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【洋書多読】『女のいない男たち』を英語で読了して感じたこと(169冊目)

『Men without Women』(邦題:女のいない男たち)を読み終わりました。

本書は2014年に発表された村上春樹の短編集の英訳版です。2016年に文庫化されましたが、最近なんだか書店で平積みされているのをよく見かけるなぁと思っていたら、冒頭の短編『ドライブ・マイ・カー』が映画化されているんですね。

しかもその『ドライブ・マイ・カー』、カンヌ映画祭とアカデミー賞でそれぞれ賞を獲得していて話題になっている様子。僕も近いうちに映画館に観に行きたいと思っています。

ただ、今日はその話題作の話ではなく、『Kino』という短編を中心に、村上文学の世界性についてちょっと考えてみたいと思いました。

『Kino』(『木野』)という短編

僕がまだ世界一周に出る前の熱心なハルキストだった頃、本書の原作を日本語で読んで一番印象に残っていたのが「木野」という短編でした。

これは、自分の会社の同僚に妻を寝取られてしまった中年男性が何も言わずに家を出て、青山でちょっと小洒落たバーを開くというお話で、ある意味とっても「村上春樹っぽいなぁ」と思って読んでいたんです。

この木野という主人公の男性が村上春樹のアバターであるとか、そういう高校の現代文の答案みたいな解釈を開陳して皆さんのご機嫌を伺うつもりは毛頭ありません。そんなことには全然興味がないので。

僕がこの作品を強く意識することになった理由は、このお話が「怨念はきちんと浄化しないと、やがて自分を傷つけ損ないにくるのだ」という、日本の古代からの説話形態を美しくなぞっているという論に触れたからです。

村上春樹ははっきりとどこかで「自分は上田秋成の系譜に連なる作家だ」ということを宣言しています。また、『村上春樹河合隼雄に会いに行く』というエッセーでも、中世の怨霊とかの話について「実際にあった話だと思いますか?」と河合隼雄に真剣にたずねているように、この手の話にすごい親和性を示しているんです。

神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏は、自身の著書の中でその事に触れ「村上春樹は日本語という文化の古層にある集合的な無意識をこの小説で表出しているのだ」という解釈を加えています。僕はこの意見には全面的に賛成です。

というのも、今回英語で「Kino」を読んだ時、正直に行って違和感がとても強かったからです。日本語で読んだ時はあんなに強く心に響いてきた短編が、英語で読むとこんなに強い違和感を伴うというのは、英語力云々以前に「ある固有の言語」が持つ集合的な無意識のようなものを、他の言語が上手く訳しきれないことによるんじゃないか?と考えれば、ちょっと納得がいくのでした。

『Super Frog Save the Earth』を知っていますか?

いや、それはお前の英語力が下らないせいだろうが。そんな声も聞こえてきそうです。

が、その前に僕が今回「Kino」を読んだのと真逆のパターンを示す作品=つまり「英語」で語られると自然だが、日本語にされると妙な違和感がある作品、について考えてみてから僕の英語力に判断を下してくださいとお願いしても、それはそんなに厚かましいお願いにはならないでしょう。

で、僕がまっさきに思い浮かぶのが「かえるくん東京を救う」というタイトルで発表された短編小説です。

このお話は、さっきの「木野」とは逆で日本語で読んだときは「ふーん…」くらいの印象しかなかったんです。

そしてこの作品がアメリカで爆発的にヒットして、村上春樹の彼の国での名声を一気に押し上げた…という事実を耳にして、どうしてそこまでこの作品がアメリカ人にウケるのか、ずっと不思議だったんです。

そしたらこれ、アメリカ人が大好きな「スパイダーマン」とか「バットマン」とか、その手のやつと全く同じ説話形態のお話なんですね。

普段ぱっとしない主人公が何らかの特殊な能力を武器にアメリカの危機を未然に防ぐ、でもそのことはアメリカ人は誰も気づいていない。だからその主人公は誰からも讃えられることがないまま、また元の地味な生活に戻っていくという、あの話です。

アメリカ人はどうもこの話形が大好きらしく、ときにコウモリ、時にクモ、時に巨大隕石に立ち向かうブルース・ウィリス…に意匠を変えながら、何度も何度も繰り返し登場するこのお話をほとんど神経症的に消費し続けています。

あたかも日本人が「少年が大人でも制御できないようなロボットに乗り込んで巨悪を戦う」(ガンダムとか、エヴァンゲリオンとか)という話を強迫神経症的に消費したがるのとうり二つじゃありませんか?

これらは多分、「集合的な無意識」のなせる技だと思うんです。で、その集合的な無意識は、先の内田樹氏の言説を拝借するなら「言語」そのものの内に堆積していき、やがて文化となりその言語に血肉化していっている古層に由来するんです。

だから「かえるくん…」は、英語で書かれることで世界性を獲得したのだし、英語に訳されるべくして訳された作品だったと思うんです。

あのお話は舞台が完全に日本になっているので、アメリカ人の一般的な読者からすると、その情景も思い描きにくいと思うんですが(タタミってなんや?とかね)、説話形態が完全にアメリカ人好みの「勧善懲悪もの」をなぞっているので、英語に訳されたことで一気にリアリティがまして、爆発的にアメリカで読まれたんじゃないか、と思うんです。

その証拠にと言うと僭越ですが、『かえるくん…』は、この僕が読んでもはっきりと分かるくらい「英語で読んだほうがすごくしっくり来る」話です。今から3年ほど前の、まだ英検一級なんかに合格する全然前の僕が英語で読んで「あ、英語で読む村上春樹、面白いかも…」と思えた短編なんです。

そんなわけで、『Drive My Car』を見に行きます!

そんなわけで、『Men without Women』について、ちょっと思うところを書き殴ってみました。

何度も言っていることですが、僕は村上春樹が大好きなので、英訳された村上春樹は、自分の英語力を遥かに上回っているにも関わらず、安心して楽しむことができます。

そして、自分の今の英語力を上回っていると思われる英文を読む、というのは英語力はもちろん、言語を超えてテクストの読解力そのものをあげてくれるのかも知れない。今回『Men withiut Wemen』を読んでそんなことを感じています。

そんな素敵な経験を与えてくれた『Men without Women』本当に楽しく読み終えることができました。

他の作品も面白くて、まさに一気読みしてしまった本短編集。もう一段深く楽しむために、今絶賛公開中の劇場版『Drive My Car』を観に行ってみたいと思います。


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