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旅の写真、それぞれの手法の長所と欠点

振り返る季節

ことしは久々に旅行をされた方も多かったのではないか。

わたしも、5月に自動二輪免許を取得して以来、原付二種であちこち行ったけれど、秋の訪れとともにふと来し方行く末について考えざるを得ない。

じつは7月なかばに富士の100を詰めたOM-4tiなのであるが、まだ36枚撮りきれずにいる。

南東北の梅雨明けが結局特定できずに
先週までほぼ毎日雨が降っていたこと。
雨具を着てのバイク通勤で、大事なカメラをぬらすわけにもいかず、撮るタイミングもないということで、カメラ持たない日が続いていたこと。

それ以上に、なにをどう撮るのかという主軸、方法論をおざなりにしていたのは間違いないと感じる。

またどこでも停車して写真撮りやすいと思っていたものの、実際には瞬時に目の前の風景光景が作品に結びつくかというとなかなか難しい。
9月になり快晴の週末になったので、水沢行ったついでに帰路北上山地の摺沢まで山中を走ってきたが、そういう余裕がないままひたすら町まで駆け抜けるばかりだった。
はっとする光景はあれど、あっというまに遠ざかってしまった。
そのあとホームタウンまで無事帰り着くことを考えて、停まったりひき返したりする自由をみずから制限してしまったと反省している。

次また行くとしても来年。
それまでに方法論と作品制作のイメージが結びつくのか?

甚だ心許ない。
いささか他力本願な期待をしていたのは確かだろう。

わたしもそろそろ人生の残り時間を気にかけるようになってきている。
人生百年なんてお題目は、終身雇用で退職金がっぽり貰ってリタイアしたリア充老人の戯言にすぎない。
老後は、不安でしかない。

だからいまを空費してる場合ではないのだ。
すこしスローダウンする自由も必要。
旅するなら、違う手段をえらぶ自由があってもいい。

旅する理由

わたしは、仙台という街については好きでもきらいでもない。
ある時Googleで仙台から**と検索しようとして、仙台、でEnterを押してしまったら、「仙台 観光 何もない」というワードが出てきて苦笑した。

前にもちらっと書いたけれど、仙台は東京の支店だと思っている。
いつも行く純喫茶星港夜(シンガポールナイト)のマスターの話しであるが、仙台にドトールスタバが進出した年に、昔ながらの街の喫茶店がたくさんつぶれたのだそうだ。

近年仙台駅の上にできた駅ビルの東館には東急ハンズに成城石井。
昔東京のハンズに行ったことあるわたしには何これ? なたんなるお洒落雑貨店の部分だけ切り取ったようなものである。
東京から観光に来てハンズは見ないでしょ。行ってみてよ驚くと思うよ。

ちと話しが脱線気味だけど
たとえば違う街に引っ越しすると、しばらくは近辺あちこち撮りたくなるんだけど、そのうちなにも感じなくなるし近所で写真なんて不審者扱いされそうでとんでもない、と思うようになる。
日常に好奇心が埋もれるときである。
視点思考が固定化するのだ。

そういうのを打破するために、わたしはカメラ持って旅に出るわけだけど。

人間の手は二本しかない。
カメラ構える手も二本必要だから
ハンドル両手でにぎってると自由なのは視覚聴覚そして思考だけ。
GoProとか欲しくなる気持ちも分かろうというものだけど、それでは動画しか撮れない。じつは欲しいけど(笑)

そこが運転して写真撮りに行くさいのもっとも大きな矛盾であり葛藤なのだ。

そうだ、歩こう

とりあえず妥協点を。
①運転して撮影旅行に行くなら
 時々車両から離れて歩くのがいい。

②さもなくば、時間的精神的余裕を捻出する。
いわゆるトコトコ走るというやつ。走っては止まり、土地の空気を呼吸して、撮るもよし撮らぬもよし。
それを何度もできるよう工夫する。

③いっそのこと、ときには両手をカメラのために存分に使用する。
列車での旅、徒歩での移動はその目的に最適だったりする。
いずれも撮影のテンポに合っている不思議。新幹線は知らんけど。

ひとの意見に耳を傾ける

最後に、ひとりよがりにならないために、ほかの写真家さんの展示はなるべく見に行こう。
在廊中なら、話しを聞く、意見を交わすとよいことがある。
違った視点、手法、世界観を知ること、驚くことが大事。
あるいは友人がいればプリントを見せたりメール添付して意見をもらうといいと思うよ。

おしゃまは詩のフリーペーパーの発行も続けているのだけれど、たとい手渡ししても、ほとんどの人は無反応だ。
だからなんであれ、みずからの表現に感想なり意見をもらえるかけがえのない人がひとりでもいるなら、最大限に感謝しよう。

お読みいただきまして有難うございました。

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