩が下りたのが分かった。
高校生って何歳だっけ、と思考が脇に逸れる。年が離れていることは事実だが、「社会人」という自分のカテゴリーと「高校生」という彼女のカテゴリーの隔たりは、年齢の隔たり以上に大きい気がした。
「お互い長い話になるだろうし。まだお腹も空かないでしょ。」
「そうですね、えぇと……カフェモカをお願いします。」
長い話になる、という言葉に一瞬泳いだ目線に、幸也は少し困ったように笑った。
「今更だけどさ、別に話さなくてもいいし、聞きたくなきゃ言ってね。」
「それは、そっくりそのままお返しします。」
真っ直ぐこちらを見つめた目は、己よりも余程強い力を持っていた。助けを求めてきた相手。そして、助けを求めた相手。
「うん。そうだね、そうする。」
スマートフォンだけ掴んで立ち上がる。荷物をここに置いていくことに一瞬躊躇したが、警戒していないことを見せた方がいいかと判断した。そうやって相手の感情を推し量る自分はあまり好きではないが、染み付いた習慣というやつだ。
「あ、先にお金、」
かけられた声を、目線で止める。笑いかければ、子供扱いに少女が眉を寄せた。
「出させてよ。十近く年下の子に財布出させるのは、俺の見栄が許さなくってさ。」
「ふふ、今更じゃないですか。」
ノノが笑った理由は、すぐ当たりがついた。幸也が彼女と初めて電話した時のことだろう。醜態を晒した自覚があるから、彼は苦笑いを浮かべて今更だからこそなの、と言い募った。ころころと笑う彼女から離れて、レジに向かう。
途中すれ違った少女に見覚えがあって、幸也はさりげなく目で追いかけた。真っ直ぐにノノに近寄った姿に、思い当たる節があって目を見開く。
「カッキー、どうしたの?」
届いたノノの声に確信を持つ。その渾名は、確かノノの友人で……かつて、ノノがいじめていたという少女のはず。人より良い耳が、あの年代独特の、高い周波数を拾い上げる。盗み聞きのようで嫌だったが、つい意識はそちらに寄った。
「今日はちょっと、知り合いと会ってて。」
「そっかぁ。ちょうどいいから数学聞きたかったんだけど。」
「夏休み大抵暇だし、連絡してくれれば会えるよ。」
「ほんと?やっぱさ、みんな勉強してるだろうから連絡取るの遠慮しちゃって。」
「分かる分かる、そっちこそ今日はどうしたの?」
レジでカフェモカとアイスコーヒーを頼む。店員と会話をしていても向こうの声を拾えるのもまた、慣れのようなものだった。
「ここで勉強してたの。家でやるより集中出来るし。お金ないからそうそう来られないけどさ。」
「バイトも出来ないしね。でも、今あんまりお金使わなくない?遊ぶ時間も相手もいないしさ。」
「マサトとは会ってないの?」
「なんか連絡するタイミングもなくて夏休み入ってから全然話してないや。」
「だよね。やっぱり塾、忙しそうだし。」
注文の品が用意されるのを待ちながら、記憶をひっくりかえした。マサト。誰だったか。これも聞いた名前のはずだった。商品を受け取る時に意識が一旦持っていかれて、盗み聞きは一度途絶える。そのままトレーを持って席の方へ近づいた。話はいつの間にか自分の話題になっていたようで、幸也は苦笑いを浮かべる。
「さっき誰かと一緒にいたでしょ。あのお兄さん誰かなって。」
「あーっと。」
「まさか彼氏?」
なんでこういう時に限ってちゃんと男性に見えるんだか、と肩を竦めた。勿論ここで女性に見えたところで、下世話な邪推はいくらでも出来ることは身をもって知っているが、やはり世間のバイアスは男女の連れに激しくかかることも、また事実だ。一つ息を吐いて人畜無害な笑みを貼り付ける。
「彩花ちゃんのお友達ですか?」
声をかければ好奇心を隠さない目がこちらを振り返る。微笑ましい限りで。
「はい、そうです。こんにちは。」
「こんにちは。」
「えっと、お兄さんは、」
どう説明するべきか困惑するノノの目線を感じながら、幸也は口を開いた。開くだけでいい、慣れた口は意識半分でも勝手にペラペラとそれらしい事を吐き出すようになっているから。
「彩花ちゃんの元家庭教師です。まぁあくまで元っていうか、彩花ちゃんのお母さんにちょっとお世話になっていたものですから。その縁で僕が大学一年の頃、だから小学生のころだよね?彩花ちゃんの勉強を見ていて。」
同意を求めた視線にノノは一瞬目を見張って、すぐに微笑んだ。
「そうなの。だからその、今どういう関係かっていうと、何とも言えなくて。」
「なるほどね。」
「彩花ちゃん今年で受験だし、また夏休みだけでも勉強見ようかなって話になったんですよ。」
邪魔してごめんね、と納得して笑った少女が店を出ていく。
「今のが、カッキーだよね。」
「そうです、よく覚えてますね。」
目を丸くしたノノに思わず頬が緩んだ。流石に一年近く前に見た写真の顔を今日まで記憶している訳では無い、と訂正する。
「ノノちゃんの顔思い出しとこうと思って来る前に最初に貰ったメール見返しただけだよ。ま、十代の顔はすぐ変わっちゃうね。ノノちゃん写真よりシュッとしてる。」
「そうですか?たいして変わってないと思いますけど。」
「結構印象違うよ。」
そうかなぁと首を傾げた少女に頷く。本人達は毎日鏡を見ていれば気にならないのだろう。さすがに二十歳を過ぎれば顔の印象は固定されるが、十代の顔は思いの外変化する。
「あ、そうだ。ダメだよ、ああやって友達の写真知らない人に送っちゃ。おかげで俺はノノちゃんの顔が分かったけどさ、悪用なんていくらでも出来んだから。」
インターネット越しにそれを自分か注意するのも間抜けた感じがして、当時はそのまま受け取ったけれど。一応大人としてコメントしておこうと咎めれば、ノノは眉を下げてきまり悪そうに笑った。
「後から思いました。でも……あの時、必死だったんです。あったほうが、なんていうか、リアルかなって。」
「リアル?」
「だって、よくある話でしょう。変な言い方ですけど。」
よくある話、ね。
「……そうかもね。」
彼女から初めて連絡を受けた時、自分も同じような感想を抱いたのを覚えている。そう、よくある話。数か月前に彼女から助けを求められた頃の事を思い出しながら、幸也はアイスコーヒーのストローを意味もなく回した。
3
幸也がノノのいじめを見たことは、ない。だいたい、今日が初対面だ。それでもやけに生々しく記憶しているのは、彼女の送ってきた写真のせいだろう。皮肉にも仲良さげに写る四人。ノノ、ユミチ、ミク、そしてその三人から弾かれることになった、カッキー。渾名を添えて送られた一枚の写真データ、それから、その時点で数年前の出来事であった、彼女が中学生の頃のいじめの話。送られたたった一通のメールが、幸也が知っているこの件に関しての全情報だ。
幸也は、咄嗟に返信すべき言葉を見つけることが出来なかった。
俺は純粋な被害者でも、無い。
悩みは自身の記憶と共鳴して、解決もしないのに幻を形作った。見たこともないのにやけに生々しく記憶しているのは、彼女の送ってきた写真と、それから、見た幻のせいだ。
***
あ、夢だな。
視界に黒板を捉えて、幸也は二、三度瞬いた。学校と名の付く施設からはとうに卒業し、こんな景色は長らくお目にかかっていないはずだ。「日直」の文字に、数年前までお世話になっていた大学ですらないことが表れている。
眠りの浅い質だからか、明晰夢を見ることは珍しくない。どうせ夢と分かったところで、思い通りにはならないのだけれど。
己の記憶から生成された教室の景色は紛れもなく見覚えのあるもので、なのに周囲の人間は霞がかったようにはっきりしない。自分は袖を通したことのない制服がやけに鮮明に認識出来て、おや、と首を捻る。
見覚えは、ある。どこで見た制服だったか。近所の高校?親戚?
「またカッキーにやられたんだけど!」
上がった不満げな大声に顔を上げる。教室に入ってきた少女は、緩く片側で結んだポニーテールを揺らしながら眉をつり上げた。誰だっけ、と検索をかけようと常なら働く頭も、夢の中ではただぼんやりとその流れを甘受する。
「またぁ?」
「今度は何?」
自分の真横でした声に、ゆるりと顔を向ける。二人いたその少女達が、きゃらきゃらと笑うその声に、眉が寄る。
ああ、良くない。これは、良くない記憶。
いつか聞いた声が響く。起きてしまえばいいのに、もう幸也はここが夢であることを忘れていた。
「今度は漫画。一日だけっていうから貸したのに、返してって言っても、家に忘れたって。もう三日も経つんだけど、ありえなくない?」
「うっわ、最悪。」
ポニーテールの少女が、ドアから二人が集まっていた机のほうに近づく。なんかもう一周回って慣れてきたんだけど、と楽し気に笑う少女に、椅子に腰かけていた髪を下ろした少女が頬杖をついた。
「私、シャーペン諦めてるわ。もうカッキーに親切とか、しない方がいいね。」
「馬鹿を見るだけっていうか?」
幸也のすぐ傍に立っていた少女が呆れた声で嘆きながら、幸也の目の前の机に腰かけた。さして驚くこともなく、自分がそこにいるけれどいない、という不可思議さを受け入れる。だいたい、周りが制服の中幸也は至って普段通りの服であった。異質なものを許さない教室で注目を集めていない時点で、空気も同然である。まぁ、夢というのは総じてそういうもので、そのことに疑念すら浮かばないのだ。
「なんで私達あんなのとつるんでんだろ。」
「四月の席が悪かったんでしょ。班一年変わらないとはなぁ……」
「おかげでもう二か月ですよ、にーかーげーつー。」
「ねー。」
「まぁノノとユミチと一緒いられんのは良かったけど。」
ノノ。その名前を聞いて、ようやく彼女らの正体が思い当たる。たかだか一枚の写真から形作られた幻は酷く不明瞭で、声はどこかで聞いたことのある声の継ぎ接ぎ。道理で耳障りなわけだとまで考えて頷いたのに、逃げたいという気持ちばかりが募り、目を覚ますという手段のことは頭から抜け落ちていた。そう、夢と分かったところで、思い通りにはならない。
「あ、カッキーといえば。教科書一週間返してくれなかったから先生に言ったんだけどさ。」
文字で伝えられたその展開の先は何だったか。ノノの口から語られる言葉に耳を傾ける。聞きたくない。知っているから。聞かなくてはならない。知っている、から。
「先生に言われたとたん『今日返すつもりでした』とか言っちゃってさぁ、その場で返してきて。その日の朝は持ってないって言ってたんだよ?」
「さいってー!」
「もうそれわざとっしょ。」
「だよねー。」
些細なきっかけ。教室中に響く笑い声。悪いのは誰、非があるのは誰。ああ、良くない。これは、良くない記憶。
「分かったこうしよ。返してくれるまで無視しよう。」
「あっは、一生かかるかもよそれ。」
「それでいこ!」
「つかそんなことどーでもいいよ、今日の佐々木の課題忘れたんだよね。」
「二人の合わせてそれっぽくすればよくない?」
あっという間に切り替わった話題に合わせて、少女達は机にプリントを広げ始める。教室のドアが開く音がやけに大きく響いて、幸也はのろのろと顔を上げた。
あぁ、彼女が渦中のカッキーか。
「おはよう。」
放たれた挨拶は、明らかに少女達に向いていた。幸也は声を上げようとしたけれど、上手く体の主導権が握れない状態では喉は開かない。少女らはカッキーに目線一つ寄越さない。
「二限までに終わるかな。」
「ギリじゃね?」
聞こえなかったか、と近づいた少女の手がポニーテールの少女の肩に触れる。
その手が、ちらと見られることもなく払い除けられた。
束の間固まったカッキーに構うことなく、少女達の会話は続く。まとわりつく視線。顔すら曖昧な生徒達が四人を注視する。カッキーが逡巡の後、教室を出て行った。
教室中に笑い声が響く。悪いのは誰、非があるのは誰。
幻の教室が歪んで、数年前まで馴染んだ大教室が見えた気がした。
「今の顔見た?」
「絶対無視された理由分かってないでしょ。」
「あいつメンタル弱いし案外学校来なくなったりして。」
「ありそー!」
「来なくなったらさすがに面白すぎんでしょ。」
「で、来なかったんでしょ。夏休み明けたら。」
今度はすんなりと声が出た。目が、こちらを向く。
「そうなの!」
振り返った三人分の声が、楽しそうに答えた。返事があると思っていなくて、瞠目する。すぐに三人は、また幸也を居ないものとして会話に戻った。
「あいつ今日も休み?」
「まじで来なくなるとは思わなかったんだけど。」
「もう夏休み明けて三日だもんね。」
「夏休みでだらけすぎて学校くんのめんどくなったんじゃね。」
きゃらきゃらと笑い声が響く。
「メンタル弱すぎんでしょ。」
「ゆうて無視してたの最初の二週間くらいだよね。」
「その後ちゃんと遊んであげたもんねー。」
「二人はあいつで遊んでたの間違いっしょ。」
ノノの言葉に、二人が手を叩いて笑った。楽しそう、という形容詞が当てはまることが恐ろしい。
「いやてか最後までまじで気が付かなかったね。」
「結局なんも返してくれなかったのウケる。」
話ながら教室を出ていこうとしたノノの手を、咄嗟に掴んだ。彼女は立ち止まったが、振り返ることは無い。
「ダメだよノノちゃんやめとけって。君、これからずっと、」
「知ってますよ。」
強く放たれた言葉に口を噤む。
「でも、もう変えられないことなんです。」
振り返って、彼女は笑った。かくん、と体が下に落ちる。
***
遠くで玄関のチャイムの音がする。誰かが名前を呼んでいた。
「幸也ー?寝てんのか?入るぞ?」
ガチャガチャと鍵を開ける音にゆっくりと目を開けた。開きっぱなしのノートパソコンに表示されたメーラーを閉じて、パソコンの電源を落とす。開いた部屋のドアを振り返れば、美由紀が手を振った。
「ごめん、寝てた。」
「寝癖やべぇよ。」
「まじ?」
幸也が手櫛で整えようとしたのを止めて、美由紀は彼の座るソファの後ろに回る。彼女の手が髪を撫でるのを甘受しながら、幸也は寝起きで重い口をのろのろと開ける。
「ちょー変な夢見てた。」
「へぇ?」
夢の原因は明白だった。数日前に受け取った、リスナーからのメールだ。お遊びで幸也と美由紀がインターネットに投稿しているラジオの、リスナーからのメール。
ノノ、と名乗るメールの送り主とは、オンライン上で以前から交流があった。理由は多分、幸也もノノも犬好きだったから。毎日実家のコーギーの写真を垂れ流していた幸也にノノが偶然リプライを飛ばして始まった会話が最初のきっかけ。
まだ高校生の、犬が好きな女の子。最近ハマってる漫画が幸也と同じ。ノノについて幸也が知っているのはそれくらいだ。始めたラジオにこまめに感想をくれることはあれど、リプライではなく公開していたメールアドレスに長文が届いたのは数日前のそれが初めてのことだった。そこで初めて、本名が「野々宮彩花」であると知った。
本名の他に増えた情報が一つ。ノノは幸也の苦手な人種だった。言わば、いじめっ子、だったのだ。
『サチさん、突然のメール、失礼します。先日の放送を聞いて、サチさんに相談したいことがあるのです――』
ノノは、中学生の頃に一人の少女へのいじめに加担していた。実際の渾名に沿って、ノノは手紙にて彼女をカッキーと呼んだ。中心にいたのはユミチとミクと呼ばれる二人の少女、それからノノ本人。間接的にはクラス全体を巻き込んだイジメだったという。
三人がカッキーをいじめるようになったきっかけ。始まった無視、続いた直接的ないじめ。そして、カッキーが学校に来なくなったこと。三年生になった彼女らはクラスが分かれ、結局、いじめの話はなかった事のように流され、皆高校受験へと意識を向けていったこと。ノノの告白は続く。
そして、ノノは高校でカッキーと再会したのだと言う。ノノは幸也に問うた。
『なし崩しに和解した形となっていますが、もっとちゃんと謝罪をすべきでしょうか。今彼女はいじめなんてなかったみたいに私と仲良くしていますが、掘り返していいのでしょうか。』
ノノの手紙は、こう締めくくられる。いじめられていたという、貴方に問いたい、と。
返信すべき言葉を見つけることが出来ないまま、結局、返信の文は書きかけのままだ。
「変な夢って?」
髪をいじって満足したのか、美由紀が荷物を放って幸也の隣に座る。沈んだソファの傾きに身を任せて彼女の肩に頭を乗せて、幸也はちょっとね、と呟いた。
「メールで相談を受けたの。どう返事しようかなぁと思ってたら、夢に出てきちゃって。」
返事がない。目線を上げれば、心配そうに顔を歪めた昔馴染みと目が合った。
「何、怖い顔して。」
「夢に出るほどなら、返事早く書いちゃえよ。お前も辛くならない?」
美由紀のもっともな言い分に、幸也はただ眉を下げた。
「そう、なんだけど。」
「一緒に考えようか?」
「でもほら、俺宛だし。」
「……私には言いたくない?」
幸也はうーん、と小さく唸って目を瞑った。相談しても問題は無い、と思う。けれど。
「これは、俺の問題だと思うんだよね。」
だから、一人で考える。そう言ってもう一度彼女の方を向けば、美由紀は幸也の頭をわしゃわしゃと両手でかき混ぜた。思わず笑い声が零れる。最後に両頬をぺちりと挟まれて、目が合った。
「あんま思い悩むなよ。」
「うん……ごめん。」
「謝るなよ。」
呆れたような声にもう一度謝罪を重ねそうになって、慌てて口を噤む。ただこくこくと首を縦に振った。
「とりあえず録音始めちゃおうぜ。」
「その前になんか飲みたい。」
「あぁ、寝起きだったなお前。」
勝手知ったる様子でキッチンの方に消えた美由紀を見送ってから、さっき落としたノートパソコンを立ち上げる。週に一度、水曜日に集まっては録音しているラジオももう既に四回目になる。
「そういやさ、BGM探してた時に懐かしいやつ見つけたんだよ。」
録音の準備を始める前に、フォルダからMP3ファイルを引っ張り出してダブルクリックする。再生ボタンを止めて、彼女が戻ってくるのを待った。
「んー?」
「お前これ覚えてる?」
コップを受け取ってから再生ボタンを押せば、イントロを聞いた美由紀が割合大きな声で叫んだ。
「あー!覚えてる!卒業前の文化祭!懐かしー、何年前?」
「卒業の年だろ?……三年前?」
「なんでやろうってなったんだっけ。」
「川崎が昼飯奢るから出てって言ったからだろ。」
「あはは。そーだ、それだ。」
奢ってやるよという友人の言葉に一本釣りされて、やったことも無いダンスの練習に着手したのは良い思い出だ。前後に忌々しい記憶がくっついているせいで、あまり詳しく掘り起こしたいとは思わないが。いや、掘り起こしたりなんかしなくてもずっと勝手に脳の隅に居座っている。
「ずっと練習してたからさ、あの人、名前なんだっけ、美由紀の彼氏一回怒ったよね。」
「あーあん時。誰だっけ?」
「俺に聞くなよ。」
早ければ一週間で恋人の名前が書き変わるような学生時代を過ごした美由紀に、情とかないのか、なんて聞いたって無駄だ。こいつに告白すれば初対面の奴だって恋人になれた。ま、昔は幸也も人のことを言えなかったが。もう七年近くになる付き合いだ、幸也はそのことを良く知っていた。
大学一年目に出会ってから、割合すぐ一人暮らしの互いの家を行き来する位には幸也と美由紀は親密な友人となった。どうしてそこまで気が合ったのかは分からない。共通項もさしてなく、波長があった、としか言いようがなかろう。紆余曲折は諸々あったが、まぁ、今もよい「友人」である。
長い付き合いだから、よっぽど彼女のすぐ側でずっと見てきた幸也の方が、美由紀の歴代恋人には詳しいかもしれない。案の定、聞くなと言いつつ記憶をひっくり返せば検索結果が出るのだから。
「坂本先輩じゃね?」
「あー、そんな気がする。」
芋づる式に色々と記憶が甦ってきた。そう、あの頃のことはよく覚えている。日頃意識して押し込めているだけで。
***
大学四年生、最後の年のこと。元より就活する気がなかった幸也はいくつかの単位を四年に残していたので、卒業後の準備と並行して週に三コマほど講義を受けに来ていた。片や単位を落としまくった美由紀もまた、週に三コマどころか二、三年生並の講義を詰めていたから、大学内で会うことも珍しくなかった。
その日も、講義のために校内に来たついでに自習用の教室で書類を片付けていた幸也に、どうせここにいるだろうと顔を出した美由紀が話しかけた、いつも通りの流れだった。なのに覚えているのは、幸也はもう二度と彼女から話しかけられないかもしれないと覚悟していたからだ。
理由は単純明快。彼女以外の友人の殆どが、その前日から口をきいてくれなかったから。
無視やらいじめやらを始めるのは簡単だ。ちょっとした理由付けがあればいい。ノノ達は借りたものを返してくれないからカッキーを標的に決めた。幸也の学友達は「普通」じゃないから幸也を標的に決めた。
亮介という男と付き合ったのが選択ミスだったんだと思う。悪い奴じゃないが如何せんプライドがエベレストも真っ青レベルの高さだったもので、ほとほとやりきれなかった。穏便にさようならと振ったはずの翌日、プライドエベレスト野郎はあろう事か大学の友人のみが繋がるSNSの鍵アカウントでこう呟いた。
『幸也に告られたんだけど振ったわ。あいつホモだったんだな。』
幸也がその投稿を目にした時には既によく燃えていて、いっそ感心したレベル。道理で一部の心配するLINEと一部の罵詈雑言LINEが絶えなかったわけだ。特に歴代彼女の皆様の口を揃えた「本気じゃなかったの」には思わず閉口。大丈夫、俺バイです、と返信することすら面倒臭い。信頼が無いことに軽くへこむ。
さておき亮介よ、そんな特大ブーメランあるか?と半眼でTwitterを眺めた幸也は、相手が指一本で殺しに来たのと同じように指一本でナイフを突きつけた。
よぉ色男、アウティングは俺に振られた腹いせにはなったかい。
