風邪の時に見る夢みたいな乱文

「sinやcosなんて使わない」

「〇〇なんて義務教育でやる必要あんの?人」はやたらとこのフレーズが好きだね。

「二次方程式の解の公式なんて使わない」
「一次関数の切片の求め方なんて使わない」

「〇〇なんて義務教育でやる必要あんの?人」を対象に、街角アンケートをすれば、きっと「sinやcosなんて使わない」が上位に食い込む。少なくとも後の二つは「その他」という少数民族隔離地に封じ込まれる事だろう。

まあ、一次関数の切片や二次方程式の解と、sin,cosでは抽象度を始めとした諸々の条件が違うので、これらのフレーズを比較して揶揄するのはそこそこ詭弁だと私すら感じている。安心して欲しい。

それにしても、数学に関しては、sin君とcos君ほど使わない子呼ばわりされる不憫な子はいない。
別に彼らは「義務教育の中で、sin君やcos君が一番使い所がない、現実に則していない」とは言っていない。
きっと「〇〇なんて義務教育でやる必要あんの?人」が学生時代の思い出から「これ何に使うん?」を検索した時にヒットする率がやたらと高いのがsin君とcos君なのだろう。
もしかしたら、色んな科目の中でsinやcosは印象がやたらと強い—語感や字面が習う当初は新鮮だから?—事を認識して、印象に残りやすいフレーズとして敢えて構成した言葉なのかもしれない。
ところでこの—じゃがりこ美味しい—横棒の使い方合ってる?小説でよく見るカッコいいやつね。

と、ここまで「〇〇なんて義務教育でやる必要あんの?人」に対して余りある民族的配慮を施した文を書いてきたつもりだが、正直私は「うるせぇ要らねぇ学問はねぇよぶっ殺すぞ」と、孫悟空みたいな事を思っている。

私は「言葉が現実を規定する」とも、「言葉は現実からしか生じない」とも思わないが、どちらの側面も持つと考える。
そして、数学を始めとする学問なるもの達もまた、その側面があるように感じる。

数学に関してだが、人間の脳は数学をするための器官ではないのだそうだ。位置を認識する部位など、複数の部位を代用して数学をしているのだそうだ。これを鵜呑みにするなら、「人間は生き残るために発達した脳の上に、数学をする器官をエミュレートしている」と言える。
そして、エミュレートされた数学の器官で思考した結果が、新たな現実を作る事は、皆さんも少し理解できるのではないだろうか?
似たような事があらゆる学問にも言えると私は考える。ここまで来れば、流石に皆さんも少しだけ理解できるんじゃないかな?ね?ね?

故に現実に根ざし、時に現実を規定する「言葉」である学問に貴賎などない。より様々な言葉を使えるに越したことは無い。(一つの「言葉」を深めて行くのもまた、等しく善いと私は考えている)

そのため、どっかのお偉いさんが画一的な基準として「sinやcosなんて使わない」なんて言うのは、非常に愚劣であると感じるし、「お前が使ってないだけで、いつか使えるかもしれないものを不要などと切り捨てる愚行をやめろ。もったいないお化けが出てくるぞ」と思う。もったいないお化けはとても怖い。

子どもたちが世界を見る時に使える「言葉」を与える事は、我々人間が生物界で進歩していくにあたって非常に重要な事だとは思わないだろうか?それこそ種の保存に繋がるのではないか?
茸山ちんちん丸殿、「LGBTが種の保存に背く」なんて、脳みそにちんこ詰まってる事言ってないで子どもに学問伝えてってくださいよ?

まあ、これも少し言い過ぎている気もするがね。
結局何かの分野の学問が切り出した脳のモジュールに「位置を認識する部位」「言語を司る部位」などとラベリングした上で、数学しているときの脳の使用領域を調べているに過ぎない。
結局これらの論調もまた、大きく不安定な土台に乗ったものに過ぎない。
それでも、人間が生物である事において、「位置を認識する部位」など、生存に直結する器官が存在し、その上で「数学の器官をエミュレートしている」と考える方が自然だよね?ね?

おねむ

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