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結局、遊ぶように学ぶ奴には敵わない

こんにちは、秋山です。
さて今日は、積読解消シリーズ。真っ青なカバーで本棚の中でも一際目立っていた、熟達論をサマリーしてみます。不動産営業担当者の熟達をテーマに修論を書いたこともあり、とても気になっていた一冊。

熟達論
ー人はいつまでも学び、成長できるー
———為末 大


熟達といえば、エリクソンの10年ルールが真っ先に浮かびます。本書との対比のために整理してみると、エリクソンのは熟達までのレベルを4つで定義しています。一年目の初心者、3-4年目の一人前、6-10年の中堅、それ以降が熟達者。不測の事態が起きても過去の経験を踏まえて直感的に判断できる、「創造的熟達」レベルに達した人を熟達者としています。

熟達論は、為末さんのオリンピアンとしての経験を踏まえ、独自な理論で展開していきます。

遊・型・観・心・空の5段階

熟達には、遊びを楽しむ「遊(ゆう)」、基本を身につける「型(かた)」、型を深く観察する「観(かん)」、型の要を捉える「心(しん)」、無我の境地「空(くう)」の5段階が必要としています。5つは熟達のレベルを表すのではなく、熟達までのプロセスを表現しています。

なかでも特に興味深かったのは、「遊び」の部分。

なぜ熟達に遊びが必要なのか?

遊び=ついつい、そうしてしまうもの。考えたり習得するものではない。そして、遊びに失敗はつきもの。しかし失敗は悪いことばかりではない。なぜなら「引っ掛かり」を生んでくれるから。

届くと思ったボールが届かなかった。
いけると思った道が行き止まりだった。

想像とは違う結果は、推論を引き起こす。失敗の理由を突き詰めていくと、それが学びに昇華される。失敗は学びの母だけれど、人間好んで失敗はしない。だけれど、遊びの中であれば、いつの間にか苦労なく失敗している。

遊びの中で生み出される失敗は、計画外のものだ。計画は「引っ掛かり」を生み出さないし、大きく成長する機会にはならない。ボラティリティこそが人を成長させる機会なのだ。

好きこそ物の上手なれ。
夢中のやつには勝てない。

まさに遊びは、熟達の必要条件なんですね。

適応と馴化

人間の身体は刺激を加えるとそれに適応する性質を持っている。腕立て伏せを続ければ筋肉の肥大が起きるのは適応のおかげ。ところが適応が続くと、刺激を加えても肥大がおきなくなってくる、これが馴化(じゅんか)である。遊びはこの馴化を超えていくこともできる。


今を楽しまないと辛くなる

脳には二つの報酬系があるらしい。未来型と現在型。
未来型は、今を我慢して将来に報酬を得るシステム。将来目標が達成されることで初めて報われるシステムだ。もう一方の現在型は、それを行うこと事態から報酬を得ているモデル。行うこと事態が楽しい、それに突き動かされる。

未来報酬型は、今を犠牲にして将来のハッピーに期待するモデルなので、うまくいかなくなると今やっていることの犠牲感が強くなる。報われないという気持ちが大きくなるのだ。まさに日本賃金カーブみたいな話。

遊びは、現在報酬型にあたるので、辛くなることが少ない。

距離の取り方が大事

最後に、熟達の過程では「対象からちょっと離れてみる期間」が大事らしい。人間そればかり考えていると、近視眼的になり、本質的なことを見失いがちになる。

泥の入った水をしばらく置いておくと、泥が沈んで水が澄んでくる。
そんな風に、がむしゃらに水をかき混ぜるようにもがく時期と、ちょっと距離をおいて、泥が沈むのを待つ時期を繰り返すことで、応用の効く熟達者になれるという。


個人的まとめ

今年は継続をテーマに生きています。

毎朝リングフィットをして、夜はnoteをかいて、寝る前に日記を書く。
どれも最初の一週間くらいは死ぬほど面倒で退屈で辛かったんだけど、最近はやらないとモヤモヤする。むしろ、ちょっとたのしい。

どれも熟達にはまだ程遠いんだけど、この遊んでる感覚をいつまでも持ち続けたい。


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