交際期の数少ないゼロ距離ツーショットを自分の顔だけ知り合いには分かるだろう程度にぼかす。コメントを添えて躊躇ゼロでリプライに送り付け、スマホを思い切り放った。
勿論、大層よく燃えた。
友人の数は思いの外激減した。露骨に何かを言う奴は一人二人だったが、目が合えば逸らされる、程度の奴は山ほどいた。この時代でもこんなものか、と少々驚く。
ただ、亮介の友人はもっと減った。それから幸也は詳しくは知らないが、どうも例の幸也のやり返しリプライから火種が飛んで、いじめに近いことが起きていたらしい。己の知らないところで「幸也が可哀想だろ」と正義執行されているのには驚いた。
ざまぁねぇなと当時は思い止めもしなかったが、冷静になれば幸也は加害者でもあったわけだ。殴られたからと殴り返したのは、間違いだった。お陰様で幸也は未だ「反撃」という行為が苦手だ。
話を戻そう。この経緯で目を合わせれば逸らされ友人の五割近くから連絡先をブロックされるという惨状の後だったので、幸也は美由紀がけろりと話しかけてきた時割合本気で驚いた。なんなら、ちょっと警戒した。その直前だって、教室に踏み入れた顔見知りが幸也の顔を見るなり気まずそうに回れ右したところだったのだ。
美由紀は騒ぎの中も全く連絡を寄越さなかったから、そもそもこの話を知っているのかすら分からなかった。
「幸也!やっぱここにいたな。」
ポカンと間抜け面で彼女を見つめる幸也の様子に構うことなく、彼女は幸也の隣に腰掛けて会話を続ける。
「お前文化祭暇?出し物の数が足りねぇらしくてさ、一緒に踊ろーぜ。五分だけだし、な!枠埋めたら川崎が昼飯奢ってくれるって言うから。」
あまりにいつも通り。幸也は混乱した。気を使うことすらしないのか、こいつ。
振り返っても、イマイチ分からない。彼女の性格故に、態度が変わらなかったのか。それとも。彼女も「同じ」だから、変わらなかったのか。
混乱する脳内を見せぬように、幸也は努めていつも通りに言葉を返すことにした。
「お前就活は?」
「いいでしょ、ちょい踊るだけだって。」
「坂本先輩誘えよ、踊る坂本先輩ぜってぇおもろいよ。」
「いやそれはそうなんだけど、先輩と練習してても面白くねーよ。」
「言うねぇ。」
坂本先輩、と呼ばれる彼は彼女の恋人で、一昨年まで本当に先輩だった。三年でダブった故に、今は同じ学年だが。次は何ヶ月もつかな、と内心呆れ笑いを浮かべながら、はなから冷めきった様子の美由紀の言葉に相槌を打つ。
「なんか最近めんどくさいんだよね、あの人。」
「坂本先輩は前からめんどくさいよ。」
「ますますってこと。ま、それは今いーや。なー、頼む!昼飯のために!」
パンッと音を立てて手を合わせた美由紀に言葉を探す。今、大衆の前に立てと言われてはいはいと頷ける気分ではない。
「……川崎も困るよ、俺じゃ。」
「何が?」
「何、て。」
やっぱ知らねぇのかな、と思いながら目を泳がせる。何、と言われると。なんと言うべきなのだろうか。何も言わない幸也に、美由紀が言葉を重ねる。
「川崎も幸也なら踊ってくれるって信じてたぞぉ。」
「まじで?なんで。」
反射的に噛み付くように聞き返せば、美由紀は首を傾げた。
「今何かに熱中したいんじゃねーかって言ってた。なんでかね。」
亮介はダメだよ、お前、あれはクズ。別れて正解、おめでとう。
昨晩そうLINEを寄越した川崎の顔を思い浮かべて、思わず笑った。
「……そう。」
「やる!?」
「分かった。やるよ、やる。」
「っしゃぁ!タダ飯ぃ!」
お前ほんと食い意地が張ってるな、と苦笑いを浮かべながら答えようとした幸也の言葉を遮ってそう言えばと美由紀が身を乗り出す。何、と気を緩めたまま尋ねれば、彼女がいつも通りの様子で口を開いた。
「昨日のTwitter見たぞ。」
思わず動きが止まった。
「お前ぇ、私より男運ねぇな。亮介はああいう奴だよ、付き合うもんじゃねぇ。まぁお前が振ったなら良かった良かった。」
川崎と同じようなことを言いながらケラケラ笑う美由紀の顔を凝視する。
「……なんか、ないの?」
「ん?」
「なんか他に、ないの?」
「え?なんかって?亮介に嘘言われて災難だった?な?」
本気で分からない、と顔に疑問符を貼り付けて焦る美由紀に、だんだん力が抜けてくる。黙ったままの幸也にますます焦って、彼女は必死に首を捻った。
「何が!?え?意外と傷心なのかお前、てっきり図太く反論するくらいだから亮介に振られたくらい、」
「振られてない。」
つい口を挟めば、亮介に振られたって言いふらされたことくらい、と言い直して彼女は身振り手振りつけながら励ましを重ねていく。
「気にしてないと思ってた!なんだ気にしてたのか、大丈夫大丈夫、今や誰も亮介の『幸也に告白されたから振った』なんて嘘信じてないから、な!」
「いやさすがにあんだけ写真出してまだ信じてもらえてなかったら泣くよ。」
なんだか笑えてくる。幸也が必死に笑い声を噛み殺して答えれば、やっと美由紀はいつも通りの彼の様子に肩の力を抜いた。
「ちなみにどんくらい付き合ったの?」
「三ヶ月。」
「なげぇな。」
「っふ、くく、いや短ぇよ。」
平均一か月を切る美由紀の交際期間に比べればまぁ長いかもしれないが。言えばはたかれるので笑いを堪える。
「告白してきたのは?」
「亮介。」
「振ったのは?」
「俺。」
「ウケる。」
「いや、そういう話じゃなくてだな、」
言いたいことは沢山あった。でも、何、と首を傾げるこいつには全部些事ということも、明らかであった。
「なんでもない。本来なんでもないはずなんだよ。」
「変な奴。やっぱり傷心か?」
「まさか!」
笑いながら首を横に振る。距離を取られて当たり前だ、と思っていた自分に呆れる。結局幸也自身も、「普通」に固執していたのだろう。
「あ、もう逃げらんねぇからな。川崎に幸也が出るってLINEしたから。」
「早いな……じゃあ曲でも決めるか?」
「ごめん、今は無理だわ。この後言語テストなんだよね。」
「え?次のコマあと二十分くらいだよ。」
「そうヤバいの。」
「留年は笑えねぇぞ……」
また単位落とす気かと眉を上げれば、彼女はケラケラ笑いながら教室を出ていった。
***
文化祭参加を決めた日のことを思い返しながら、幸也はかけていた曲を止める。この曲で文化祭に出ることにして、二人で練習するうちに、放っておかれた坂本先輩は美由紀を振ったんだったか。
その頃から、お互い振られる時のフレーズは決まりつつあった。
どうせ幸也の事が好きなんだろ。
どうせ美由紀の事が好きなんだろ。
幸也に関していえばそれは百点満点の正答であり、美由紀に関していればそれは零点どころかマイナスを行く誤答であった。
「そういや今彼氏いんの?」
何気なく、コップをテーブルに置きながら問う。立ったままコップを傾けていた美由紀が、笑いながら首を横に振った。
「いないいない、長続きするもんじゃないって分かったのでね。お前は?」
「いたらお前をこの時間に事務所に上げないよ。」
それなりに遅い時刻だ。元彼女と二人きりになったら恋人からお咎めの目線の一つや二つ飛ぶ時刻だろう。
「確かに。」
「お前と別れたきりですけど。」
口が勝手に、余計な音を紡いだ。あぁしまった、これは言ったってどうしようもないことなのに。でも声に出してしまったからには、言葉を続けるしかない。小さな声だ、聞こえなかったかもしれないと思った直後に、何が、と美由紀が聞いてくる。乾いた笑い声が出た。
「お前以降、そんな相手いないって言ってんの。」
「あー……」
気まずそうに泳いだ目に、罪悪感が募る。だから言ったじゃないか、無駄な事だと。
「いいよ。俺が言い出したんだし。この距離間でいいんだよ、ほんとにさ。」
嘘に慣れた口から、思ってもいない言葉が滑り出る。
分からない。分からないよ、美由紀。
それでもこれ以上、噛み合わないのに此奴に「恋人」という名前を付与することが得策には思えなかったから。
4
昔のことを思い出しながら、幸也はカラカラと氷とコーヒーを混ぜた。よくある話。メールを受けた時に、嗚呼、これ知ってるなぁ、と妙に親近感すら湧いた。それが被害者としての親近感なのか、加害者としての親近感なのかは分からなかったが。
悪いのは誰、非があるのは誰。
「写真がリアルのためなら、本名教えてくれたのもリアリティを上げるため?」
「そう、かも。あんまり意識はしてませんでした。」
「そう。」
「あ、あの、」
ふいと泳いだノノの目に、幸也は次の言葉を待つ。散々選び抜かれたと思われる言葉は、オブラートに包むことに些か失敗していた。
「……なんか、ごまかすの慣れてますね。」
思わず小さな笑い声が漏れる。さっきの「家庭教師」の話だろう。
「仕事柄ね。ごめんね、すらすらと嘘ついて。」
「お仕事、探偵でしたよね。」
「あれ?なんで知ってるんだっけ。」
ラジオで話したことあったっけ、と首を捻る幸也に今度はノノが笑い声を上げる。なんで笑うの、と眉を上げた彼に、ノノは笑いを堪えながら答えた。
「やっぱり随分酔ってらしたんですね。」
「え、こないだの電話?待って、あれ、言ったっけ。」
「だって電話かけたら最初に『堺探偵事務所です』って。」
「っあー。そうだ。言ったかも。」
恥ずかしいなと口を押さえる幸也の耳に、ころころと笑い声が響く。
「正直驚いたんですよ、最初。電話の時と全然印象が違うから。声は同じですけど。」
「改めて言わないでよ。俺今日来るの、結構気まずかったんだから。」
逃げるようにアイスコーヒーを喉に流し込む。最初の会話が酔っぱらいの泣き言となればいたたまれない。しかも高校生相手に。
温度の上がった顔をパタパタと扇ぐ幸也に、ノノはイタズラっ子のような笑顔を見せた。
「電話の印象に近づきました。」
敵わないなぁとボヤいてソファに沈む。彼女の言う通り、今更こちらが大人ぶったって手遅れなのかもしれない。
「探偵、ってなんだかドラマか何かみたいですね。」
「そんな派手じゃないけどね。掲げてる看板は探偵だけど結構色々やるから。なんかたまに電球替えてとか壁塗り直してとか言われるし。お金貰えるなら何でもやるって感じかな。」
「それ、いいんですか?探偵のお仕事として開業してるんですよね。」
「まぁ、届け出出してやってる以上看板は探偵だけど。資格がいるようなことには手ぇ出してないから。」
法は守ってるし、公安から通達受けるようなことも今のところないし、と指折り主張する幸也にノノが眉を上げる。そんなものですか、と疑いの滲んだ質問を呟く彼女に、そんなもん、と幸也は力強く頷いた。
「色んなことされるってなると、怪我とかも多いんですか?」
彼女の目線が、一瞬幸也の左手に投げられた。束の間言葉に詰まって、ただ当たり障りなく答える。
「どの仕事でも殉職のリスクはあるでしょ。」
「殉職って……」
「どの仕事でもいつ事故が起こるかなんて誰にも分かんないし。俺の仕事の話はまぁいいよ、何でも屋だと思ってくれれば話に支障はないから。」
本題に入ろうか、と暗に問う。ノノが少し身動ぎして、姿勢を正した。
「分かりました。」
「えぇと、じゃあどこから話そうか。」
「あの、私の我儘みたいなものですから……本当に、全部話さなくてもいいですからね。」
繰り返された言葉。幸也は、ゆるゆると首を横に振った。話すなら、全て話さなくては、意味が無いだろう。
「正直もうどこから間違えたとか、どこから普通じゃなかったとか分かんないんだよね。だから見栄は捨てて全部話すつもりだよ。すんごく軽蔑されるかもしれないけど。」
むしろ聞きたくないなら、途中で止めてほしいくらいだ。
「まぁ、正直に話すけどさ、俺の言うこと信用しないほうがいいよ。人に記憶を話そうとするとどうしても物語になっちゃうでしょ。」
ほとんどが、偶然だったようにも思う。美由紀と知り合わなかったら。夢を諦めていたら。南木と知り合わなかったら。あの日じゃなかったら。かけられた言葉の意味を、理解出来たら。
でも、いざ振り返ると断片的な出来事の記憶をわざわざ原因と結果みたいに並べたくなる。全部必然みたいに、考えてしまう。
「じゃあ、あくまでサチさんから見た物語、ってことですね。」
「うんそう。昔々あるところにってね。」
少し強ばっていたノノの顔が緩む。改めて彼女の目を真っ直ぐに見た。
「……幸也でいいよ。」
「え?」
「いや、名前。俺だけノノちゃんの本名知ってるなぁと思って。」
「ユキヤさん、ですね。」
「俺も彩花ちゃんって呼んだほうがいい?」
何気なく問えば、彼女は一瞬目線を落とした。直ぐに、首を横に振る。
「みんなからもノノって呼ばれてるんです。呼ばれ慣れてるから、そっちで。」
「分かった。」
ノノは手元のグラスを少し横に避けた。テーブルの上で、両手をきつく組む。面接みたい、なんて的外れなことが幸也の脳を過ぎった。
「じゃあ、ユキヤさんから見た物語、聞かせて下さい。」
居住まいを正したノノとは対照的に、幸也は背もたれに背中を預けた。どこから、が分からない。
「昔々、そーだな、幸也少年がまだめっちゃ小さい頃。」
「まだ私が生まれていないころ?」
「あはは、その通り!」
一つ目の偶然。幸也は探偵になりたかった。
「物心つく前から、俺は母さんの職場に連れてかれて世話されてた。共働きだったからね。……そこが探偵事務所だった。」
「それで探偵に?」
「そんなところ。で、夢を抱いた幸也少年が大きくなったところから話が始まるわけよ。」
二つ目の偶然。あの大学を、あの授業を、あの席で受けたから、出会った。あと幾つの偶然があって、そのうちの幾つが幸也の罪になるのか。自嘲するように、頬が上がった。
「大学入るとさ、わりと中学高校の奴らとは疎遠になるんだよな。みんな地方行ったり東京行ったり、バラバラになったから。」
「想像はつきます。みんな進路、バラバラですもの。」
「でしょ?だから今度は、大学の同級生の…… 同じ授業受けた人達かな。その中でいつも一緒に遊ぶグループ、みたいなのが自然と出来たのね。」
「それはどこでも同じなんですね。」
「あはは、大人でもきっとそーだよ。」
カランとどちらかのグラスから氷のぶつかる音が鳴る。
「ミーコさんに会ったのも大学でしたっけ。」
「そう。今も仲良いのはあいつとあとまぁ……片手に収まるくらい?減ったね、だいぶ。」
「自然と?」
「いや。」
少し目線が泳ぐ。察したノノが、眉を下げた。
「俺ね、大学四年の時にちょーっと色々あって一部の方々から避けられてたの。これラジオで話したよね。」
「はい。」
「だから美由紀じゃなくて俺にメールくれたんでしょ。」
「ミユキ?ええと、それは……」
「あー、ミーコ。本名が美由紀。しまった、オフレコねこれ。」
相方の本名をうっかり落としてしまい苦笑いを浮べる。彼女は笑って頷いた。
「ミユキさんとは、当時何も?」
「あいつはホントに変わんなかったよ。ま、勿論あいつだけじゃなくて……気を使ってくる奴もいっぱいいたし。疎遠になった奴は、まぁしょーがないっつーか、まぁ無理なら無理でいいやっていうか……」
「何が、あったんですか?」
だいぶ曖昧な言い方になる。でも初対面の少女にカミングアウトするにはいささか抵抗があった。しかも、「いじめっ子」に。
「内緒。『色々あった』の。」
ノノが何か言おうとして、結局目線を落とした。言葉を待てば、囁くような声が届く。目は、まだ合わない。
「やっぱり、無視されるのってつらいですか。」
何について問うているのかは明白だった。彼女は、カッキーに同じことをしたのだから。
「俺は完全に無視されたわけじゃないけど、それでも痛かったよ。」
上げられた目線とかち合う。不安げな色。幸也は肩を竦めた。
「でもそれは俺の話。君がその質問をする相手は、俺じゃ、無い。」
「そう、ですよね。」
「だから、今へこんでもしょーがないよ。」
笑いかければ、少女はぎこちなく頬を上げた。
「まぁなに、だから美由紀とは腐れ縁って感じなわけだ。残念ながら今は愛想をつかされたわけだけど。」
初めてじゃない。以前にも同じように彼女が隣からいなくなったことがある。仲直りと言うにはあまりにも何事も無く隣に戻ってきた彼女は、再び隣から消えた。
「そういえば、ミユキさんはユキヤさんの彼女さんって訳では無いんですか。」
実に何気なく、といった様子で投げられた言葉に噎せそうになる。ぎりぎり平気な顔をして、幸也は首を傾げた。
「どうしてそう思ったの?」
「ラジオ聴いた時、てっきりそうなのかと思って。」
「それは……仲の良い男女、だから?」
「だけではないですけど。なんとなく。」
会話で分かるわけが無いのだ。だって、一方通行なのだし。でもまぁ、仲が良いと言うだけで邪推が入るのは不思議では、無い。
「まぁ、普通の友達だよ。……と言いたいところだけど、元カノなんだよね。」
「……えぇ?」
「ふふ、やたら驚くねぇ。」
「ぎすぎすしてない元カップルって周りにいなくて。」
理解出来ないとばかりに少女が目を見開く。別れたカップルが総じて不仲という環境もまぁ、それはそれで気になるが。
「気まずくならなかったんですか?」
「や、元に戻っただけというか。付き合う前から割といつも一緒にいたし、別れた後も一緒にいるし。」
「そんなもんですか。あまり長くお付き合いなさってなかったんですか?……あ、なんかすごい遠慮のない質問になりますね。」
「いいよ、その辺は気にしない。えっと……大学卒業前に付き合いはじめて、で、卒業した後俺が事務所始める時に別れたんだよね。だから一年ないかな?」
***
確か、交際のスタートはクリスマスだった。毎年何故か、そう何故か毎年一緒にケーキを食う日。
例え美由紀に彼氏がいる時であろうとも、何故か彼女は幸也に声をかける。多分美由紀は恋人とのイベントがめんどくさかっただけだし、街にケーキが沢山並ぶからケーキが食べたくなっただけだ。そんなことは当時も分かっていたし、今はもっとよく分かる。で、幸也は恋人が居ようとその誘いに頷いていた。不誠実だと自覚があるだけ、多分幸也の方が、質が悪い。
彼女の中の友人の最高位は幸也だったのだ。そして友人の最高位は、とりあえずOKした恋人よりも共に時間を過ごしやすい存在だったらしい。
「チーズケーキかチョコケーキ、どっちがいい?」
「……チーズケーキ。」
文化祭前のアウティング騒ぎがあったせいで、情緒のジェットコースターがいつもにもましてとち狂っていた。おまけにあの後じゃ次に恋人を作る気にもならず、友人も減り、美由紀と過ごす時間は相対的に増えた。
「だと思った。」
「だってお前、チョコケーキ食べる気でしょ。」
「チーズケーキも好きだよ。」
「じゃ半分にしよ。」
「そーすっか。」
美由紀の家のソファに転がりながら、幸也はケーキの箱をこっちに見せる彼女にジト目を向ける。こっちの気も知らないで。いや、知らせる気もないこちらが悪いのだけれど。
立ち上がってグラスと皿を取りに行く。
「美由紀、絶対ショートケーキ買ってこないね。」
「幸也っていわゆる生クリーム嫌いだろ。」
「よく知ってんなぁ。」
「知ってるさ。何回一緒に飯食ってんだよ。」
「そーだな。」
こっちの気も知らないで。踏み込んできて、真隣に座り込んで、こいつばかりがケロッとしている。
「もうちょい彼氏に時間を割くべきでは?今日も誘われたろ。」
「いや、ちょっと前に振られた。」
「またぁ?」
「そうそう、幸也のせいで。」
「俺なの?」
「だってさぁ、今回だってお前幸也が好きなんだろ、って振られたんだぜ。」
カシャンと皿がぶつかって不快な音を立てる。
こっちの気も、知らないで。あぁくそ、馬鹿馬鹿しい。知らなくて当たり前だ、隠しているのだから。良くて一ヶ月のこいつとの縁が切れるのにビビって、逃げ打って、自分も同じくらい相手を取っかえ引っ変えしてるのは俺だろうが。
不誠実だと自覚があるだけ、絶対、幸也の方が、質が悪い。
「……なんでだろうな?文化祭で一緒に練習してたから?」
「いやそれは坂本先輩だろ。智樹。その後の彼氏。」
「あ、そっか。え?破局スピード早すぎない?」
「坂本先輩は文化祭前に振られたよ、なんか幸也と二股してることになってたらしくてな。」
「あの人被害妄想逞しいから。」
へらりと笑って皿とグラスを並べる。シャンパンを開けてグラスに注ぐ。この頃から既に逃げ癖はあって、幸也は黙ってグラスを持ち上げた。
「乾杯前に飲むなよ。」
「喉乾いてた。」
「お前マジでそのうち肝臓ぶち壊して死にそー。」
カン、と形だけグラスを合わせる。そのまま中身を全部呷れば、美由紀があからさまに顔を顰めた。何か言おうとして、結局話を戻す。
「んで、こないだ智樹に幸也が好きならそう言えよ!って言われて意味分かんねーってなったから別れました。」
「二ヶ月くらい?」
「いや、ギリ経ってないと思う。確か。」
「そこは覚えといてやれよ。ていうか、俺巻き込まれすぎでしょ。」
「ま、誤解は生むよな。ずっと一緒にいるから。世間は男女が並んでるだけでアベック扱いするんすわ。」
「アベックて。それ死語だろ。」
ケーキを皿に盛って、雑に半分に割る。形が崩れた方を自分の方に引き寄せれば、さすが、なんて言って美由紀が笑う。
「大学入ってからずっとだもんな、四年間。」
「長い付き合いですよ。」
そう、ほんとに長い付き合い。もうその辺も全部ひっくるめて総括すれば「こいつこっちの気も知らないで」に集約されるわけで。集約された結果、幸也の方が口を滑らせた。
「俺だって、振られる時はいつも『まぁ幸也美由紀のこと好きだもんね』だぞ。なんなら憐れみの目がセット。」
「あは、断定系。」
「まぁ、うん。」
「なに、なんだ水臭い。言い淀むなら言えって。」
グラスに二杯目のシャンパンを注ぐ。手に炭酸で弾けた泡が当たって、何気なく舌で舐める。
行儀もクソもなく振舞ってしまう相手に、四年間片思いしてるって言ったら、お前どうする?
「……大学入ってからはさ、別に本気で付き合った人いないっていうか。」
ケーキを摘まめば、美由紀から座れよと声が飛んだ。椅子を引いて、崩れるように腰掛ける。今日は酔いが回るのが早い。
「まじ?誠実そうなツラしてんのにな。」
「んだ、そりゃ。告白されたら断らなかっただけだよ、性別関係なく。」
「性別関係ないのは事実なの?」
「実際ね、バイなのは事実。じゃなきゃ付き合わねぇよ。」
これで俺が同性愛者ならまだ分かる。が、なんでこいつは俺が女性も好きになると分かった上で俺を家に上げて、酒を飲ませて、泊まらせてくれるのか。友達だからだな。信用されてんだわ。あぁ惨め惨め。
割り切ったはずなのに、ダメだった。どうも、あの日はダメだった。
「じゃあ大学入ってから好きな人出来なかったってこと?」
明らかに酔った幸也を面白がるみたいに美由紀が尋ねる。なんなら、二杯目の入ったグラスを彼の方に押しやった。何も考えずに押しやられたグラスを取って、半分くらい流し込む。いつもは十二%二杯ごときで酔いやしないのだ。やっぱり、あの日は変だった。
「逆。好きな人は一年の頃から一人。俺の好きな人ずっと彼氏途絶えないから、二年辺りにヤケ起こして。」
「あー、一年のころお前フリーだったね。」
「うん。そう。そーなの。ヤケ起こして告白全部OKしてた。でもやっぱしんどいからすぐ振っちゃう。」
「難儀な三年間だな。」
そう、口が滑ったんだ。本当に。
「お前のせいだよ。」
「あ?」
「お前のせいだバーカ!」
ギャンと叫んで、残りの半分も全部呷った。後は黙ってもしゃもしゃとケーキを食っていたら、フォークを持った手を美由紀が掴む。
顔を上げて、面白いこと聞いたという顔でこっちを見る遊び人を見て、幸也は思い切り目を見開いた。
待て待て、今俺なんて言った。この、交際申し込みに対してNOの選択肢を地中に埋めたかのごとくオールオッケーした挙句長続きしない遊び人に、今なんて。
「なし、今のなし。」
「まぁ待てってちゃんと言おうぜ。」
「タイムタイムタイム!」
「聞くからちゃんと、ほれほれ。」
「面白がってるでしょお前、あー嫌い嫌いほんとお前のそういうところ世界で一番嫌い!」
手からフォークが滑り落ちる。ガシャンとなった金属音を厭わず手を離さない相手に、幸也は目線を下に固定したまま喚いた。
「じゃ分かった、先に私も一つ白状するわ。」
相変わらず楽しそうな声音だったけれど、真面目なトーンだった。喚くのをやめて、のろのろと顔を上げる。
「私も好きじゃない人と付き合ってたよ。今まで好きな人、出来たことないからな。一人も。私も告白されたらOKしてただけ。」
多分この先も出来ない。そう言って目を細めた美由紀を、幸也はぽかんとして眺めた。そういえばそういう人もいるらしいな、と自身の性指向を把握するため色々と調べた際の記憶が過ぎる。
ていうか。
「それさぁ、俺その後言うわけ?ちゃんともう一回?もう振られてない?」
「やだなぁ、初めてなんだよこんな話したの。幸也がそれでもいいならいいよ、って意味。」
「は?ご、めん分かんねぇんだけど。」
「別に今までみたいに告白されたからOKって訳じゃなくてさ、幸也は人としては好きだし。お前の好きと違ってもいいならいいよって。」
手が離れる。にっこり笑って、美由紀はシャンパンを一口飲んだ。
「ちょ、待ってほんと……え?」
「はい、幸也の番。ちゃんと言って。」
「まじ?」
「まじ。」
なぁ、どうしてそんなにお前は俺のことが気に入ってるんだよ。他の奴にはそのこと言わずにただOKしてた癖に、俺には事情を説明した上で、人として好きだからとかいうのは、何なの。特別扱いが、どれだけ毒か知らねぇの?
立ち上がった彼女が、幸也の真横に来て上から彼を見下ろした。喉をこじ開けるように、白状する。
「……一年の頃から、ずっと好きです。」
「誰が?誰を?」
「俺が!美由紀を!やっぱ面白がってるで、」
言葉は途中で切れて、視界が暗くなった。喋りかけだった開いた口から呼吸を奪われる。散々好き勝手思考をかき混ぜられて、あぁいつだって俺ばっかりさぁ、と幸也は諦めて目を閉じた。
「幸也。」
「な、に。」
乱雑に幸也の口元が拭われる。袖汚れるよ、と気の抜けた言葉が口から転がり出た。美由紀がくすくす笑う。
「今日泊まってける?明日日曜だけど。」
「うん、予定はねーよ。」
「そう、じゃあ今日はベッドだな。」
いつもは、幸也がリビングのソファを借りていたから。言葉の意味を汲んで、思わずテーブルに片肘をついて頭を抱えた。追い打ちがかかる。
「ゴム手持ちあるだろ、どうせ。」
「……あ、る、けど……ムード!」
そう、あるのだ。悲しきかな、遊び人なので。あるのが当たり前みたいに言うな。目の前で爆笑してるこんな奴のキスで目が回っている自分が恨めしい。
「いや、幸也ならいっかなって。そういう好きじゃないってばらしちゃってるし。」
「それでも、さぁ!」
「あ、そういえば冷蔵庫にいちごあるんだった。食べるっしょ?」
怒涛の展開に脳は白旗を振っていた。こいつ、こっちの気も知らないで、あぁくそ、知ってるぞ、どうせ一ヶ月だろ!
結局色々言いたいことを飲み込んで、幸也はいちご食べる、と力なく返事を投げた。
***
で、まぁ、続いたわけだ。半年以上。関係ほぼ変わらず、肉体関係が付与された程度の変化だったから、続いて当たり前だったのかもしれないけれど。
そして、結局幸也の方が「好き」の食い違いに音を上げてその関係は終了した。あまりにも変わらなすぎて虚しかったのかもしれないし、行為の意味することが両者であまりにも違うからだったかもしれない。何に耐えられなかったのかは、幸也自身よく分かっていない。ま、付き合ったら付き合ったで「こいつこっちの気も知らないで」、だった訳だ。彼女の場合、こっちの気を知らないんじゃなくて、理解出来ない、が正しいが。
事務所を始める時に別れた、と言えば、ノノは納得したように手を打った。
「あぁ、忙しくなって会えなくなったからですか?」
「と思うでしょ?実は別れた後のほうが一緒にいたの。」
「え?」
キョトンと目を見開いた少女に、苦笑いを浮かべながら幸也は美由紀との関係を説明する。
「美由紀ってラジオでもたまに言ってるように、漫画家志望なんだよね。その関係で、就職して定時勤務は嫌だったみたいでさ。ずっとバイト勤めなんだよ。」
元々のバイト先に気に入られていたことも相まって、彼女はそこのバイトを続けながら夢を目指すことにしたらしい。二人とも所謂「就活」をしなかったからこそ四年の秋に呑気に文化祭に出られたという話もある。
「実は一年位、掛け持ちで俺の事務所でもバイトしてたんだよ。」
だから事務所開けた後、わりと一緒にいる時間は長かったって訳。そう話を締めくくった幸也に、ノノが片手を額に当てて、もう片方で小さく挙手をする。
「え?待って下さい。」
「はいどうぞ。待ちます。」
想定内のリアクションに、幸也は笑いを噛み殺す。
「お付き合いが始まったのが四年生の時?」
「そうだよ。『色々あった』後。」
「で、別れたのが、事務所を開業した時?」
「あってるあってる。」
「で、ミユキさんと一緒にお仕事をしてたのは……」
「開業してすぐから一年。」
「え、ええー。」
信じられない、という顔で体を引いた少女に今度こそ声を上げて笑った。
「なん、むしろなんで別れたんですか。」
「方向性の違いかなぁ。」
「バンドじゃないんですから。」
「似たよーなもんよ。」
似たようなもの。音楽性の違いじゃなくて、恋愛趣向の違いだった訳だが。「好き」の意味だけで、やっぱり上手く機能しなかった。
「付き合う前は親友だったから、また親友に戻っただけだよ。」
「それ、凄い関係性ですね。相棒みたいな。……あ、話の腰折っちゃいましたね。大学でミユキさんと出会って、それから?」
ノノの問いかけに幸也は視線を天井に投げて唸った。最終的に彼女に話したいのは、目下の愛想をつかされた状況だ。その説明をするなら、やっぱり一度目も話しておくべきだろうなと腕を組む。
「どう話そうかな……えぇと、今俺が『大丈夫じゃない』のは美由紀と喧嘩したからなんだけど。」
喧嘩?喧嘩なのか、と自分で言いながら自信がなくなる。きっかけは分かるが、原因は正直分からないのだし。まぁ兎角、便宜上喧嘩と呼ぼう。
「喧嘩したから昼間から飲んでた、と。」
「めちゃくちゃ掘り返すね。」
「あはは、印象に残ってるもので。」
笑いながらグラスを持ち上げた彼女に倣って、ストローを咥える。少し味が薄くなっていた。
「実はね、初めての喧嘩ってわけじゃないんだ。さっき美由紀がバイトしてたのは一年って言ったでしょ。」
「やめたきっかけがあるんですね。」
「ご名答。……こっから、今回の喧嘩まで、結構えぐい話だけどいい?」
まだ幸也にしてみれば相手は子供だ。十分な年齢だとは思うが、とはいえあまり聞かせたい話ではない。反面、ここでこちらが全部明かして、彼女もまた全部明かすことがお互いのためであるようにも思う。
ノノが力強く頷いた。
「ユキヤさんのしんどいこと全部話してもらうために来てもらってるんです。ユキヤさんが話したいこと全部話して下さい。半分持ってくれるんでしょう?私も半分、持ちます。」
そのやや不思議な言い回しに、幸也は眉を上げる。思い当たる節があって、彼は笑い声を上げた。
「はは、それ俺確かに言ったね。」
「私の半分、持ってくれるんでしょう?」
「うん。あぁでも俺も半分あげたら、ノノちゃんの軽くなんないわ。」
「でも化学変化があるかもしれませんよ、先生。 」
ニィと意地悪い笑みを浮かべる少女に、幸也は目を見開く。
「何その、先生って。」
「私の家庭教師らしいので。」
「はは、そーだった!」
化学反応、ね。現役高校生らしい発想だ。小さくなった氷を手元で弄びながら、幸也は小さな声で礼を言う。
「……ありがとう。」
「ふふ、なんのことでしょう?」
「良い生徒を持って先生は幸せ。」
ノノがころころと笑った。
「よし、じゃあしんどかったらさ、すぐ止めてよね。」
「はい。」
どこまで伝えるか悩みながら、幸也は二年前の春の記憶を手繰り寄せた。
5
その日の依頼人、南木は近所に住む女性だった。何回か雑務を手伝ったことのある常連で、幸也とも美由紀とも顔見知りになっていた。ただ、彼女はその日、随分と妙な依頼を持ってきたのだ。
三時間ほど恋人の振りをしてくれないか、と。
「えーっと、それは理由を聞くことは出来ないんですか。」
「……はい。」
幸也と美由紀は目を合わせて眉を下げた。どうもきな臭い。
「何度も聞いて申し訳ないんですけど、危険なことではないんですよね?」
念を押すように問う美由紀に、南木は小さく頷いた。
「っはい、ただ三時間一緒にいてくれるだけでいいんです。」
随分と必死な様子に、幸也はまぁ危なくないのなら、と立ち上がる。
「分かりました。でも終わるまで値段決めなくていいですかね?何事もなく終われば一時間最低賃金で平気なんですけど。一応、理由も行く場所も聞けないってなるとこっちも怖いんで。」
「ありがとうございます。それで大丈夫です。」
「じゃあもう行きます?」
「はい、お願いします。」
南木に事務所の入口で待つよう伝え、幸也はラックにかかったコートを取る。美由紀が投げたカバンを受け取って、中身を確認した。
「お前留守の間お客さんどうする?」
「用件だけ聞いといて。」
「おっけー。なんか、怪しくないか?平気?」
「まぁ南木さん顔見知りだし、そんな変な話じゃないとは思うけど。でも目的分かんねぇな、急遽恋人役が必要ってどういう時?」
首を捻った幸也に、美由紀は肩を竦めた。
「知らんがな。友達に見栄張っちゃったとか? 」
「人には会わないって言ってたけど。ま、一応三時間半経ったら電話してくれる?出なかったら迷わず通報しちゃっていいから。」
事務所を出て、南木の要望を確認する。呼び方はそのままでいいけれど、敬語を外して。なるほどと頷いてから、彼女の手を取った。幸也とて場数だけは踏んでいるので、それなりに様になる。
他愛のない話をしているうちに、ふと妙なことに気がつく。幸也は立ち止まって彼女の手を引いた。
「ね、ちょっと耳貸して。」
耳元に口を寄せて、抑えた声量で確認する。
「今回の依頼は、さっきの角曲がった時からつけてくる人と関係あったりするんですか。」
幸也の言葉に、サッと彼女の表情が強ばる。
「誰か、いるんですか。」
「はい、もう少し様子を見ないと確信は持てませんけど、多分、尾行されています。心当たりは?」
「……分かりません。」
「分かりました、様子を見ましょう。大通りに行きますよ。」
嘘つけ、と内心思いつつも彼女から体を離す。手を握り直して、大通りの方へ向かおうと足を踏み出した。軽く手を引かれて立ち止まる。
「っちょっと、待って。」
「なに、」
答える前に思い切り腕を引かれた。口の端に触れた感触に瞠目して、弾かれたように彼女から離れた。今、何故。
「離れろ!」
叫び声が彼女のいる方から聞こえて、幸也は舌打ちと共に彼女を自分の後ろに隠した。彼女の真意はさておき、お陰様でストーカーを刺激する羽目になってしまったらしい。男が角から現れた。
「彼女から離れろ!」
「南木さん?お知り合いですか?」
「知らないです、知らないですこんな奴!」
痴話喧嘩か、一方的なストーカーか。面倒事に巻き込まれたらしい、と目線を走らせた。人気はない。大通りまで大声をあげれば聞こえるか?警察に電話を、と後ろに立つ彼女に低い声で命じた。
「早く離れろ、お前は南木さんのなんなんだ!」
何でもねーわ、と眉を寄せた瞬間、後ろで彼女が叫んだ。
「貴方こそ何なの!私の彼氏を悪く言わないで!」
目を見開く。なぜ今、わざと刺激するようなことを!
「貴様ぁ!」
走り出した男の手元が光る。光を受けたナイフを知覚して、反射的に南木を突き飛ばした。彼女がふらつきながらも転びはしなかった事を確認してから男に向き直る。
ナイフが迫る。咄嗟に相手の腕を掴んだ。直後に腹に衝撃が来て噎せ込む。
蹴られたか、殴られたか。体格差があった。あまりにも不利だ。幸也は別に、何か武道に長けているわけでもない。
小柄な体は一撃でふらついて、手の力が抜けた。視界の隅で光が踊る。脇腹に衝撃、一拍遅れて痛みが全身を走った。意味をなさない呻きが零れる。必死に目線を動かす。左の脇腹、多分骨の外だ。肉に刺さっただけだろう。
致命傷じゃない事にいっそ怒りが湧いた。気絶出来りゃ楽なのに。馬鹿みたいに鼓動に合わせて痛みが脳を焼く。
抜かれたナイフを追って左手を伸ばす。柄と刃を掴んだ手から、肉を抉られる感覚がした。喉から勝手に叫び声が上がる。離せと喚く本能を捩じ伏せて、握る手に力を込めた。力が上手く回らない。膝をつく。叫び声。誰の声。
「っ離せ!」
男の怒号。視界がぶれて、頭が痛い。殴られている、らしい。目眩か、殴られている物理的な揺れなのか、もはやよく分からなかった。
腹が。手が。頭が。痛い。痛い。
左手を力いっぱい引けば、ナイフが男の手を離れた。思考が回る前に右手にそれを持ち替えて、ずっと目の前で揺れていた男の足に突き立てる。抉るように振り下ろせば、男は数歩後ろによろめいてそのまま崩れ落ちた。
逃げなきゃ。南木さんはどこだ。
一瞬、視界がブラックアウトする。ガンと全身に痛みが走って、自分がひっくり返ったことに気がつく。もうどこが痛いのかも分からない。脈に合わせて全身が締め上げられるようだった。
「堺さん!」
「南木さ、けい、警察、」
「電話してありますから!」
右手からナイフが取り上げられて、代わりに柔らかいものが渡される。誘導されるままに自分の脇腹にそれを当てた。
手が、暖かく濡れていく。
止血かとそこでようやく考えが回った。上手く力が入らなくて、止血になっているのか分からない。視界いっぱいに広がる青が目を焼いた。瞼が重い。
「堺さん、左手開けますか?」
ひだりて。左手か。強ばって上手く動かない。押し込まれるように渡された布を、何とか握りこんだ。痛みを処理することを脳が諦め始めていたけれど、傷が当たる度に勝手に喉が音を立てた。
「ごめんなさい、すぐ、すぐ終わるはずですから。」
なぜ彼女が謝るんだろう。空の青と白の境目がぼやけていた。酷く寒いような気がした。
自分のものじゃない呻き声が聞こえて、幸也は無理やり頭を動かした。視界に、男にナイフを振り下ろす南木が見えた。
「南木さ、ん、」
何を、しているのかと。問おうとした声は彼女の叫びにかき消される。
「傷に響くから動いちゃダメです!」
走り寄ってきた彼女の手が右手に重ねられる。彼女の謝罪の声と、サイレンの音が混ざる。とうとう目が開けていられなくなって、幸也は意識を手放した。
***
なるべく生々しい表現を避けながら、あの日の事件を伝える。ノノはその間、言葉を失ったように固まって幸也の顔を凝視していた。
「まぁ、後から考えてみれば。俺は南木さんに嵌められたんだよね。」
「その、人を、捕まえるために?」
「多分。だって、じゃなきゃキスされた理由も、わざと煽った理由も分かんない。」
「どうして、そんな方法を取ったんでしょうか。」
無垢な疑問だ、と思った。幸也は落ち着いた声で事の続きを語る。
「ボイスレコーダー持ち歩いてたみたいだから、声さえ録音出来ればと思ったのかも。後から聞いたんだけどさ、一応事務所来る前に、警察にストーカーされてるって相談してたみたいで。ボイスレコーダーも、ストーカーの証拠を集めるために持ってたんだって。」
「え、それなら警察が動いてたんじゃないですか?」
目を丸くする少女に、幸也はゆるゆると首を横に振った。そう、物事上手く回らないのだ。
「ああいうのって、ことが起こらないと何も出来ないみたい。つけられてることは分かってたけど、ほんとにそれだけで。南木さんはそいつの顔も見たことないし、証拠もないし……」
「でも、でもそんなのって変ですよ。ことが起きてからじゃ遅いじゃないですか。」
「つけられてる、ってあやふやでしょ。妄想と区別がつかないんだよ。南木さんは心当たりがあったから、ストーカーが誰か予想がついてた。でも、誰がそれを立証してくれる?」
誰も悪くなんかない。冤罪を避けることと、事件を防ぐこと。どうしてもそこに、隙間が出来る。
「それで、彼氏がいれば、嫉妬して出てくるかもしれないって、賭けに出たってことですか。」
「多分。分かんない。その後南木さんとは一度も顔合わせてないし。」
「え?」
「不起訴処分になってすぐ、南木さん引っ越しちゃってさ。俺が受け取ったのは事務所のポストに直接放り込まれてた、名前だけ書いた封筒のみ!金ばっかりアホみたいに入ってた。今どうしてるのか……」
ストーカー事件に巻き込まれたのは、初めてのことじゃない。悪意を向けられたこともナイフを向けられたこともあったけれど、明確な殺意を向けられたのは初めてだった。話を最後まで聞けなかったのも、初めてだった。何が起きていたのか。それは分からなかったけれど、一つだけ明白なことがあった。
「あの……その、ストーカーは、」
「笹野っていう南木さんの昔の同級生。警察に相談した時に名前を上げていたみたいだから、予想通りだったんだろうね。」
そう、偶然。偶然ストーカーの証拠がなくて、偶然白羽の矢が立ったのが幸也で、偶然幸也が避けきらずに刺されてしまった。何が原因かなんて、防げたのかなんて分からないけれど、一つだけ、そう一つだけ明白なことがあった。
「刺されて、無事、だったんですか。」
「死んだ。」
「え、」
死んだよ、と幸也は繰り返した。
刺されて、反撃して、幸也は助かって、一人死んだ。
誰のせいで?
「南木さんが刺した傷の一個が心臓に届いたんだって。あの後俺意識飛んでたから、もしかしたらその後にも刺したのかもしれないし、俺が最後に見たあん時に死んじゃったのかもしれない。分かんない。」
「ナギさんは、ことが起こる前に殺すつもりだったんでしょうか。」
「どうだろ。まぁ、賭けだったんだろうね。何か起こる前に、録音出来れば警察も動くかもしれない、みたいな。笹野がナイフを持ってたから、計画が狂った、のかな。」
沈黙が降りる。幸也はテーブルの下で、レザーを撫でた。
言いにくそうに、ノノが口を開く。
「死んだんですよね。なんで、不起訴に?」
幸也はしばらく言葉を探して……結局、正直に事実を告げることにする。人の多い喫茶店だ。あまり大きくない声で話す二人の声は、周囲に漏れ聞こえることもないから。
「知人と外出していた時、ナイフを持って笹野が襲ってきた。刺された知人は意識朦朧、彼が奪ったナイフが私の手元に飛んできたので必死に抵抗した。……これがね、俺が確認された『事実』。南木さんの供述。」
「それ、は、」
幸也は乾いた笑い声を上げた。何に対する笑いかは、もう自分にも分からなかった。
「俺は何もしてないことになってた。最初に刺したのは俺なのに。見てたから、南木さんが必死に抵抗した、わけじゃないのはよく知ってた。」
必死に声を抑えながら、喘ぐように幸也は言葉を紡ぐ。祈るように手を組んで、目を閉じたまま彼は嘘を告白する。
「でも、ねぇ?刺された後のことは見ていませんが、揉み合う声は聞きましたって、俺言ったよ。だって、さ、無理だよ。無理。ホントの事言ったら正当防衛じゃなくなって、南木さんは人殺しになるんだから。」
「っ実際!」
ノノが立ち上がってテーブルを叩いた。ガラスがぶつかる音がする。直ぐに注目を集めかねないことに気がついて、ノノは崩れるように座った。
「実際人殺しじゃないですか。ユキヤさんを危険に晒して、それで……」
――実際人殺しじゃねぇか!お前のこと危険に晒したのも、南木さんだろうが!
ノノの呟きに、記憶の中の美由紀の叫び声が重なって響く。
「うん、そう、そうだよ。でも、ずっと誰も助けてくれなくて、なんとか自力で解決しようとして、それで、憎い相手が目の前に転がってきたらさ、誰でもああなっちゃうんじゃないかな、って。」
刺されて、反撃して、幸也は助かって、一人死んだ。
誰のせいで?
「その状況作ったのは俺なのに、どう頑張ったって俺はその罪を肩代わり出来ないの分かってたから、分かってたから……」
***
「お前が?お前が何したってんだよ。」
あの日、病院で胸倉を掴まれたまま叫ばれて、幸也は彼女の言葉の意図も上手く汲み取れずにただ彼女を睨み返した。
「したさ。俺が笹野のこと刺したのがそもそも悪かったんだろ。それに、その前に依頼の理由をもっとちゃんと聞けば、何かやりようが、」
「言わなかったのは相手のせいだろうが!何度も聞いただろ。それに刺したのだって正当防衛だ。」
幸也は美由紀の言葉に、視線を床に落とした。
「……正当防衛って、なんだよ。」
反撃して、人が一人虐められた。反撃して、人が一人殺された。確かに幸也の身は守られた。でも。
「お前が死ぬとこだったんだぞ。死にたいのかお前!」
「っ笹野は、死んだんだぞ。俺が殺したんじゃなくても、俺が、片棒担いだのは、紛れもない事実だろ……!」
首元から彼女の手が離れる。やっと顔を上げて見た美由紀の顔は、なんだか泣きそうだった。
「お前さ、ずっとこうしていくのか?自分が関わって、なんかある度に、自分のせいだって、そうやって。……なんとか言えよ、おい!」
左腕を強く掴まれて、脇腹に痛みが走った。呻いて刺された場所を押さえた幸也に、美由紀が顔を歪める。
「なぁ……それをさ、私は、ずっと近くで見るわけ?」
「ごめ、」
咄嗟に出かけた謝罪の言葉は、酷く優しく掌で口を塞がれて途切れた。
「変えられないなら、頼むから、謝るなよ。」
***
「自身の罪を償えない代わりに、嘘をついたんですね。」
当時の記憶が過って言葉に詰まった幸也に、ノノが掠れた声で問いかけた。
「そう。君と同じようにおかしいと叫んだ美由紀とは、それから一年くらい音信不通になった。」
ノノの目線が落ちる。そのままテーブルに投げ出された彼の左手を見た。
「その時の怪我は、もう何ともないんですか。」
「うん、ちょっとかかったけど、ちゃんと治った。」
嘘ではない。治ったのだ。治っている、はず、だった。誤魔化すように、幸也は笑う。
「もう二年も経ってるのに、はっきり覚えてるんだよね。ノノちゃんは覚えてる?中学の頃とか、高校入ったばっかの頃とか。 」
「うーん。どう、だろ……忘れたいことばっかり覚えてる感じですかね。 」
苦笑いを浮かべたノノに、幸也はそれもそうかと息をつく。彼女もまた、辛い時間を過ごしてきていることを知っていた。
6
「ノノちゃんが最初にメールくれたのっていつだっけ。 」
「一年は経ってないと思いますけど。あの、ユキヤさんがラジオで学生の頃の思い出話してた時です。」
「覚えてないなぁ。」
「大学の時無視されたって話してた回、覚えてないですか。」
「その話どっかのタイミングでしたのは覚えてるんだけど。 」
いつ頃かはちょっと、と幸也は肩を竦めた。話したことを覚えているなら、とノノがじっと彼の目を見る。
「その時に、いじめられた側のほうが『いじめ』って判定しやすいし、忘れにくいって言ってたの、覚えてらっしゃいますか?」
「ああ、言ったかも。」
ノノが、目線を落として微笑んだ。酷く自嘲的なものだった。
「正直、もう時効かなって思ってる部分もあったんです。」
「えーっと、それはカッキーの話?」
「そうです。」
ノノとカッキーは同じ高校に通っている、と聞いていた。そして今は至って普通に彼女とよく話すと。
「さっきカッキーと話してるの見たけど、普通に話してたね。驚いた。」
「そう、なんです。仲良しなくらいで。」
「ああ、だからなおさら時効だと思ったのか。」
納得して呟けば、彼女が縮こまるように身を固めた。
「あ、ごめん責めてるみたいな言い方。」
「いえ。ほんとのことです。そう思っちゃったんです。でも、ユキヤさんの話を聞いて、このままじゃダメだと思って、それに、それに!」
ノノがグラスを持つ手に力を込めた。力んで手が白むのが見える。
「ゆっくりでいいよ。」
ノノが小さく頷いた。しばしの間の後、小さな声で告白が続く。
「あの、結局、今の今まで貴方に言えなかったんですけど……私、今もなんです。今もいじめっ子なんです。」
一瞬言葉の意味が理解出来なくて、幸也は動きを止めた。
「え……カッキーを?」
ノノが首を横に振る。のろのろと顔を上げて、怯えの滲んだ目で幸也を見た。
「ユキヤさんの話の途中ですけど、話しても、いいですか。」
「うん。俺の話もまだこっから長いし。ちょっとずつ、肩の荷下ろしてったほうがお互い楽だと思う。」
幸也は半ば癖のように微笑んだ。話を聞くことに慣れている職業柄、反射みたいなものだ。こういう時、自分の「癖」がどこまでで、どこからが「本心」なのかが分からなくなる。
彼女の話を聞いてあげたいと思うのは、間違いなく「本心」のはずだ。はずだ、なんて自信のなさが、良くないところなのだろうけど。
「中二の頃に始まったいじめは、カッキーが休むようになって、クラスも変わってしまって、なかったことみたいになりました。」
彼女の手の中でカランと音を立てたカフェモカは、一度混ざった生クリームが泡立って分離して嫌な色をしていた。ぐるりと色が混ざる。悪戯にストローを動かしながら、彼女はじっと混ざっていくカフェモカを眺めた。
「ユミチは引っ越す都合で地方の高校にいって、私とミクは地元の高校に進んだんですけど。」
半ば独り言だ。だから幸也も、相槌も打たずに黙ってソファに身を預けた。
「カッキーとマサトも、その高校だったんですよね。」
一度声が途切れる。さっき聞いた名前だな、と思いながら口を開く。確か、確認した最初のメールにも名前は出ていた。
「マサト君って高校上がってから一緒にいる子だったよね?写真なかったからよく分からないけど。」
「はい。あ、ユキヤさん私のTwitter分かりますよね?話に出てくる『男の子』は概ね彼です。」
「なるほどね。中学からの知り合いだったの?」
「はい。学校は違ったんですけど、塾が同じで。中三の夏休みに知り合ったんです。 」
話が核心から逸れれば、会話らしい弾みが出た。それも一瞬のことで、すぐに少女の目線は過去に飛ぶ。
「ミクは違うクラスでしたが、私とマサトは同じクラスで……カッキーも、同じクラスでした。彼女が自分と同じ高校に来ること自体知らなかった。私、彼女の進学先なんて気にしたことなかったんですよ。不登校になった後の彼女の事を考えたことがなかった。酷い話でしょ?」
幸也は否定も肯定もせず、黙って先を待つ。
「あの日、登校初日、名簿で自分の名前だけ確認して教室に向かったらカッキーとマサトが二人で話してたんです。」
二人とも好きなゲームが同じだったみたいで意気投合してたんですよ、と彼女が自棄になったように笑った。
「ねぇユキヤさん、私がカッキーと仲良くするマサトをみてどうと思ったと思います?」
目が合う。怒気を孕んだそれに、少し怯んだ。すぐにその怒りの矛先が自分にないことを理解して、幸也は眉を上げる。
「真っ先にね、私。面倒なことになったなって……これはとりあえず謝っておかないと後々面倒かなって思ったんですよ。」
***
教室に入った途端、まずマサトがこちらを振り返りました。彼は私が同じクラスなことを分かっていて、待っていてくれていたみたいで。すぐに話しかけてきました。
「あ、野々宮!遅いぞ!」
「神宮寺、同じクラスだったんだ。」
「名簿見なかったのか?」
「自分の名前だけ確認した。知り合いは絶対いるし。」
「お前の中学の奴も、ほとんど全員この高校?」
「うん、進学校行った子とかもいるけど。私のとこと、神宮寺のとこと、あと西中の人だよね。」
「そーだな。中学の友達紹介してくれよ。」
彼と話している時、私全く彼のすぐ前にカッキーが座ってることに気がついてなかったんです。笑っちゃいますよね。
「いいよ、お昼一緒に食べる?」
「おう、あ!柿澤、お前って西中?それとも野々宮と同じ?知り合い?」
柿澤、って呼ばれた名前にビックリして、そこでようやくマサトの話し相手の顔を見ました。絶望感が襲いましたよ。当時は保身のことしか、考えてませんでしたから。……いえ、今も、そうかな。
「あ、カッキー……」
「ノノ、久しぶり。」
「久し、ぶり。えーっと、そう、同じ学校だよ。」
あまりにも普通に微笑まれて、混乱しました。とりあえずマサトの質問に答えれば、彼女は酷く明るい声で言葉を続けました。
「でもあんまり喋んなかったよね。中二しか同じクラスじゃなかったし。というか私三年の時不登校だし。」
「そうなのか?」
その不登校の原因が私ですよ?いつ何を言われるかと思うと早くこの場から離れたくて堪らなかった。
「神宮寺とカッキーは知り合いだったの?」
「いや、さっき朝俺らしかいなかったから話してただけで初対面だぞ。」
「そっか。」
教室の入り口から声がして、マサトは同じ中学の子達に呼ばれて離席しました。カッキーと二人で残されて、とにかく、何か言わなきゃって。
「カッキー、あの、ごめんね。」
「……何が?」
「中二の時。」
カッキーはしばらく私の顔をじっと見て、それから一個聞いていい?って随分と落ち着いた声で言いました。さっき話してた時は、やっぱり無理して明るい声を出してたんだって思ったのを覚えてます。
「ノノはさ、私の事無視したでしょ。」
「うん。」
「それだけだったでしょ。」
彼女の言葉は多分、ユミチとミクと比較して出てきた言葉だったんです。二人はもっと直接的な……なんて、言えばいいんですかね。無視からエスカレートして、ノートを破ったりとか足をひっかけたりとか、そういう直接的な行為をしていたので。私は、それに手を貸すこともしなかったけど、それを止めもしなかった。私は「それだけ」、とは思えません。同じことだって分かってます。
ただ、二人と比較したら「それだけ」、だったんでしょうね。
「無視したのも、止めてくれなかったのも、私、なんか怒らせた?」
「……あのね、教科書。」
「教科書?」
「うん、教科書。返して、くれなかったでしょ。」
「そのことは、もう怒ってない?」
ここでね、怒ってるって、なんであんなことしたのって、言えば良かったんですよ。でも、波風、立てたくなくて。
「私の方が酷かったから、もう怒ってない。」
って。思ってもないこと言って。そしたらカッキーがほっとした顔なんかしちゃって、じゃあいいよ、なんて答えて、おしまい。
***
「仲直り、って言っていいんですかね、これ。」
テーブルを睨みながらそう言って、ノノは背もたれに寄りかかった。幸也がそうだなぁと腕を組む。
「ノノちゃんにしてみれば、何にも解決してないよね。カッキーの行動の真意については、一切教えてもらえてないもの。」
「そう、なんですよ。だから、私、いまいち反省しきれないんです。あんなに酷いことする必要はなかったけど、そもそも悪かったのは彼女なんですから。」
「気持ちは分からなくもないね。」
制裁だ、と。これは正義だと、どこかで。先にやったのはお前じゃないかと、どこかで。悪いのは誰、非があるのは誰。自分じゃない、自分じゃないと。
「そういう意味でも、私はまだいじめっ子なんです。」
反省してないので、とノノが眉を下げた。思うところがあって幸也は苦笑する。
自らの心の内まで制裁対象にしては、もたないとも思う。でも、反省出来ない自分を糾弾したい気持ちの方が余程強い。何故こんなにも無情なのか、と思い通りにならない感情に反吐が出る感覚。
身に、覚えがあった。
「それに去年は……酷かった、本当に。」
「去年ってことは高校二年生の時かな。」
「そうです。一年は普通に、ホント笑えるくらい普通に過ぎました。問題はクラス替えで私とカッキー、マサトがまた同じになって、その上ミクも同じクラスになってから。」
幸也は少し首を傾げた。クラスが一緒になって事態が悪化することは分かるが、一年の頃だって同じ学校にミクが居たというのに何も起きなかったのか。
「一年のころ、ミクとは話さなかったの?」
「全く。クラスの階が分かれてたし、体育や数学のクラスも被りませんでした。わざわざ連絡を取ることもなかったし。」
「そんなもんか。」
「そんなもんでしたよ。」
もう高校の記憶は遠い。ただ、確かに相当仲が良くない限りクラスが離れればそれまでだったような気もした。
話の流れから予想を立てて、幸也は独り言のようにボソリと呟く。
「それでミクとカッキーの再会は、君の時ほど上手く行かなかったってわけか。」
ノノは頷いて、吐き捨てるように言った。
「むしろ、最悪。」
***
クラス替えする時って、始業式の前に中庭でクラス表みたいなの貰うんですよ。それで自分が何組で、クラスメイトが誰って確認するわけです。見た瞬間終わったと思いました。でもまぁ、私とカッキーがなぁなぁになったなら、もしかしたら、と期待する気持ちもありましたけどね。
「ノノー!同じクラスだね!」
中庭でミクに元気よく話しかけられて、とりあえず彼女と話しながら教室に向かいました。お互い虫のいい話ではありますね、去年なんて一言も話さなかったのに。ミクは仲の良い子と離れてしまったみたいだったので、私がちょうど良かったんでしょう。
「よーノノ、また同じだったな。」
「おはよ。」
「ノノの友達?何中?」
教室に着いた時にはまだカッキーはいなかったんですけど。ミクがマサトに話しかけているうちに、カッキーが入ってきたんです。
「お、カッキーおはよ。なぁ、同中ってことはカッキーとも知り合いじゃねぇの?」
ミクは振り返ってカッキーを見るなり……笑ったんです。本当に、なんていうか、普通に。あれ、ちょっと怖かったですよ。なんだろう、上手く言葉に、出来ないんですけど。
「あ、カッキー久しぶり!」
「……久しぶり。」
そのままマサトの方を向いて、彼女はこう言葉を続けました。
「ノノとカッキーと、あと今は引っ越しちゃった子がいてね。四人班だったんだよ。」
「仲良かったってわけか。」
「うん。」
仲が良かったのなんて、ほんの数ヶ月の話。なのに、さも当然みたいに彼女はそう言ったんです。
「仲、良かった?本気で言ってるの?」
そして、カッキーはクラス中に聞こえるくらいの声で叫びました。
「もしかして、忘れたとでもいうつもり⁉」
固まったミクに詰め寄って、彼女はなおも叫びました。クラス中が、こっちを見ていた。
「何でそんなにヘラヘラしてんの。」
「あ、ごめ……まだ、気にしてた?」
「気にしていたも何も無いよ!」
「どうしたんだよ!」
マサトが慌ててカッキーをミクから引き離しました。……私はその間、ただ馬鹿みたいに突っ立っていました。ミクは注目を浴びていることに気がついて、何か言おうとして、結局教室を飛び出しました。
「なぁ、どうしたってんだ?」
「不登校だったって、言ったでしょ。」
「ああ。」
「中二の時、何人かにいじめられたの。さっきの子、そのうちの一人。」
マサトが息を飲んで、固まりました。クラスには、「カッキーをいじめていた時の傍観者」だっていました。なのに、あちこちで、ミクを悪者に仕立てる声がざわざわと広がっていく。訳が分からない。腹が立ちました、自分にも、周りにも、ミクにも、それにカッキーにも!
「もう随分前の話だし。立ち直りも……早い方だったし。もう彼女のことは怖くはないけど、でもどうでもいいことみたいに言われたのが、嫌で。ノノは謝ってくれたのに。」
「え?」
マサトがこちらを振り返りました。私は……私は、どんな言い方が一番嫌われないかって必死に考えながら、白状したんです。
「私と、さっきの子と、引っ越した子。班が同じって言ったでしょ。その班の中でカッキーをいじめてた。私もいじめてたよ。」
「ノノは見てただけだよ。それに、ちゃんと謝ってくれた。あんな風な言い方してない。」
マサトは私とカッキーを見比べて、一言、まるで主人公みたいに、自信を持って答えたんです。
「じゃあ、分からせてやろう。どうでもいいことじゃなかった、って。」
忘れたいことばっかり覚えてます。マサトは律儀に、何されたかって確認するものですから、見たことある光景が繰り返されるわけですよ。忘れられるはずがないですよね。
手始めに机に落書き。そのうちにノートや教科書を破ったり、ロッカーの物を捨てたり。
クラスの誰も、止めなかった。見て見ぬふり、どころか露骨に周りから笑い声が聞こえることもありましたよ。誰もミクに話しかけないし。みんな、知ってるんですよ。ミクがいじめられている訳を。だから、止めない。
直接手を出すのは二人だけでしたけど、私も含めて全員共犯者でしょうね。同じですよ、カッキーの時と。
私ですか?一番近くで、へらへら笑ってました。酷いこと言って、実際に何かすることは避けて。
やり過ぎなのは分かってたんです。だから、手は出したくなかった。止めるほど度胸はありませんでした。ただ、へらへら見てただけ。誰も見てない時でも、散らばったノートを拾ってあげることすら、しなかった。
……ユキヤさんは、出来ますか?次は自分かもしれないのに。
***
ノノはそこで一度言葉を止めた。幸也はかける言葉を探そうとして、どの言葉も上滑りするような気がして、結局残ったコーヒーを呷った。氷はもうなかった。ほとんど水のような味がした。
「どうにかしなきゃって気持ちと、私が悪いわけじゃないって気持ちと、ごちゃごちゃと悩んでました。」
混ぜるのを忘れられたカフェモカがまた分離していた。彼女はグラスを一度大きく回して、残っていたそれを飲み干す。
「ユキヤさんがラジオ始めたの、去年の夏でしょう。そんな毎日の中で、貴方達のラジオを聞いていました。……メール、送ろうと思ったのは、貴方が『心当たりがあるなら今からでも謝るべき』、と、仰っていたからです。」
ノノの言葉に、幸也は少し眉を上げた。覚えが、あった。
――いやマジでこんなにリプライ来ると思わなかったんだよね。
――ありがたいありがたい。
――ミーコ、次のくじ引いてよ。
――え、私さっき引いたぞ。
――箱そっちにあるんだもん。
――面倒くさがりが過ぎる……えっとな、学生の頃の一番の思い出。
――学生って大学生だっけ。
――あぁ、中高は生徒なんだっけ?
――小学校は児童?
――だっけ?
――ともあれ大学の思い出だわ。
――サチ、なんかあります?
――あれは楽しかった、文化祭!踊ったやつ。
――あー!楽しかったねアレ。
――てかね、良い思い出探すの難しいのよ、悪い思い出の主張が激しいから。
――え?大学そんなやばいことあったっけ?
――いや俺無視されてたターンあるから。
――マジ?え、いつ?
――お前とは普通に話してたから気づかなかったんじゃないかな。それにそこまで表立ってなかったし。
――一番陰湿じゃねーか。
――そうだよ、みんなほんとにね、一見大したことじゃなくてもやられた方は引きずるからね!
――経験者は語る。
――結局いじめられた側のほうがいじめ判定広いから。
――あ、それはよく言うよね。いじめられたと思ったらそれはもういじめ、って。
――だからホント気がついてない可能性とかあるよ。でもこっちは忘れないからな!
――ちょっとでも心当たりがあるなら確認した方がいいよね。
――ほんとに。過去に心当たりがあるなら、今からでも謝ったほうがいい。
――お前はその時の奴らに今ならでも謝られたほうが楽?
――楽になると思うよ。俺は今でも謝ってほしいって思う。
――私は大丈夫だった?なんかやった?
――いや平気、むしろ普通にしてくれて助かってた。
「そんな話、したね。」
綺麗事だ。人によっては、顔も見たくないかもしれない。それでも、幸也にとっては紛れもない本心。
許せるか許せないか、と言うよりは、覚えていると、今ならしないと、そう言ってほしいと思って。自分がもう、謝るべき相手の連絡先すら知らないことも、手伝って。謝ることが出来るなら、謝ってほしいと、どちらの立場からも強く思ったのだ。
「それでカッキーに謝る方法を相談してくれたわけだ。なし崩しに和解した子に改めて謝りたい、って。」
幸也の言葉にノノが頷く。幸也はしばし頬杖をついて少女を眺めた。
「でも、さ。やっぱりちょっと分かんないな。なんで会ったこともないのに、俺にメールを?」
「相談するならリアルの知り合いよりも、ネットの知り合いのほうが気楽なんじゃないかとは、ずっと思ってたんです。でも、どう切り出すか、とか考えたら難しくて。それでラジオを聞いて、きっかけになるんじゃないかって。」
ノノは言葉を切って、幸也の顔を見た。少し申し訳なさそうに、笑う。
「ユキヤさんとは以前から交流があったし、年上なのも分かっていましたから。」
「ああ、やり取りは何回もあったもんね。」
「はい。……ラジオ、第一回からずっと聞いてたんですよ。」
「そう?なんか恥ずかしいね、ちょっと。」
肩を竦めれば、ノノが小さく声を上げて笑った。
「ずっと、クラスの雰囲気はそういう感じだったのかな。」
「実をいうと、夏休み明けにはカッキーの時のようにミクがいなくなると期待していました。だから、それまで何とかやり過ごそうって。でも、夏休みが明けてもミクは学校に来ました。」
「それじゃあ、俺にメールくれた時も?」
「はい、いじめは続いていました。」
幸也はしばらく彼女の言葉を反芻して、ゆっくりと口を開いた。
「どうしてその時の相談じゃなくて、中学の話を?」
「今自分がいじめに関わっているとは言えなかったんだと思います。自分でもよく分からないけど、なんか……後ろめたかった、のかな。それに、中学のことが何とかなったら、全部なんとかなるような気がしていました。」
全部そのせいだと、思っているので。そう言って、ノノは視線を落とす。
「メールの返事してくれたのに、お返ししなくてすみません。」
「いいや、むしろ、なんつーか……あんまし役に立たなかったよね。馬鹿正直に俺にはなんも出来ないって言っちゃったし。いや、実際なんも出来ないって思ったんだけど。」
幸也は、ノノの気持ちをまず肯定した。憎い相手、当時手が出たのも分かる。今、相手が気にしていないようだと波風立てたくない気持ちも分かる、と。だから幸也はただ、謝れるなら謝った方がいいことは確かだが、それは君の問題だと返した。
それから、次いじめがあれば、二度と関わらないようにしろと。周りに立つな、手を貸さなくとも、少しでも嘲笑した時点で同罪だ。ギャラリーがいるだけで、いじめは過激化するのだからと。
同調圧力で正当化された正義こそ、厄介だから。だから、逃げろと。助ける勇気がなければ、逃げろと。
「詳しく聞くって言ってくれて嬉しかったです。先生に相談出来ない気持ちも分かるって、私が臆病なわけじゃないんだってホッとしましたし。それに、関わるなって言ってくれたでしょう。」
あの時は、今正にいじめが起きているなんて幸也は知らなかった。でも、「次いじめがあれば、」という幸也の言葉は、ノノにとっては仮定ではなく現在進行形の問題であった。
「メールを受け取ってから、もう受験が始まるからって理由をつけてミクの悪口を言っている時やいじめている時には二人に関わらないようにしました。そうやって、私はいじめから離れられました。クラスのみんなも、やっぱり忙しくなって、徐々にいじめも下火になりました。そのうち、何もなくなった……ただ、誰もミクと話さなかった。」
逃げたとしても、逃れられない罪はある。無視は典型的なものだろう。次は自分かもしれないと思えば、「話しかける」というアクションは難しい。
関わらない、が凶器になることがある。目を合わせただけで、不意と逸らされる、その感覚が。
「ミクはミクで、ほとんど他のクラスで過ごしていました。」
「彼女、誰にも相談はしなかったんだね。」
「みたいです。」
そっか、と呟いて幸也は目線を落とした。
「いや、メールは返ってこなかったけどさ、普通にリプとかで話してたでしょ。何か答えづらいこと言ったのかと思ってひやひやしてたんだ。多少は役に立ったなら、良かったんだけど。」
話して楽になるなら、もう少し詳しく聞きます。そう書き添えたメールに、返信はなかった。
「返事、返せなかったんです。あの、返事を考えているうちに……」
しばらく彼女は、言葉を探して目を泳がせた。
「結構話したし、休憩しようか。」
そう助け舟を出せば、彼女はおずおずと頷いた。
「お昼にしよっか、もう一時だし。ノノちゃん時間平気?」
「今日は勉強しないって決めて昨日頑張ったので。一日暇です。」
「良かった。」
何食べる?と尋ねながら腰を浮かせた幸也に、ノノが慌てて首を振った。
「今度は私が出します。」
「いやいや、お昼のほうが普通に高いでしょ。」
学生は奢られときなさいと笑えば、少女はしばしムッと眉を寄せる。と、妥協点を見出したのか表情を和らげた。
「伝票お渡ししますから、せめて注文してここに持ってくるまでやらせて下さい。さっき持ってきてくれたんですし。」
束の間、お互いの目線で無言の攻防が起こる。結局幸也が折れて、サンドイッチとホットコーヒーの一番大きいの、と呟いた。
7
レジのほうへ向かうノノから、ぼんやりと目線を逸らした。ラジオを始めたのがもう去年の八月の話か、と幸也は窓の外に目を投げる。きっかけ自体は、もっと前の話だ。美由紀が、戻ってきた日の話。
お遊びのラジオを始めるきっかけの日。夢の欠片を、持ち上げてみた日。どうして美由紀が戻ってきたのかも分からなかったから、きっと、何か繋ぎ止めておきたかったのだ。
もしくは。思い描いていた夢を叶えたはずの毎日の中で、憎悪を向けられることに慣れていく自分に気がついたからかもしれない。何か……何か、自分にも、人を笑顔に出来るはず、なんて陳腐な夢を見て。
***
二年と少し前に刺されて、美由紀と連絡がつかなくなった。それからちょうど一年ほどだった去年の春、彼女は事務所のドアを叩いてきた。
「よぉ。」
今までと同じように顔を出した彼女に、少し迷って幸也はいつもと同じように笑った。他にやりようが思いつかなかった、とも言える。
「久しぶり。一年ぶり?」
「まぁ、そんくらいか。」
どうして戻って来たのか。それは分からなかったけれど、彼女が出ていった時と、自分は何も変わっていないことは分かった。未だに、はっきりと彼女の怒りの理由すら掴めていなかった。
「なんで、戻ってきたの。俺、変われてないのに。」
「このままお前が死ぬほうが困るなって思って。」
「どーゆうこと。」
「どっかで死なれるよりは、目の前で死なれたほうがいいな、と。」
幸也はキョトンとした。さっぱり分からない。
「ほんとに分かんないんだけど、つまり、また戻ってきてくれるってことでいい?」
結局都合の良い所だけ拾い上げて、聞き返す。彼女が出ていった理由は分からない、が、その理由よりも「幸也の死に際を確認する」ことの方が優先されたようだ。
確かに笹野に刺された後も、死ぬまで行かずとも数度殴られてたり足を滑らせて気を失ったりはした。いつも生きるか死ぬかのような危険な仕事をしているわけではないが、まぁあまり安全では無い仕事も多いのだ。
死に際を確認したいなら、連絡を絶つのは確かに得策では無かろう。何故彼女が自分の死に際を確認したいかは、分からないのだが。
「むしろ、いい?戻ってきて。」
「戻ってきてくれたら嬉しいよ。ずっと一緒だったし、いないと、困る。困った。」
好きとか、そういう以前に、ずっと一緒にいた友人が居なくなれば調子は出ない。美由紀が幸也に友人の最高位をくれたように、幸也の友人の最高位もまた彼女だった。幸也の場合、そこに恋愛感情がプラスアルファされているからままならないのだが。
「そーかよ。一年いなきゃ、慣れたかと思った。」
「慣れないよ。その前に五年くらい、いつもいたんだもん。」
「そーなんだよな。……私も慣れなかった。」
幸也の隣に腰を下ろして、美由紀が息をつく。
「でも五年か、なんかもっと長いような気がする。」
「大学入学も、大学卒業も、なんかすげー前の感覚だからね。」
「な、大昔な気がする。」
懐かしいな、と美由紀がソファに沈んだ。幸也は立ち上がってキッチンに向かいながら、在学中を思い返す。
「大学の頃は好き勝手出来たね。好きなこと出来て、明日の金があれば何とかなって。大学生って大人みたいなもんだと思ってたけど、結局遊んでたな。」
「大人ね。なってみれば、まぁなんとかなったな。」
何とか、の幅は広い。幸也は美由紀にコップを差し出しながら苦笑した。
「稼げない探偵が出来上がったけど。」
「まぁ私もクソフリーターだけど。デビューは出来ないし。でもま、生きてる。」
「生きてる、ね。」
力なく返事をする。浮かんだ歪な笑い顔を見て、美由紀が何か言いかけた。
彼女が出ていったあの時から、幸也は何も変わってない。変われない。分からないから。
美由紀の怒った訳も分からない。困っている依頼者を、危ないかもしれないからと断る理由も分からない。俺が生きて、誰かが死ぬのも分からないよ。俺なら、いくら怪我したっていいって、思うんだけどな。俺で済むならそれでいいと、思うんだけど。
幸也は美由紀がどうして戻ってきてくれたのかも、どうしてそんな顔をするのかも、分からなかった。
「ていうかお前、今仕事何してんの?」
「通信の採点。」
「なるほど。」
「あとは土日飲食。残りは漫画描いてる。」
「意外と自由時間あるんだね。」
今繋ぎなんだよ、と美由紀は肩を竦めた。
「ここ一年結構時給良い所にいたんだけど、ついこの間そこが店畳んじゃって。まぁ、それで今は仕事探してるところ。」
「またここ手伝う?」
何気ない提案のつもりだったが、美由紀は驚いたように目を見開いた。しばし目線を落としてから、彼女は少し寂しそうに笑った。
「ここ結構忙しいだろ。あの時は一年目でまだ暇だったけどさ。それに、繁忙期読めないし。」
「確かに。前は空き時間漫画描いてたもんな。」
事務所を開いてそろそろ三年目に入る。固定客と呼べるような人も増えてきた。幸也の人の良さ故か、近所付き合いの延長のような依頼も多い。一年目より忙しいことは確かだろう。
「今は漫画描く暇少ないかもね。」
「だろ。だから、やめとく。」
「そっか。」
それ、どこまで本心?
聞きかけて、やめた。本心なんてもの、ありゃしないような気すらする。だって、幸也は幸也の本心なんか、分かった試しがない。
「幸也はもう、このまま探偵で食ってくの?」
「うーん、少しは蓄えられるようにもなったし、そうなるかな。ただ、怪我の時親に借りた金がようやく返せたんだけど、今度なんかあった時にまた頼るのも嫌だし。何かあった時にどうするかは考えなきゃなんだよなぁ。」
「ああ、それはすげぇ分かる。明日の飯には困らないんだけどな。」
いざと言う時。来るかも分からないのに備えるだけ無駄とも言えるが、分からないからこそ、備えねばならないのも事実だった。
いつまでも身内に頼りたくもない。嫌いなわけではないが、金のせいで家に間接的に束縛されているような感覚が嫌いだった。だから、自力で立たなくてはいけない。
以前、美由紀も同じような感性で家を出たと話に聞いていたから、彼女が明日の心配だけ出来りゃあな、と顔を顰める理由はよく分かった。
「そう……だからまだ人生迷子だよ。」
肩を竦めて隣に座れば、美由紀がケラケラと笑った。
「迷子って目的地がある奴がなるもんだろ。迷子になんかなれねーよ。」
「言えてる。」
「後ろは崩れて戻れないし、とりあえず目の前の道を歩くだけだな。」
道の例え話に頬を緩めて、幸也はそれに乗る。
「時々分かれ道があったり、誰かとすれ違ったり?」
「そうそうそう。あーしまったさっきの分かれ道間違えた!と思っても戻れないし、一回違うほう行っちゃった人とは会えなかったりね。」
「思わぬところで曲がり角から知り合いが出てきたり。……今みたいに。」
独り言のように呟けば、美由紀は少しだけ口角を上げた。
「あんまり偶然出会った感じではないけどな。」
「お前から離れてお前から戻ってきたんだから、そりゃそうだよ。」
「ごめん。近くで見てるの耐えられなかったんだよ、私が。」
「追いかけなかった俺も俺だよ。多分、またお前に置いてかれたら、やっぱり俺、後ろで見送ってるんだろうな。」
パッと飛び出して行った彼女を追いかける度胸はなかった。どうしたものかと歩いていたら、何故か曲がり角のところで彼女は立ち止まって待っていた。次は追いかけられるだろうか?いや、変われてない幸也は、きっと同じことを繰り返す。
「隣を歩くと喧嘩になりやすいんだっけか。」
美由紀の呟きに首を傾げた。
「なんだっけそれ。」
「大学の頃さ、ラジオの話したの覚えてるか?」
「ラジオ?」
「おう。そん時に、ネットは同じ道、ラジオは隣の道って。幸也が言ったんじゃなかった?」
「あー、言ったな。」
***
どんな話の流れかは忘れたが、確かにそんな会話もあった。
「あーっクソ、一生遊んで暮らしたいな。」
「お前そればっかだな。探偵になるんだろ?」
「違う、働くしかないなら探偵になるけど働かなくていいなら働きたくない!」
偶然同じ講義をとっていた学期があったが、確かその時だ。講義前に昼飯を食べながらびーびーと喚く幸也に、美由紀が手を叩いて笑う。笑われて眉を寄せつつ、幸也はさらに言い募った。
「どの職でも世知辛い世の中だしさぁ。芸能人だとかYouTuberだとかだっていくら好きを仕事にしたとはいえ滅茶苦茶大変でしょ?それと一緒、出来ればなーんもしたくない!」
「まぁなぁ。YouTubeなんてそれで食っていくとなりゃ滅茶苦茶大変だろうな。」
そうでしょ!とびしりと指をさして、幸也はサンドイッチに齧り付く。
「でも趣味としては楽しそうだよね。発信するのって楽しそう。」
仕事にした途端なんでも辛くなんのよ、なんて働いたこともないのにボヤけば、美由紀がぽんと手を叩いた。
「あ、私あれに憧れある。ラジオ。」
「ラジオ?」
「顔見えない相手に向けて話したり、見たこともない人の話聞いたりするのは楽しそう。だから、ラジオ。」
幸也は頷いて、それから少し首を傾げた。
「でもテレビとかラジオとか配信とかって一方通行な感じしない?SNSとか、チャットとか、そういうのと違って。リアルタイムでコメントとかつけるなら話は別だけど。」
「まー確かに一方通行だけどさ、ラジオに対して後から聞いてた人からリアクションがあるだろ。あれがなんか、チャットは打ち合いだけどラジオは交差って感じで好き。」
確かにポンポンと会話するのと、リアクションに時差があるのとだとまた会話の内容も変わってくる。幸也は最後の一欠片を口に放り込んでから、ラジオねぇ、と頬杖をついた。
「あんまり聞かないな。」
「楽しいぞ。」
「まぁでも道路挟んで向こう側の人に手を振る感じでいいかも。隣を歩くと喧嘩になりやすそうだし。」
「なんだそりゃ。」
眉を上げた美由紀を他所に、幸也はにこりと笑った。
「お互い時間出来たらやろ、ラジオ。なんか今ならそれこそYouTubeとかで、似たようなこと出来るっしょ。お前が有名になる前にやろう。」
「有名になってもやろう。」
そう言って、美由紀は口角を上げた。
***
そういやそんな話もなぁなぁになったな、と思い出をひっくり返しつつ、幸也は「ネットは同じ道、ラジオは隣の道」に訂正を入れた。
「ネットは、っていうか。会話は同じ道じゃないかな。いつでも連絡取れる人は視界に入る隣の道にいて、道路を渡れば話せる。偶然道でかち合った人とも、そこで話して、それで別々の道を行く。でも、ラジオとか、ネットでも会話じゃなければ、その時偶然近くにいる人みんなに手を振ってる感じ。」
「ああ、で、気が向いた人がこっちに信号渡ってやってくるのか。」
イメージ映像を脳裏に描きながら、幸也は言葉を続けた。
「そう。……同じ道を並んで話してるほうが、やっぱり喧嘩にもなるだろ。だから喧嘩になったら一回渡って離れるんだ。で、落ち着いてまた道を渡ってみたり、二度と会わなかったり。」
「で、並んで歩いてた私は喧嘩して走ってっちゃったわけ?」
さっきの話に戻った話題に、幸也はちょっと眉を上げた。
「道路渡ったのかな。美由紀、どっちだと思う。」
「いや知らないよ。」
「てかこれ何の話。」
「なんだっけ。」
幸也が笑えば、そこで一度話題は途切れた。しばらく黙ってお茶を飲んでいたが、幸也はほとんど無意識に言葉を落とした。
「ラジオ、やる?」
夢の欠片を、持ち上げてみたくなった。どうして美由紀が戻ってきたのかも分からないから、何か繋ぎ止めておきたかったのかもしれない。もしくは。思い描いていた夢を叶えたはずの毎日の中で、憎悪を向けられることに慣れていく自分に気がついたからかもしれない。何か……何か、自分にも、人を笑顔に出来るはず、なんて陳腐な夢を見て。せっかく思い出した戯れの約束に、触れてみた。
美由紀の目が見開かれる。
「え?マジで?……いや、そんなぱっと出来る?誰も聞かなくないか?」
「俺、Twitterフォロワー三千弱いるからワンチャン。」
「まじ?」
何故そんなに、と眉を上げた美由紀に幸也は笑う。
「モチマルの写真上げてるうちに気が付いたらそんなになってた。」
実家のコーギーの写真を帰省の度に撮りまくって、それを気まぐれにあげていたらなんだか膨らんでいたのだ。まぁしょうがないな、モチマルは世界で一番可愛いので。
「そのフォロワーみんなモチマル目当てだろ。」
「言い方面白いな。ま、何人か話す人もいるし。十人くらいは興味持ってくれるんじゃない?とりあえずそんな感じでいいよ、楽しかったら続けよ。」
「まぁ、稼ぎたいわけじゃないしな。」
やろうか、となった後その日は来客の予定があったので美由紀は帰り支度を始めた。事務所のドアを開けた後、彼女は振り返って幸也の目を見た。
「なぁ、幸也。」
「うん?」
「喧嘩するかも知んねーけど、隣、ずっと歩けるといいな。」
そう言って、彼女はドアを閉めた。
***
あの日やろうと決めたラジオは、以前とは違って流れずに数ヶ月後実現した訳だが。ラジオを始める事になった経緯を振り返るうちに彼女の言葉を思い出して、幸也は思い切り眉を寄せた。
――喧嘩するかも知んねーけど、隣、ずっと歩けるといいな。
喧嘩もさせてくれないのによく言うよ、ほんと。
そういうとこだよなあいつ、と幸也は己も喧嘩が出来ない一因を担っているくせに、それを棚に上げて胸の内でぼやいた。
「ユキヤさん?」
ノノの声に顔をあげれば、彼女がトレーを持って立っていた。
「あ、ごめん。ぼーっとしてた。ありがとうね。」
自分の分のトレーを彼女の片手から受け取って、幸也はもう一度右手を出した。
「伝票。」
「忘れてくれませんでしたか。」
「忘れないよ、やだな。」
俺の事なんだと思ってるの、と笑いながらレシートを受け取る。金額を確認してお札を財布から出して渡せば、ノノがなんで私の分まで出すんですか、と顔を顰めた。
「端数はノノちゃん持ちね。」
「いやいやいや、」
「大人はずるいんですよ、大人しく奢られときな。」
「……じゃあ、出世払いするんで。」
膨れた顔でそう答えた彼女に、幸也は眉を上げた。何気ない応酬のつもりだろう。でも、彼女の想定には「次」があるんだろうか。彼女が出世払いするような歳に、また会うのだろうか。
幸也は少し口ごもった後、ただ期待しておくね、と答えた。
「そういえばユキヤさん、なんでミユキさんと仲違いしたのに、一緒にラジオ出来たんですか?」
「あー、それがね。一年くらいしたら美由紀が事務所に来たの。突然。」
ちょうど思い返していた出来事だったから、幸也はするりと返事をした。驚いて食事の手を止めたノノに笑いかける。
「俺はさ、なんで美由紀がいなくなっちゃったか全く分かんなくて、連絡取らなかったのね。何を直せばいいか分からないのに、連絡出来ないし。」
「え、待って下さい。ユキヤさん、ミユキさんがなんで怒ったか分かってないんですか?」
心底ギョッとした顔のノノに、幸也は瞬いた。二年間考えても明瞭な答えが出なかった問いの正答は、話を聞いただけの高校生にもあっさり分かるほど顕著なものだったんだろうか?
「な、んとなくは分かってる、つもり。えっ、俺が危なっかしいから見てらんなかったんだよね?」
――ずっとこうしていくのか?自分が関わって、なんかある度に、自分のせいだって、そうやって。
――なぁ……それをさ、私は、ずっと近くで見るわけ?
つまるところ、多分、おそらく。危険ごとに突っ込む幸也を見ているのが嫌だった、のかと。記憶の中の彼女の言葉を反芻しながら、幸也はつっかえつっかえ答えた。
うん、言葉にすればひとまずそれっぽい。幸也は一人頷いた。
「んん……そう、とも言えるのか……いや、私も本人ではないんで分からない……いやでもなぁ……」
なんか違うような、と頭を抱える少女の様子に気が付かずに幸也は話を続ける。
「俺、危なっかしいままだったから、戻ってきてとも言えなくて。なのに向こうからひょいっと帰ってきたの。知らないところで死なれるよりは死ぬところを見ることにしたって。」
「……それ、すごいセリフですね。」
「ほんとにね。それで、まぁ、美由紀は事務所で働くことにはならなかったんだけど……割としょっちゅう会ってたかな?よく家来たし、呼ばれたし。」
だから割と一緒にいたね、と言う幸也にノノが距離感の振れ幅……と半眼になった。
「喧嘩明けの様子じゃなくないですか。」
「あはは。勝手な推測なんだけど、多分見張られてたんだよ、俺。」
一日に一度は来る連絡。気まぐれに家を訪ねれば嫌な顔をされるどころかほっとされる。
「今日も生きてるーって顔、よくされたもん。その辺で野垂れ死なれたら困るってことだったんじゃないかなぁ。」
「でも、一年音信不通だったんですよね?」
「それがね、美由紀が音信不通の間はある大学の友達が毎日生存確認してきてたの。」
美由紀の生存確認行為の前は、川崎の生存確認行為に返事をするのが常だった。最近はかなり連絡が減った、ということは。
「美由紀が来たら頻度が落ちたから、あいつら手を組んで俺を見張ってるとしか思えなくてさ。」
子供じゃないのにねぇ、と頬杖をついた幸也に、ノノがくすりと笑った。
「愛されてますね。」
「なのかなぁ。」
いまいち実感はなく、幸也は苦笑いを浮べる。愛されている、というよりは、ただ迷惑をかけているような気がしてならないが。
「今はまた川崎、……あぁ、その大学の友達ね、から毎日生存確認がくる。」
「ミユキさんと喧嘩してるから?」
「ってことかなぁと。」
「ぬかりないですね。」
「ね。」
サンドイッチに齧り付いて、一度会話は途切れる。二人とも食べながら話すのがちょっと下手くそで、妙な間が空いた。
「あれ?ナギさんの一年後にミユキさんが来て……八月にはラジオ、やってましたよね?第一回の時って、仲直りしてから二ヶ月くらいしか経ってなかったんですか?」
「そうなるね。」
「すごい、なんていうか仲良しでしたけど。」
言いにくそうに尋ねたノノに、幸也は肩を竦めた。なにしろ、再会したその日にやろうと決まったラジオだ。おかしいと言えば、おかしかった。
「そもそも喧嘩したって感じもないんだよ。俺が何かして怒らせたはずなのに、怒ってごめんね、気にしないで、で終わっちゃって。」
ノノとカッキーと似ている。よく分からないまま、仲良くしているのだから。
「話してて楽しいからまぁいいか、って気になっちゃって。……で、今回つけが来た。」
「つけ、ですか。」
「うん。」
ここでようやく、はじめの話に戻ってくる。幸也は何故、今「大丈夫じゃない」のか。
解決しないまま見ないふりをした昔の話が、閉じ込めた蓋を開けて、また眼前に鎮座しているから。変わることが、出来なかったから。
「今ラジオ更新止まってるけどさ、最後に電話回あったでしょ。」
どうせ番号を変えるからと電話番号を開けて生放送した回が、最後の投稿だった。企画自体は綴がなく終わったが、うっかり変更せず放置した番号にノノが電話をかけてきたのだ。
「はい。それで私が電話したんですもんね。正直繋がらないだろうなと思ってました。」
「あはは、まぁあれは処理せずにほっといた上に酔っ払って電話に出た俺が悪い。こうして会えたんだし結果オーライじゃない?」
多分話は、大学の頃から始まっていたのだ。少しずつ、何気ない選択と出来事が重なって、いい加減自分と向き合わないと立ち行かなくなった。
その行き止まりは、笹野に刺されたあの出来事とよく似ていた。
「最後の投稿が六月の第三水曜日でしょ。で、七月の頭かな。一週間くらい迷い猫探してたの。」
数ヶ月前のことだから、まだ鮮明に覚えている。茶トラの猫。可愛げのないやつだった、と幸也は思い出して少し笑った。
「猫探しって、基本夜なんだよ。あの子達夜行性だから。で、ようやく見つけて、飼い主に引き渡したのが金曜日の深夜だったんだ。世間は花の金曜日でしょ?家に帰ろうと歩いてたら酔っ払いに絡まれちゃって。無視しようとしたんだけど、上手く、いかなくてさぁ。」
完全に出来上がった酔っ払いには理性が欠けている。ストッパーたる感情がないから、素面の人間よりも力が強いことは往々にしてあるわけだ。
笹野のことがあってからだって、人に危害を加えられることがなかったわけじゃない。でも、誰もいないところで、しかも相手に躊躇がないのは初めてだった。
あの時、以来だった。
「殴られる、と思って。とりあえず受け止めはしたんだけど。咄嗟に殴り返してやろうと思ったら、相手の顔がね。笹野だったの。」
「え、でも、」
「死んでるからね。幻覚よ幻覚。でもなんか、あ、笹野だって思ったら、俺、これも正当防衛なのかな、って。ここで殴ったら、それも正当防衛になるのかなって。思ったら動かなくて。ほんとに、なんも出来なくなっちゃってさぁ。そのまま袋叩き。」
いじめの被害者と加害者を一夜にしてハシゴした経験から来た「反撃」への苦手意識は、自身が自身に張りつけた「人殺し」のレッテルでますます悪化した。
殴られたらどこまで殴っていいんだ。正当防衛ってなんだ。
咄嗟に身を守ろうにも脳は情報処理しきれず停止し、まぁ相手の気が済むなら、と口を閉ざしてなされるがままに耐える。
日常の些細な揉め事をそうやって耐えるようになっていた幸也が酔っ払いの振り上げた拳を見た時。やり返そうと思った瞬間、亡者の幻を見た時。出した結論は想像に易い。
まぁ、相手の気が済むなら。
ガン、と思い切り横面に入った衝撃で、視界はブラックアウト。
「目が覚めたら病院。ま、幸い大したことじゃなくてちょっとした脳震盪だったんだけど。で、見舞いに来てくれた美由紀が、怒っちゃいそうだから距離置かせてって。」
お前がこうなのは分かったうえで戻ってきたつもりだった、と彼女は幸也の頬を撫でて呟いた。
怒ることじゃないのに、怒鳴り散らしちまいそうだから。落ち着いたら顔を出すから。しばらく会えないと、彼女は申し訳なさそうに笑った。なぜ怒るのか教えてくれないのか、と問うた幸也に、彼女はただ変われないことは謝らなくていい、といつかと同じことを言った。
ほら、ね。やっぱり俺、後ろで見送ってる。
「それから、また、連絡取れてないってことですか。」
「うん。そう。病院で会ったきり。だから一か月以上か。」
ノノと電話してから、今日ここに来るまでも彼女とは連絡を取ってない。毎日川崎の生存確認に返事をして、変わらず仕事をして。
「今度は連絡先も家も分かってるんだけど。俺、何が変わらなきゃいけないことか分からなくて。分かんないのに連絡なんて取れねぇし。」
連絡するなとは言われていない。一年の音信不通よりはマシなはずだ。ただ、何とかなった気でいたことが、やっぱり何ともなっていなかったという事実がありありと示されて、前回よりも幸也はよっぽど参っていた。これでまた一年、なんてことになれば多分、潰れる。
「生放送じゃなきゃさ、いつも投稿する一週間前くらいに録音してんのね。退院した日が七月のラジオ録音する予定の日だったから、録音すらしてなくて。それで、そん時は全然気にする余裕なかったんだけど、一週間してさ、第三水曜日……いつも投稿してる日だって気が付いたら一気にどうしようもなくなったんだよね。」
繋ぎ止めておきたくて。夢を美しいものとしておきたくて。それがむしろ、いないということを、ままならなかった夢だった何かを、強調させるだけになることになるとは思わなかった。
「それが、ノノちゃんの電話の日。」
あの日かかってきた電話に、幸也は思わず呟いた。
――俺大丈夫じゃねぇのかも。
言葉を途切れさせた幸也に、ノノがゆっくりと口を開いた。
「あの日……しばらく投稿出来ないって、ツイートしてらしたじゃないですか。どう、したのかなって。……メール、ずっと返せなかったんですけど、ずっと誰かに聞いてほしい気持ちはあったんです。」
彼女は途切れ途切れに言葉を重ねる。
「でも本当の事をいうのが怖くて、返せなくて。……いつも全部ラジオ聞いてて、私が勝手に救われてただけなんですけど、なん、ていうか……しばらく投稿出来ないって見てやっぱりちょっと不安になっちゃって。」
気がついたら電話番号を打ち込んでいた。ノノの呟きに、幸也は目を伏せる。
二人とも、藻掻いていた。
助けを求めた両者が手を取っても、結局一緒に溺れるだけかもしれない。それでも、手を伸ばした。その手を取った。
***
「サチさんさえ良ければ、直接会いますか?」
「え?直接?」
思わぬ提案に、幸也は瞬いた。落ち着いた声で電話先の少女は続ける。
「はい。あ、でもサチさんと住んでるところ結構違うのか。」
「いやまぁ、場所によっちゃいけなくもないけど、あれ、危なくない?だってノノちゃんまだ高校生だし、ネットで知り合った人と直接会うのって危なくない?あれ、これ俺も危ないのかな。ノノちゃんがホントに高校生かも分かんないし、」
アルコールで溶けた頭のままだと、思いついた端から声が出る。それ直接私に言います?とノノが笑った。
「別に、カフェとか人の目があるところで会うなら私は構わないですよ。」
「あ、そっか、そうだね。人がいるところで会えばいいのか。」
「じゃあ、またメールします。大きなお世話かもしれませんけど、飲みすぎちゃ駄目ですよ。」
***
「で、電話したら泥酔してる奴が出たんだねぇ。」
あの日は酷い様だった自覚がある。自嘲気味に幸也がぼやけば、ノノが小さく吹き出した。
「昼から飲んでた理由がよく分かりました。」
頭を抱えた幸也に、ノノがいよいよ声を上げて笑う。幸也は不貞腐れたように目を逸らした。
「あれでも、あの時とりあえずいじめは収まってたんだよね?」
尋ねれば、彼女は眉を下げて首を振った。幸也は目線で先を促す。
「どうお返事しようか迷っているうちに、せっかく下火になったいじめが再開してしまったんです。なんていうか、私の、せいで。」
「……話す?やめとく?」
「話します。今一番私が方をつけなきゃいけないことなんです。」
「分かった。じゃあ、持たせてもらうね。」
「よろしくお願いします。」
ノノは一度深く息を吐いてから、話し始めた。
「メールをいただいていじめから距離を取って、高二の三学期は何とかなりました。学年が変わっても、私達四人は……残念ながら、と言いますか、同じクラスでした。それで、高校三年生ですから、校内推薦の話が上がってくるようになったんです。」
幸也は自分がその年代だったころを思い返しながら頷いた。自分には縁のない話だったが、確かにそんな話もあったはずだ。
「私、一個推薦を申請してたんです。他に生徒が来なければ十分な成績だと言われていましたが、結構ぎりぎりで。でも今の所、他に志望者はいないと言われていて。だから私、すっかり決まった気になって、結構みんなに話してたんですよ。だけど六月の終わりごろ、締め切りが近くなった時に呼び出されて。」
「他に、希望者が出たか。」
「はい。」
彼女の苦い表情を見て、幸也はふと顔を上げた。
「じゃあ、もしかしてそれが、」
「先生は誰とは言いませんでした。」
強く、目をつぶる。固く目を閉じたまま、ノノは震える声で呟いた。
「本人も、黙っててくれれば良かったのに。」
8
「先生なんて?」
「あー、なんか、推薦被っちゃったみたい。成績で決まったから私ダメだったや。」
「うっそ!まだ締め切ってなかったの?」
「うん、ギリギリでもう一人来たみたい。多分決まりだと思うって言われてたから、ちょっとショックだな。」
その日職員室から戻って、推薦の枠が他の人に取られたことをカッキーに伝えたんです。近くにいたマサトも、それを聞いて振り返りました。
「まぁ、仕方ないっちゃ仕方ないよな。他の推薦取るのか?」
「ううん、志望校は変えたくないから。」
「じゃあノノも試験組だね。一緒に頑張ろ。」
「うん。」
「それにしても誰だよ、そんな駆け込みで。どうせなら余裕もって出せって話だろ。だいたいノノがここ受けたいってことは知ってるだろうしよ。」
今思えばそれもどうなんだって話ですけど……私、結構友人達に「取れると思う」って言って回ってたんですよね。浮かれてたのかな。あんまり、なんでなんて考えてなかったけど。他の人は受験中なんだから、割合無神経な奴だったとは思いますよ。
「いいよ、そんな。別に締め切り破ったわけじゃないんだから。私の成績が悪かっただけだし。その人も行きたかったならしょうがないよ。」
気持ちの切り替えは難しかったですけど、これ以上話していても何か変わるわけじゃないし。怒ることじゃないと思ったから、マサトを宥めたんですけど。
「あぁ、それ私。私が出したの。どこでも良かったけど、成績がちょうど良かったから。」
真後ろで声がしたんです。ミクに話しかけられる事自体久々で、言っている意味も分からなくて、私、咄嗟に言葉が出せませんでした。そしたら、私よりも先にマサトとカッキーが声を上げたんです。
「は?お前さ、こいつが前から、」
「知ってたわよ。知ってたから出したんだもの。」
「ちょっと、自分が何言ってるか分かってるの?」
「私の方がノノより頭良かっただけでしょ。何か問題ある?」
マサトが腕を伸ばしました。でも彼の方を見ずに、ミクはまっすぐ私を見て随分変な笑顔を浮かべたんです。
「人のこと笑ってないで勉強してたら良かったのにね?」
マサトがそのままミクを引っ張って、彼女はバランスを崩して机にぶつかって倒れました。落ちた彼女の鞄を踏みつけてから、カッキーは私の腕を引いて教室を出ました。
***
「それから、分かるでしょう?下火になったはずのいじめがまた酷くなりました。ホントに、人のことに構ってる場合じゃないはずなのにね。受験のストレスの捌け口にもなってるんだと思いますよ。」
これはどんな感情だろうか、と幸也はノノの表情を見ながら眉を上げた。随分、変な笑顔。ミクもこの顔だったのかもしれない。彼女は、ミクに、カッキーに、マサトに、一体どんな気持ちを。
「君は?どうしたの。」
「私は、何もしてません。いじめてる所には近づかないようにしてるし、二人がその話題を出そうとすれば話を逸らしています。でも誰かに言うことは出来ていません。」
「ミク本人に何か言われたりした?」
「いえ。相変わらず口をきいてません。」
ノノは、小さく首を振った。
「話が出るたびにもういいって言ってるんです。でも、ノノは気にしなくていいからって。どうしたら収まるのか、分からない。」
幸也はしばし、言葉を探して黙り込んだ。一つ思ったことがあったが、伝えるべきか迷う。結局、上手い言い方も分からず、やや冷たいとも取れる言葉をそのまま投げた。
「ノノちゃんはさ、その、今いじめを止める理由がないでしょ。」
「え?」
丸く見開かれた目に、苦笑いが浮かぶ。
「正直なところ、どうしていじめを解決したいの。」
「それは、どう考えてもあれはやりすぎで、」
「うん、そう。やりすぎ、でしょ?」
彼女の言葉を復唱する。つい目線は彼女から逸れた。そう、これは、幸也の「加害者」としての気持ち。
「どういうことですか。」
「制裁が加えられている事自体に、疑問は?物を返さないカッキー。過去のいじめを謝らず、挙句わざわざ挑発するような言い方をしたミク。」
やられたから、やり返す。お前が先に手を出したんじゃないか、と。幸也は、やり返して、その結果に怯えて、抵抗を放棄した。でも、やられたらやられっぱなしが正解なんて、そんなのあんまりじゃないか?
これが正解なのか?正解を選んで、挙句、このザマなのか?
「もちろんいじめられていい人は存在しないはずだけど、そのまま見過ごして仲良くするのもおかしい。どう?」
「そう、思います。」
では逆に、お前が先に、とその感情を今まさに振りかざしている彼女が正解だとしたら。やり過ぎ、なんて線引きは、どこから?
結局、正解なんて、分かりゃしない。
「うん、俺も聖人君子じゃあないからそう思うよ。文句の一つや二つ言いたい。で、ノノちゃんは言った?」
「え?」
「カッキーになんで教科書返してくれなかったか聞いた?ミクがカッキーのいじめにどう思ってるか聞いた?なんでわざわざ志望校を被せてきたか聞いた?」
どんなに、嫌でも。結局、歩み寄るしかない、のかもしれない。幸也は、聞けなかったけれど。幸也はノノに語りかけながら、昔の自分の影を見た。
「いえ……聞いてないです。」
「じゃあ、ノノちゃん、文句言えてないんだよね。その状態で、さ。なんとなくいけ好かない人のために動くのってめちゃくちゃエネルギーいるんじゃないかな。」
「私、やっぱりどこかで、カッキーがいじめられたのも仕方ないって、ミクがいじめられているのも仕方ないって、思ってるんでしょうか。」
彼女の声が震えていた。幸也は顔を上げずにテーブルの木目に目を滑らせながら、口を開く。耳に届く自分の声が、やけに優しかった。
「それは俺には分かんないよ。でも、俺なら思うだろうなぁって話。実際俺、見ず知らずの人が目の前でピンチだったら慌てて助けに行くけど、嫌いな奴とかだったら迷う……いや、見殺しにするかも。」
自分が我慢して何とかなるなら。誰かの身代わりに自分がなるなら。そうやって問題事を受け止めてきたけれど、幸也だって聖人君子じゃないのだ。
あの時亮介にやり返したことを酷く後悔している気持ちは本物だ。けれど、では今、もう一度同じことが目の前に起こったとしたら。あの怒りを、押し込めておけるとも思えない。
きっともう一度彼を崖から突き落として、そして後悔に叫ぶのだ。
「俺もきっと、やりすぎなのが分かっても足踏みするよ。」
ざまぁねぇなと、見ないふりをして。二度と口をききたくなくて、彼と話すこともしなかった。
「まず、君が、ミクやカッキーを嫌う原因を除いた方がいいかもね。喧嘩、するべきだったんだよ。」
「喧嘩、ですか。」
「そう。根っこはシンプルな気がするよ。『何故、そんなことをしたのか』が分からないから、ノノちゃんは二人に嫌な気持ちが残ってる。」
ようやく顔を上げて、幸也は少女と目を合わせた。彼女の手に持たれたフォークは、パスタに刺さったまま止まっている。
「返して、って言っても返してもらえなかった時、理由は聞いてない。というか、教えてもらえなかったのか。喧嘩して聞く代わりに、みんなで無視した。」
「確かに……あんまりちゃんと話さなかったかもしれないです。というか、カッキーが物を返してくれなかったのは、意地悪しているんだとばかり。」
かたんと金属の当たる音がした。食事は完全に後回しになったらしい。早々に食べ終わった幸也は、皿を端に避けながら水のグラスに手を伸ばした。何気ない調子で、淡々と話を続ける。
「うん。それでミクの事も、どうでもいいと思ってるって決めつけたところから始まってるでしょ。謝ってもらおう、っていう流れになる代わりに分からせてやれ、ってなった。」
自分の嫌いな奴を助けることは、きっと、酷く疲れる。黙って見ている方が、きっと、ずっと楽で。
「だから、ホントになんとなく気にくわなくて、みたいないじめより質が悪かったかも。一見筋が通ってる。でもまぁ本質的には変わらないと思う。話し合いを飛ばしてる時点で『なんとなく気にくわない』ってことだから。」
正義、という言葉は便利だ。本当に。
「じゃあ、まず、カッキーとミクと話さなきゃいけないですね。」
独り言のように呟いた少女に幸也は頷いた。
「……そうだね。ノノちゃんがいけ好かないと思っていることを、解決しちゃうほうがいいかも。でもあんまり即戦力ではないか。」
現状のいじめが解決する訳では無いな、と腕を組む。徐に顔を上げたノノが、大丈夫ですとやけに力強く言った。
「なんとか、します。自分が積極的に動けなかった理由が、分かったので。」
「……糸口にはなったみたいで、良かった。」
「ともかく、カッキーに小学校の頃の事を聞いてみようと思います。でも、理由って、やっぱり私には分かって意地悪しているようにしか……」
悪意がないなんてこと、あるのか。そう言って首を捻った少女に、幸也は苦笑いを浮べる。
「ああ、意外と根っこは不可抗力かも?どう頑張っても忘れちゃう人とかいるし、もしかしたら例の教科書も、何か借りた理由を達成することを忘れちゃっててさ、もう少し借りたかったのを正直に言えなかっただけかもしれないよ。まぁ、先生に言われたら返した、って時点で不可抗力だけじゃなくて向こうにも非がありそうだけど。」
普通、が通用しないことは思いの外多い。
なんでこれが出来ないのか、出来ないはずなかろう、わざとだな。
そういう思考につい流れ着くが、その実、個人差という隔たりは大きい。聞かなきゃ分からないし、最悪聞いても分からない。ままならないな、と思う。
「ホントのところは分かんない、からこそ聞かないと。」
そして、聞いて分からなければ、離れるしかないんだろう。その言葉はあまりにも悲観的な気がして、幸也は喉元に引っかかったそれを飲み下した。
「不可抗力、ですか。」
「うん。ノノちゃんは絶対に忘れないかもしれないけど、それはみんなに当てはまることじゃないから。」
聞いてみなよ、と幸也はもう一度繰り返した。
「今なら、小学校の頃よりお互い語彙も知識も経験も増えている。当時は聞けなかった理由も、言語化出来るようになってるかもね。」
「でも、なんていうか、そういうのって……」
「ん?」
「なんて言えばいいんでしょうか、彼女の行動がそういう、不可抗力から来ていたなら、今なんで彼女はいじめている側なんですか?彼女はつまり、普通じゃない人、っていう言い方は良くないかもしれないけど……」
幸也は一瞬言葉に詰まった。ぼんやりとしたその言葉に確かなバイアスを感じて、はくりと息を吐き出す。
「カッキーは、守られる側じゃないかってこと?」
普通じゃ、無い。それは概ねマイノリティで、弱者で、攻撃対象で、庇護されるもので。
いつか受け取った、侮蔑の言葉に混ざった憐れみを思い出す。
「そう、なりますね。」
「それは、違う、と思う。あー……なんて言えばいいかな。」
色んな言葉が過ぎって、散った。嫌な汗が浮かぶ。彼女に悪気がないことは分かっていたし、当時かけられた言葉だって、親切心によるものだった。それでも。
――俺がバイだから良い人とは限らないだろ、と、思ったことは、何度あっただろう。
「人と違うことは、その人の側面の一つだ。彼女の忘れ物に罪がないからって、彼女が良い人だという話にはならないよ。君の言う『普通の人』はみんな良い人かい?」
「いえ。そう、ですね。ごめんなさい。」
「……いいよ。無知が罪だとは一概には言えないから。」
ホットコーヒーに少し口をつける。デカいサイズ頼むんじゃなかった、全然冷めてない。ひりついた舌をグラスの水で誤魔化しながら、幸也はふと、思い出したように付け足した。
「俺をいじめてた奴は、ある意味では『虐げられている人』だったよ。実際、俺が反撃したから……いや、いいや。」
「普通の人」が、「普通の人」を思いやれないように。同じカテゴリーにいるから、その仲間内なら思いやれるかといえばそうじゃない。そのつらさが分かるから手を差し伸べられることもあるし、そのつらさが分かるからこそ手をかけてしまうことが、ある。
結局赤の他人同士だから、当然か。
「……あの。ユキヤさんが何故虐められるようになってしまったのかは、やはり教えてもらえませんか。」
「あー。そう、だね。」
「話せたほうが楽かなって、思ったんですが。」
親切心。良い子なのだ、本当に。そして、悪い子。幸也も、きっとそう。とてもどっちつかず。
「まぁ、なんつーか、俺がね、ノノちゃんと同じような状況だった時に、いじめを止められるかって言ったら自信がないんだよ。ただ、もしノノちゃんがあの時俺の友達だったら、多分疎遠になっちゃったんだろーな、とも思う。」
幸也は、被害者で、加害者だった。
己もそうだったと言われればそれまでだ。分かっている。それでもやはり、「いじめっ子」が、怖い。
ノノが、怖い。
「だから、言えない。言えないけど、責められない。……それは、ごめん。こればっかりは、しょうがない。お互いにね。」
「なんで、それでも一緒に悩んでくれるんですか。私は『いじめっ子』なのに。」
ノノが少し体を乗り出して尋ねた。一瞬目を見開いて、幸也はすぐに笑った。
「だって、ノノちゃん俺の話聞くって言ってくれたでしょう。」
「え?」
「大丈夫ですか、って言ってくれたでしょう。」
「それだけ、ですか。」
納得していなさそうな顔に、思わず笑い声が漏れる。笑い声に、ノノがますます不服そうな顔をした。
「それだけ、じゃないよ。すごく大きいことだよ。そりゃ、悩んでるなら助けたいって最初に思ったのは一般的な良心だけど。俺あの時の電話でだいぶ救われたから、今はお返ししたいなぁっていう気持ち。俺にとっては、大きかったの。」
「……そう、でしたか。すみません。」
「今のは謝るところじゃないよ。」
少し咎めるような言い方になってしまった自覚はあった。でも、幸也にとって大きかったという感覚はあくまで幸也個人のもので、それがノノの感覚と齟齬を起こしたとて謝る必要は無いのだ。幸也は眉を下げて説明を加えた。
「今のは、ノノちゃんが自分で自分のことを『それだけ』って下げるのを止めただけ。ノノちゃんが自分で自分の首絞めるのを止めるのって、俺の自己満足だから。」
「どういうことですか?」
「ノノちゃんは絞めたくて絞めてるでしょ。止めるのなんて俺の自分勝手だよ。その自分勝手に申し訳ないなんて思う必要はない。」
助ける、という行為が、どれほど自分本位なものかは、よく見てきたから。君も見ただろう、と囁けば、彼女は目を伏せた。
「……ユキヤさんは、なんで、私が首を絞めるのを止めたいんですか。」
「苦しんでるの、見たくないから。」
一瞬、彼女の口が謝罪を作ろうとした。気持ちは嫌というほど分かる。自分の無価値さを感じているから、人に手を伸ばされると申し訳なさが湧き上がるのだ。自分のためなんかに、と。
他人のことなら分かるのに、自分となると同じように考えられないのはなんでだろう。
「ありがとう、ございます。」
ちゃんとお礼の言葉に切り替えた少女に、幸也は少しだけ笑った。彼女の方が、ずっと前を向いている、ような気がした。
「ま、多分ブーメランなんだけどね。」
「え?」
「いや、いいや。」
誤魔化すように笑って、幸也は首を振った。
「なんかあんまり上手く相談に乗れてないかな。結論は出そう?」
「そう、ですね。ともかく、カッキーとミクと話してみます。ユキヤさんの言う通り、その過程を飛ばしちゃったのがいけなかったんだろうなって。……そしたらその後、ユミチとも、連絡取ってみようと思います。」
幸也は黙って頷いた。彼女は、答えを出した。自分は、どうしようか。人のことなら分かるのに、自分のことは、分からない。
「食器、下げてきましょうか。」
彼女の声に、あれ、いつの間に食べ終わったの、と幸也は顔を上げた。ペロリと完食されている。それだけ自分がボーっとしていたのか、単に食べることに集中すりゃ早いのか。
「俺、行ってくるよ。」
少し驚いて、慌てただけなのだ。お互いの手が当たって、ドミノ倒しみたいにグラスとカップが傾いた。咄嗟に近かった手を出せば、止められたものの思い切り手にコーヒーがかかった。一拍遅れて痛みが来る。
「っつぃ!」
「大丈夫ですか!」
「へーきへーき、あーびっくりした。」
手袋をしている方で良かったかも、と一瞬考えたが、予想よりも熱かったのかすぐにジンジンと痛みだした。こういう時どうするんだっけ、と首を捻る。
「冷やさないと、」
「大丈夫だよ。結構経ってるし、むちゃくちゃ熱いってわけじゃ、」
「今熱いって言ったじゃないですか!」
ギャンと吼えるノノに肩を竦める。これじゃどちらが大人か分かったものでは無い。
「どこにかかったんですか。」
「左、まぁ手袋してたし、」
ノノが幸也の腕を引いて立ち上がった。振り払おうと思えば払える力だったが、抵抗する気になる隙すら与えられず、ただ彼女について歩く。御手洗の方に進んでいることに気がついて、ようやく彼女の意図が分かった。
「すぐ冷やさないと悪化しますよ。」
引っ張られた腕はそのまま蛇口の下に突き出されて、コーヒーまみれになった手袋ごと勢いよく水に当てられる。
「あはは、ごめんね。でもほんとに平気。」
熱でヒリヒリとしていた感覚が弱まって、思考が落ち着いてくる。落ち着いてくると同時に、焦りが込み上げる。次に来る言葉に脅えて、幸也は必死に頬を持ち上げた。
「ユキヤさん。」
落ち着いた声音だった。彼女の手が、レザーを軽く掴んだ。
「これ。取って下さいって、言っていいですか。」
幸也は、予想通りの言葉に唇を噛んだ。正しい。彼女は、正しい。分かっている。それでも、人前で外すのには戸惑いがあった。一人の時でさえ、外した手は見られないのに。
「……後で文句は聞くので。」
待って、と声を上げる前にするりと手袋が引かれる。咄嗟に目を逸らして、空いた右手を台につく。冷えた偽物の大理石の温度を、必死に脳で辿る。彼女は何も言わずに、幸也の左手を水で冷やした。
「赤くはなってないですね。」
布の感触がした。何か言わなくては、そこまでしなくていいと、伝えなくては。喉が上手く、機能しない。
「ごめんなさい、手袋外したくなかったんですよね。」
「……ごめん。」
随分掠れた声が出た。
「なんでユキヤさんが謝るんですか。」
「だって、気持ち悪いでしょ、傷が。」
「少しでこぼこしてることですか?言われなきゃ分かんないくらいですよ。」
まずハンカチが左手から離れて、次に彼女がようやく腕から手を離した。ゆっくり下ろして、幸也は左手をそのままズボンのポケットに突っ込む。肺の息を全部吐き切るように、呻いた。
「そ、だよね。そのはずなんだよね。」
ノノの手から、ぐしゃぐしゃになった手袋を取る。
「ユキヤさん?」
「とっくに治ってんだよね。ホントは。」
「どういう、ことですか?」
二、三度何かを言おうと幸也は口を開けた。結局音を作らずに閉じる。一度頭を振って、席に戻ろう、とノノを促した。左手は、ポケットの中のままだった。
席に戻って、予備の手袋を引っ張り出した。汚れることは珍しくない。外出先で、取り換えることだって。ただ、昔の話をしたばかりだったことと、突然のことだったあまりに、思いの外動揺している自分に呆れた。
ようやく自分の視界から左手を隠すことに成功して、幸也は力を抜いた。ビニール袋にさっきの手袋を放り込んで、リュックに投げ入れる。顔を上げれば、酷く心配そうな表情と目が合った。
幸也は、とっくに治ってんだよね、と繰り返した。喉から引き攣った笑い声が落ちる。ほとんど独り言のように、そのまま言葉が滑り落ちた。
「分かってんの。だって、ねぇ、二年以上前よ。直で手袋して痛くねぇんだし。てか一回治ったし。」
「ユキヤさん、」
「俺ね、アホみたいだと思うだろうけどさ。一回見てんのよ。」
また笑い声が落ちた。勝手に。何に対する笑いかも、分からない。声が震えた。
「その、ちゃんと治ったの、見たの。ちゃんと医者にもう大丈夫って言われたよ。えぐれた痕は二本ばっちりあったけどさ、ちゃんと肌色になってたし。でもね、ああ治ったんだな、ようやく終わったんだな、って、思ったらさ。」
終わるわけないだろ、と。何かが。何かが、幸也を許さなかった。
「そしたら手からバーって血が出てきて、いや出てねぇんだけど、多分。ともかく痛くて、うん、見なきゃ平気なんだけど。左手見ると駄目で。」
治ったはずの手から止めどなく血が流れて、いつかみたいに手が、腕が、暖かく濡れていく。脳を刺すみたいな痛みが連鎖的に記憶をひっくり返して、脇腹まで痛み始める。
咄嗟に近くにあったハンカチを巻けば、馬鹿みたいにあっさりと痛みが消えた。
ずっと、ずっと。薄いペラペラの布一枚で、気が狂れるのを防いでいるのだから、ああ本当に、笑えない。
「さっき、話してくれた時の……傷、ですよね。」
「うん、そう。」
幸也が落ち着くのを待って、ノノが静かに問う。顔を覆ったまま、幸也は頷いた。笹野のナイフを、掴んだ時の傷。
「まぁ、多分、トラウマみたいな感じ。見ないことにしてるから、逃げてるだけなんだけどね。」
「誰かに相談したこと、あるんですか。」
「いや……初めて言った。」
「ミユキさんには……」
彼女の言葉を遮るように首を横に振る。
「たいしたことじゃないし。」
「たいしたことじゃないって、そんなわけ!」
「ごめ、」
反射的に、口が謝罪を吐いた。言い切らぬうちに、ノノが静かに、はっきりとそれを遮る。
「謝ることじゃないです。」
驚いて、幸也は顔を上げた。目線がこちらを射抜く。
「さっき、私にはそう言ったじゃないですか。私は別に迷惑してないですから謝ることじゃないです。貴方が自分の首を絞めるから……だって、ユキヤさんこそ、すぐ、謝る。」
口を開きかけて、咄嗟に覆った。他人のことなら分かるのに。思った以上に、謝罪は口に馴染んでいた。
「口癖なのかと思うくらい。最初の電話の時から気になってたんです。」
ふっと、表情を緩めてノノが笑った。
「なんでですか。今、なんで謝ったんですか。」
何故。自分の思考を意識したことなんて、なかった。ゆっくりとそれを辿って、のろのろと口を開く。
「だって、俺なんかのために心配してくれるのも、怒ってくれるのも、悪いなって。」
「ねぇユキヤさん。大切じゃなきゃ、怒らないですよ。」
やけに大人びた表情で、彼女が笑う。自嘲じみたその笑みは、多分幸也に向けたわけじゃない。
「今日、話を聞いて、ユキヤさんに幸せになってほしいなって思ったから、怒るんです。謝ってほしいんじゃなくて、首絞めるの、やめてほしいんです。」
自分がノノに伝えた事と、よく似ていた。
苦しんでいるのを、見たくないから。
「ユキヤさん、自分の事あんまり好きじゃないでしょう……分かりますよ。私なんかのために手を煩わせたくなくて、申し訳なくなります。でも、ユキヤさんが私のために悩んでくれるのは、ユキヤさんのためなんでしょう。」
「うん。」
「ミユキさんもきっとそうです。心配だから怒るんです。ミユキさん自身のために怒るんです。」
今出てくると思っていなかった名前に、幸也は眉を上げた。
「美由紀が?」
「ミユキさんが怒った理由がよく分からないって言ってたでしょう。危なっかしいから見ていられなかったのかなって。」
「だと、思ってるけど。」
きっと、ちょっと違うとノノが頬杖をついてこちらを見た。咎めるような視線に、幸也は思わず背筋を伸ばす。
「どうせ、ごめんって言ったんでしょう。ナギさんの事件の後。」
「……言った。」
「脳震盪起こした時は。」
「い、言いました。」
怒られたようにきゅうと背中を丸めた幸也にノノがくすりと笑った。
「多分、謝ってほしかったんじゃなくて、やめてほしかったんですよ。自分の首絞めるの。」
「でも、さ。いつ危ないことが起こるかなんて分からないじゃない。どの仕事でも殉職のリスクはあるでしょ。」
「死ぬかもしれないのと、死に急ぐことは違いますよ。」
怒ったような声に、幸也は動きを止めた。
「せめて、自分を大切にして下さい。たいしたことじゃないなんて、言わないで。」
「お、れは、大切にされるようなもんじゃないよ、ほんとに。」
絞り出すように、呟いた。自分本位と、自己防衛の境目が分からなくて。誰かが自分のせいで傷つくなら、自分が傷つけばいいと思って。それが、誰かを傷つけていたのなら、どうすればいいのだろうか。
「ユキヤさんが絞めたくて絞めてるのを止めるのは、私の自分勝手です。苦しんでるの、見たくないから。きっと、私以外にも、沢山いますよ。止めたい人が、沢山。」
愛されてますね、と。ノノが囁くように、呟いた。一度目に言われた時は受け入れられなかったその言葉に、幸也は小さく頷いた。
まだ、素直に受け入れられる訳では無いけれど。どうすればいいのかも、分からないけれど。それでも、目の前の彼女の労りだけでも、信じなくてはならないような気がした。
自分より、きっと他人の方が、自分を知っているから。
「……ありがとう。」
「持てましたか、半分。」
「軽くなった。半分より。」
「奇遇ですね。私もです。」
ほとんど意地で、涙を落とさぬように幸也は笑った。
「……ただ、少し不安なんです。私一人の行動で、止められるか。」
「そう、だね。うん、正直に言えば、無数の可能性があるからなんとも言えないな。この先なんて何も決まってないから。やっぱり他の子達の行動でかなり変わってしまうとは思うよ。」
話さなくてはいけないと、そう二人が腹を括ったところで、何か現状が動いたわけじゃない。相手がいて、初めて話が動くのだから。
「上手くいくでしょうか。」
「無数の可能性があるってことは、明るく考えることも出来るよ。俺がここで何か言ったことでノノちゃんの未来が変わってもおかしくないし、逆にノノちゃんに言われたことで俺の未来も変わり得ると思う。だから、ノノちゃんの行動は必ず他の子達に影響して、その先に影響する。……と、俺は思うな。」
「そう思うとむしろ気が重くなります。折角ここで決意しても、直前で結局躊躇ってしまう気がするし。ユキヤさんはちゃんと話せそうですか?」
「の、つもりだけど。……ちょっと自信はないかな。」
「今日、お話聞いてもらって、自分の気持ちに納得は出来ました。でも、怯えずに聞けるか分からない。」
気持ちはよく分かる。それでも、前に進む必要がある。相手と向き合う時は、お互い一人で戦わなくてはならないし。そこまで考えて、幸也はじゃあこうしようか、と手を打った。
「良い方向に行くように、約束しようか。一人の決意じゃなくて、二人の連帯責任。」
「約束、ですか。」
「俺はね、」
少し、口にするのに躊躇する。出来ないことは言いたくないし、かといって逃げたくもなかった。
「明日から自分をないがしろにしないよ。約束する。」
「出来ますか。」
じっと、ノノがこちらを見た。決意を固めるように一度目を伏せて、幸也は彼女に笑いかけた。人当たりの良い笑顔ではなく、どちらかと言えば好戦的な顔で。
「俺の……今までの俺を賭けよう。出来るよ。君は、どうする。」
一瞬、彼女は言葉を探して黙った。
「今までの私を賭けます。自分の正義に従います。」
「連帯責任だね。」
ノノが深く頷いた。
「上手く、行くでしょうか。」
「約束が果たされたからって良い方向に行くとは限らない。でも、無数の可能性が後悔のない方にある程度絞られただろ?」
「そう、願います。」
「俺ら、完全に立ち止まっちゃってるから。やることやって、それからだよ。君の為にも約束を守るから、俺の為にも、約束を守って。」
ノノが笑った。幸也と、同じように。
「……必ず。」
9
電車で家の近くまで戻って、夕食の買い物をすればそれなりに遅い時間になる。玄関のドアを引いて、幸也は思い切り顔を顰めた。しまった、電気を消し忘れていたらしい。
丸々一日は痛い出費、と脳内でボヤきながらリビングのドアを引いて、中に座っていた奴と目が合って、幸也は思い切り手に持っていた買い物袋を落とした。
「おかえり。」
見慣れた、久々の、その顔に。幸也は深々とため息をついて、その場にへたり込んだ。
何?幻覚?
「ついにここまで来ちまったか……明日病院かな……」
半分本気、半分ジョークで呟けば、美由紀がお前の幻覚じゃねーから、と呆れたように言って立ち上がった。
「じゃあ、なんで、俺んちいんの。」
美由紀がポケットからストラップのついた何かを取り出して、幸也の前に掲げる。
「合鍵。」
付き合ってた時のやつ、と言われて、幸也はもう一度ため息をついた。
「あぁ、うん、あげたね。そっか、返してもらわなかったのか。」
「幸也もうちの鍵持ってるでしょ。」
「そーだね。でも、お前さぁ、えぇ。」
気が抜けたというか、なんというか。手を引かれるままに立ち上がって、幸也はとりあえず買い物袋の解体を始めた。
「水曜だから家にいるかと思った。」
「ちょっと県外で人に会ってたんだよ。え?いつからいたの。」
「一時間くらい?」
「あ、そう。夕飯食べる?」
「食う。」
当たり前みたいに美由紀に卵のパックを渡してしまう。彼女は彼女で当たり前みたいにそれを冷蔵庫に仕舞えるようにキッチンに並べて、ほら次、とこちらに手を差し出してくるものだから幸也は何かがおかしいだろと腕を振った。
「いや、違うよ。ちが……待って、色々言いたいことがあったんだけど、あー、全部飛んだ。え?なん、ちょっと心の準備がさ。」
「あー……直接、話しとこっかなぁって思って。連絡して行き違うと、なんか、決意ブレそうだったから。」
お前からの連絡に俺が出ないわけないだろ。言いかけて、なんだか負けたような気がして癪で、幸也はただ思い切り眉を寄せた。
「美由紀さぁ、危機感とか、ないの。夜よ。」
「そんなこと言ったら幸也は男も女も友達を家にあげらんないだろーが。」
「それはまぁ確かにそうなんだけど、いや、俺はお前が一人で来たことと、時間帯と、俺がお前のこと好きなこと知ってる、って言う点について言ってるんだけど。」
別れてから泊まりはなかっただろ、と頭を抱えれば、美由紀は眉を上げた。
「幸也のこと信用してるから、危機感はないよ。お前は私の意思を無視して押し倒してきたりしないだろうが。なんの危機感持つんだよ。」
何か言い返そうとして、結局言葉が見つからない。敵わねぇ、と気の抜けた笑顔が浮かんだ。
「うん。まぁ、そうだね。」
「だろ。」
「でも、ほんと、なんで来たの。決意って何。もう、俺、愛想つかされたもんかと思ってたんだけど。」
話そうと決意を固めて、でもそもそもどう切り出したものかと頭を抱えていたのに。まさか彼女の方から顔を出すとは思っていなかった。
「……もう、怒んねーから。お前の性格、受け入れるから。」
そう言いに来たと肩を竦める美由紀に、幸也は少しの間考え込む。
「それはつまり、俺が、なんて言えばいいの?無茶してるところを正面切って見られるようになったってこと?」
「そんなところ。もう大丈夫、お前にはお前のポリシーがあるってことは、折り合い付けたから。」
無理やり笑ったような顔に、幸也はノノとの会話がフラッシュバックして思わず壁に寄りかかった。
「あー……絞めたくて絞めてるのを止めるのは、自分勝手……っていう……そう、そうだねぇ。」
突然頭を抱えた幸也に、美由紀が眉を上げる。
「何。」
「いや、ほんと、言う通りだったなぁって。俺、ホント、酷い奴だね。全然気が付かなかったけど。俺ね、ずっと、何で美由紀が怒ったんだろうなって考えてたんだけど。」
目線を落としたままつらつらと話し出した幸也に、美由紀は困惑したまま相槌を打つ。恐る恐る顔を上げた幸也と目が合って、一体何なのかと彼女は首を傾げた。
「美由紀は俺が死んだら困る?」
そう尋ねた瞬間、彼女の目がまあるく開いた。あっという間に彼女の目の中に光が反射して波が揺らいで、胸倉を掴まれる。すぐ手が出るなぁ、なんて呑気に考えてしまうあたり、やっぱり幸也は少しずれていた。
「ばっかお前当たり前だろ、お前がホイホイ死にに行くからこっち、は……お前が人のために死んでも文句言わないで済むように心の整理をな、してたわけよ。それをお前、何?お前が死んでも私は困らないと思ってたのかよ。」
壁に押し付けるように、美由紀が幸也の肩に頭を埋めた。束の間迷ってから、彼女の髪をくしゃりと撫でる。
「俺ね。俺ねぇ、俺の事死んでもいい人だと思ってたんだ。」
囁くように白状する。肩が、冷たかった。
「それ、二度と口にすんな。」
くぐもった声に、うん、と小さく答える。
「……思ってたんだけど、違ったんだね。俺が友達死んだら苦しいのと、同じだと思わなきゃなんだね。気が付かなかった。いまいちぴんとは来ないんだよ。でも、美由紀は困るんだろ?」
まぁ相手の気が済むなら、と口を閉ざしてなされるがままに耐える。それが、一番、楽だ。責任、とか、俺だけ助かった、とか、考えなくていいから。
その気持ちは、今もある。それでも、その気持ちが、他人の胸を痛めることを、教わった。
「困る、というか、嫌だ。私だけじゃないだろ。お前の親とか友達とか、よく依頼に来る人とか。みんな、悲しむ。」
「うん、そだね。きっと、そうなんだろうね。」
その言い方が気に食わないのか、美由紀が不服そうに幸也の方を見た。
だって、分からない。本当に、分からないんだよ。
言葉として理解しても、自分の価値なんて、お前の気持ちなんて、そんなすぐには、分からないんだ。だから。
「だからさ、折り合いつけたところ悪いんだけど、一つお願いしてもいい?」
「……何を。」
「俺、お前を理由にしてもいい?お前が、俺が死んだら悲しむから、生きることにしてもいい?俺と誰かだったら誰かを助けたいけど、お前のためと、誰かのためなら、絶対お前のためを優先するから。」
凪いだ目で、幸也は美由紀をじっと見つめた。信じられないものを見るように、美由紀はゆっくりと震える声で尋ねる。
「私が、生きろっていうから、生きるってことかよ。お前、さ、じゃあ私が死ねって言ったら死ぬのかよ。」
「うん。」
迷うことなく、幸也は頷いた。
「お前にあげていい?そしたら、お前の物だと思って大切にするから。お前が嫌な気持ちになるのは、嫌なんだよ。折り合いつけたって、つまり、我慢するんだろ。」
「私が先死んだらどうすんだ。」
「んー、多分また別の人にあげる。でも、絶対優先出来る人ってお前くらいだから、俺の持ち主と、俺が死んだら助かる人と、どっちが大切かって比べて、考える。」
へらりと笑う彼は、本気だった。
「っお前、ホント、私のこと好きだね。」
「うん。好きだよ。こればっかりは、どうしようもないかな。」
お互いに、大切だ。なのに、他人だから、食い違っているから、上手くいかない。
幸也の好きを、恋愛感情のない美由紀が理解することは無い。美由紀が幸也に生きろと願う根幹を、自分の価値を捨てた幸也が理解することは無い。
それでも、お互いに、大切だから。
「そーかよ。……いいよ。貰う。全部、貰う。」
「じゃあ、死なないように大切にするね。ありがとね。」
「……おう。」
久々に泣く顔を見たな、と思いながら幸也はもう一度彼女の髪を混ぜた。
「夕飯なんか作るね。」
肩を叩いて「離して」と訴えれば、彼女はゆっくりと幸也から体を離した。
「なぁ。夕飯いいよ、飲もう。」
「不健康だぞ。」
「つまみになりそうなもんあったろ、それでいいよ。」
「なんで俺ん家の冷蔵庫の中身知ってんだよ。」
笑いながら冷蔵庫を開ければ、後ろから声が飛ぶ。
「手土産にロールケーキ買ったんだよ、それ入れる時に見た。適当に食って、その後ケーキは食おうぜ。」
「あ、ほんとだ。おいしそう。夕飯ロールケーキでいっか。」
「おめーこそ不健康だな。」
食事らしいもんも食おうよ、と言いながら美由紀は買い物袋の解体に手を貸した。
「美由紀、グラスの場所分かる?」
「変わってないなら分かる。」
「変わってないよ、なーんも変わってない。」
変われない。変わらない。そして少しずつ、変わっていく。
「また、好きに家来いよ。」
「幸也もな。」
「うん、ありがとう。」
ぎゃーすか言いながらテーブルにつまみになりそうなものを並べていく。ビールとワインを広げて、何も言わずにグラスをぶつけた。
「なぁ。幸也はさ、性別関係なく、誰のことも好きになる可能性があるわけだろ。」
「うん、まぁ。」
ここ数年美由紀にしか恋をしてない訳だが、と胸の内で付け足しながら頷いた。考え込むように目線を遠くに飛ばして、美由紀が言葉を続けた。
「そうすると、なんつーの……世間的には、もし幸也が恋人を作ったり結婚しちゃったりすると、私が男だろうと女だろうと、こうやって一対一で会えないのかなぁと思ったわけ。」
「そー、かな。」
「さっきのお前のセリフ返すみたいだけどさ、夜によく来たなっつってたろ。恋人いたらこの時間に友人を一人家にあげるか?」
「……いや、あげないだろうね。誤解を招く。」
実際その辺の線引きを間違えてビンタを食らったことがあったなぁと思いながらグラスを空けた。何度も言うが、一時期人のことを言えないくらいヤンチャしてたので。
「だろ。って、この間川崎と話して気がついた。」
「川崎?なんであいつが出てくんの。」
「お前この間、川崎の依頼具合悪くなってドタキャンしただろ?」
あぁノノの電話を受けた日か。直ぐに思い当たって、頷いた。
「川崎がさ、見舞いついでに仲直りして来いって、言ってきて。」
「待って、なんで川崎が喧嘩中なの知ってんの?」
なんとなく当たりはついていたが、本人の口から聞いておこうと思って幸也は声を上げた。案の定彼女の目が少し泳いで、口ごもる。
「あー、いやさ。めっちゃ前だけど、あのー……私事務所のバイト辞めた後、やたら川崎からLINE来なかった?」
「毎日来たね。来ない日は宮野ちゃんから来た。」
「もう宮野ちゃんじゃなくない?」
「いや、まぁそうだけどやっぱ宮野ちゃんじゃない?」
川崎の結婚相手も、大学からの友人だ。疎遠にならなかった方、とは言っても、幸也は大学時代彼女とそこまで関わりがなかったが。卒業後の方がよく話すようになった相手だ。
「私は最初から久美子って呼んでるから。」
「そっか。で川崎夫妻のLINEが、川崎が喧嘩知ってんのと何か関係あんの?」
「んー……あの事件あってからさ、マジで幸也そのうち刺されるかなんかして死ぬんじゃないかと思って。でも私は怒鳴って出て行ったし、てか死ぬところ見たくないし。」
「怒鳴ったっけ?」
「怒鳴って無いっけ?まぁそれはどうでもいいわ。で、ともかく近くにいられないから、川崎夫妻にお願いして安否確認をだな。」
「あ、やっぱり?」
「気づいてた?」
「うすうす。」
予想通りの事実に頷く。美由紀とまた会うようになった途端LINEの頻度がガタ落ちすれば、そりゃ気付きもするわと幸也は笑った。
「そんときと同じ。」
「また喧嘩したから安否確認してくれって頼んだわけか。で?仲直りしろって言われたのと恋人がいたら会えないことの関係は?」
「いやね、気まずいから川崎が見舞いに行ってくれない?って言ったんだけど。久美子が嫉妬するから家に一人では行けないって。それで、そんなものかぁ、と、ね。」
幸也はちょっと拍子抜けして、小さく笑った。
「そりゃ、俺と川崎だからだろ。宮野ちゃん確か俺が川崎つまみ食いしてんの知ってるし。」
「え、マジ?」
「あれ知らなかった?」
ま、色々あったんすよと笑いながらロールケーキに手を伸ばす。付き合ってたっけ?と首を捻る彼女に、付き合ってはない、と答えてケーキを齧った。美味しい。
「それ知らなくても、大学の頃の俺の節操ない様を知ってりゃ嫌だろ。」
肩を竦めれば、美由紀はケラケラと笑った。彼女にも思い当たる節は掃いて捨てるほどあるんだろう。
「でもま、だけじゃないと思うけどな。カラオケとか家とか個室一対一ではダメって人、多くね?」
「まぁそりゃね。一般的には避けるよね。」
「頭では分かってたんだけど、改めて聞いてさ。そういうのって友達と違うんだなぁって思ったんだよ。」
「それでさっきの話になるわけね。」
やっと話の繋がりを理解して頷いた。確かにまぁ、今後どちらかに恋人と呼ぶようなジャンルの相手が出来れば、こういった時間を過ごすことは難しくなるかもしれない。
それは理解出来てうんうんと頷いていた幸也は、次の予想外の言葉に固まる羽目になった。
「だからさ。あの、なんていうか、もっかい、付き合ってもらっても、いい?」
カシャン、と鳴った音が、自分が落としたフォークが立てた音だと一拍遅れて脳に届く。
「……はい?」
そうはならんだろ。噎せ込みそうになったのを何とか堪えて、幸也は聞き間違えかな、と彼女の顔を見た。至って真剣な顔だ。
「幸也と気軽に会えなくなるのは嫌なんだよ。」
「それは、友達として?」
「そう。友達として。」
「別に、俺に恋人出来たら、それこそ川崎とか呼べばいいよ。二人きりじゃなきゃいいんだから。」
「二人きりがダメとかそういうのが嫌なんだよ。私には理解出来ないけど、世間的にそうなのも分かってんの。だから大抵の、そういう、恋人がいる友達と遊ぶ時は配慮したりとかするけど。幸也とは配慮なんて、今までしたことねーだろ。学生ん時も。」
「あー、うん。」
「お前と会うのに遠慮とか、したくない、わけ。」
それは分かるよ、と思った。会いたい時に会いたい。そういう距離感で、いたい。今まで、そうだった。
何が、ダメなんだろう。
いや、分かっていた。俺は、多分、それじゃダメ。でもそれは「俺の」話で、「美由紀の」話じゃ、ない。
「男女が並んでるだけでカップルだと思われるって、そんなのおかしい、でしょ。」
「おかしくても、そういうもんなんだろ。」
「そう、かもしれないけど。いいよ、それで誤解するような人とつるまなきゃ。なんでお前がこっちに寄せるんだよ。付き合うとか付き合わないとか、そういうの、お前に我慢させるよ。」
「別に我慢なんてしないよ。上手いこと行ったろ、前だって。」
行ってないよ、と喉元まで込み上げた言葉を飲み込んだ。
行ってないよ。行かなかったんだよ。
「それは、ちょっと、困るよ。違うんだよ、全部が。もう好きが違うと、駄目だって分かったから。」
言葉を選ぶ余裕もない。幸也は目線を落としたまま、殆ど勢いのままに言葉を続けた。
「俺はお前が誰かと二人きりでカラオケ行ったら面白くない。お前は俺が誰と何してようと嫉妬しないけど、俺はするの。お前は誰とでもキスもセックスも楽しめるだろうけど、俺はお前がいいの。」
だんだん声が勢いを失っていく。ただ美由紀はそれに、うん、と相槌を打ち続けた。
「お前は他の友達と同じライン上で、その中の最上級をくれるけど、俺はそもそもラインが違うの。違うラインの最上級なの。前も、それが嫌だから別れて、って言ったよね。その時から変わらないでしょ。俺は多分苦しいよ。また、苦しいよ。続かないよ。」
変わらない、変われない。
「いいよ、俺多分この先恋人なんて作らないから。このままでいい。」
「それは、お前、辛くねぇの。ずっとフリーなのもきついんじゃねぇの。」
「それ何に対して?世間体?それともヤる相手がいない話?」
半ば怒ったように問えば、彼女はどっちも、と返した。
「どっちにしろ別にいいよ。今のご時世恋人がいることはステータスでもないし、結婚勧めてくるような知り合いはいない。相手に困る……のはまぁ……」
ここで詰まるのめちゃくちゃカッコ悪いなと思いつつ、つい言葉に詰まる。正直二十代の色欲を持て余している節はあるけど。
「……正直今お前以外としたいとは思わねーし。」
「え、学生の時はヤケ起こしたろ。」
「起こしたよ、あれはほらなんと言いますか年齢的にっつーか、今は我慢しようとすりゃ、え?俺は何を言わされてるの?」
だんだん混乱してきて、幸也はなんかおかしくない?と頭を抱えた。これ何の話だっけ。
美由紀がぐっと眉を寄せる。多分、こいつも酔ってる。
「私が困る。」
「何?何が?」
「私が彼氏作ってもお前とは会いにくくなる、から、だから今は作ってない。」
「あ、そういう理由だったの?」
「でも彼氏いないと相手がいねーの!」
結構真面目な顔で投げ込まれた爆弾に、幸也は思わず大声を出して立ち上がった。
「えぇぇー、これお前の欲求不満の話⁉」
いや、確かに、大事だけどね⁉三大欲求だし!
「半分は!」
「半分も⁉おま、恋愛感情ないんだろ⁉」
「両方ない人もいるけど、私は性欲はある!」
「声がデカいよ!夜!お隣さんに聞こえる!」
酔っぱらいが二人、立ち上がって吼え合っているのは中々の地獄絵図だった。
「だって、お前、お前と別れてからもう三年以上経ってんだぞ!」
「適当に相手は探せるだろ!」
「いやめんどくせぇんだよ、付きまとってくる奴とかいるから見極めが難しくて!」
「お前の夜事情は言わんでいい!」
「聞いたんそっちだろうが!」
「やめてよ、なんで俺が怒られてるの、てかなんで付き合ってもないのに片思いの相手と痴話喧嘩しなきゃならないの⁉」
ゼイハア。肩で息をしながら、二人はどちらともなくため息をついてゆっくり座った。
「なんで付き合っちゃダメなんだよ、他の人に手は出さないしちゃんと一対一にならないようにすっから。」
「手ぇ出さないって、お前なぁ。それじゃあ結局お前が我慢しなきゃになっちゃうよ。」
「いいよ、お前が一番大切だから。お前と好きに会えないなら他は融通効かせるから。」
ここまで言われているのに、好き、ではないんだから混乱する。
「待って待って……今俺は喜ぶところなのか怒るところなのか泣くところなのか混乱してきた。好きな子にある種熱烈に迫られてるのに喜べない。」
「……ごめん。分かんなくて。お前の好きが分かんなくて。」
何かを堪える様な絞り出した声に、幸也は首を横に振った。
「変わらないのに謝らないで、って美由紀が言ってたでしょ。お前は悪くないよ。分かんないものは分かんないよ。」
「それも、そうか。」
「俺も、分かんない。」
テーブルに突っ伏して、くぐもった声で幸也は呟いた。
「お前の好きが分かんないよ。」
しばらくそのままくるくると思考を転がして、幸也は徐に立ち上がった。作業机から紙の束、ペン、ハンコを引っ張り出して、テーブルの空いたスペースに広げた。美由紀が眉を上げる。
「こうしよ。契約しようよ美由紀。その、なに?なんて言えばいいの?お互いこれは許せるけどこれは許せない、みたいな。付き合う、って言い方すると先入観がやっぱあるし。なんか、恋人にはなれないと思うんだよな。だから、全部やっていいこととやっちゃダメなことを確認しとこう。な?」
もう普通とか知るか。お互いの許せる許せないをゼロから決めりゃいい。開き直ってそう叫べば、長い付き合いの友人はニッと笑い返してきた。
「……乗った。まずお前好きなの書けよ。その後私付け足すわ。」
「ハンコある?」
「持ってるよ。ガチだな。」
書き込む幸也の手元を覗き込んで、美由紀が横からいくつか付け足す。出来上がったそれをコピーして、お互いに二枚ともサインと押印を済ませて、それぞれが受け取った。勢いで全部済ませて、顔を見合わせて吹き出した。
「じゃあ改めてよろしくな、相棒。」
何気なく選ばれたであろう言葉が、ちょうど今日聞いた言葉と同じで。幸也は顔を綻ばせて、頷いた。
「うん、よろしく、相棒。」
一瞬迷って、幸也は美由紀を引き寄せた。ワインの味がする。
「幸也からするの、初めてじゃね?」
「美由紀さん、欲求不満らしいので。」
「あは、何それ。」
この行為の意味も、きっとお互いでズレがあるんだろう。それでいいや、と思った。
「じゃあ解消に付き合えや。ゴム手持ちある?」
「ないない、古いの捨てちゃったよ。ここ数年使うシーンがない。買ってこようか?」
「……ゆきやぁ。」
「ん?」
「もうムードはいいのかよ。 」
気にすんのかよ、と幸也は笑った。幸也が美由紀の気持ちを必死に探るように、きっと美由紀も分かりゃしない幸也の気持ちを、必死に探っているんだろう。
「いーよ。普通とかどうでもいいから、俺らがしたいようにすりゃいいよ。美由紀と俺の関わり方の問題だから。 」
「うん。ありがとう。」
「どーも。」
立ち上がって出かける支度をしようとすれば、美由紀が待って、と声を上げた。
「やっぱ私が行くから幸也は待ってろよ。帰ってきたばっかのところ悪いだろ。」
「そう?別にいいのに。」
気にするなよ、と首を傾げれば、彼女は少し言いにくそうに付け足した。
「……あと、久々におかえりって、言ってほしいな、と。ふと思っただけ。」
「なに、一緒住む?」
「前向きに考えるわ。」
「うん、考えといて。じゃあ、行ってらっしゃい。」
「行ってきます。」
ああ好きだなと思った。もう、君が隣にいるならそれでいいやと。分からないことは沢山あるけれど、分からなければ、話すしかない。逃げずに、隣にいられるように。次彼女が走り出してしまったら、ちゃんと走って追いかけられるようになろう、と幸也は目を閉じた。
変われない。変わらない。そして少しずつ、変わっていく。そうやってしか、生きられないから。
***
もしもし、彩花ちゃん?
うん、久々。
ほんとに!やったじゃない。
うん、うん。
じゃあお祝いに行かなきゃだね。すごいなぁ、俺受験成功したことないんだよ。
うん。ああ。
したよ、うん。
大丈夫。
そうだなぁ……たまにね、なぁんにも解決してないんじゃないかな、なんて思うんだよ。
俺は自分一人じゃ立てないままで、自分のために自分を大切には出来ないまま。
でもね、結局、なんとか進むしかないんだね。
彩花ちゃんはどう?少し、前へ進んだ?
そう。それなら、それでいいんじゃない。
うん、ゆっくり……ゆっくり、行こ。
そんで、俺、たまに信号渡って逢いに行くから。
……あはは、こっちの話!
10
「それじゃあ、今日はありがとうございました。」
「こちらこそ。あ、よければ受験終わったら連絡してよ。」
偶然が重なってもたらされたノノとの懺悔会は、お互いが次の行動を決めたところでお開きにすることにした。幸也は明日も仕事、ノノは受験生だ。あまり長居も出来ない。
「はい。連絡先って……」
「今まで通りダイレクトメールでいいけど……あ、待って。」
財布から名刺を出して、ノノに渡す。
「これ。電話ならこっちに。」
「ありがとうございます。」
ノノが名刺に目線を落として、なるほど、と呟く。
「幸也、って漢字こう書くんですね。だからサチさんだったんだ。」
「『さちなり』。幸せですって意味……って親が言ってた。名前負けだよねぇ。」
眉を下げた幸也に、ノノが小さく首を振った。
「これから、ですよ。」
店を出て進む方向を尋ねれば、ノノの家は駅と反対方向だった。それじゃここでさようならだ、とお互い会釈する。
「それじゃあ。」
「うん、頑張ってねノノちゃん。」
「……彩花、にしてもらってもいいですか。」
「ん?呼び方?」
首を傾げれば、彼女が小さく頷く。
「のの、って前から呼ばれてたんですけど。ネットで使おうと思った時に、カタカナにしようって思って。流されてるみたいでしょう、カタカナで『ノノ』って書くと。私、らしいなって。」
一度息をついてから、ノノは幸也に笑いかけた。
「もう、流されたくないから。」
「うん、分かった。」
「あの……配信、待ってますから。」
そう言って、彼女はくるりと背を向けた。しばらく立ち止まったまま、幸也は彼女の背中を眺めた。逡巡の後、大きく息を吸う。
「彩花ちゃん!」
彩花が振り返って、首を傾げた。一瞬だけ通行人が二人を見て、また興味なさげに目を逸らす。
「『また』ね!」
彩花の目が見開かれるのが少し離れていたけれど良く分かった。すぐに、その顔に満面の笑みが広がる。
「はい。必ず!」
気に入って頂けたらサポートおねがいします、 野垂れ死にしないですむように生活費に当てます…そしてまた何か書きます……