僕の言葉は好きだとしても、僕のことが嫌いになるかもしれなくて。

Twitter(X)の言葉やnoteもそうだけれど、あまり日常のことは書かないようにしている。
それは、ただただこの場は想った言葉だけを伝えたくて、それ以外は排除したい気持ちがあるから。

それとともに、言葉から連想される僕というイメージが壊れてしまうのを恐れているから。
その中にはきっと、あぁそんなやつなんだ、なんか想ってたのと違うわ。って思われて避けられてしまうのが怖い気持ちもあるのだろう。

だから具体的に、日常で何をしたとか生活をイメージ出来るようなことは書いていない。
Xの別アカウントはあるから、たまにどうでもいいようなことはそっちでつぶやくことはあるけれど。

でもたまに、言葉と日常をリンクさせて書きたいなと思う時がある。こういう出来事があって、それはこう思う。みたいな。
そんな時にどうしようかと迷い、結局自分の胸の内に秘めてしまう。

こっちのアカウントにいる僕と、あっちのアカウントにいる僕は、同じ人間だけれどどこか違う。平野啓一郎さんの「分人」というやつかと。
だから、それを一緒にしたくないと思うのだろう。

タイトルにあるように「僕の言葉は好きだとしても、僕のことが嫌いになるかもしれなくて。」
Xで呟いている僕という人と、日常を送っている僕という人、同じだけど、同じじゃない。きっとそんな人は多くいる。だからこそ、生きていられたりする。
今この瞬間の僕は、そんな僕とあんな僕の狭間にいる。

と、書いてみて、noteにはnoteの自分を出せばいいのかと。noteとXに投稿するものと、noteだけに投稿するものを分けてみようかと思う今日このごろでした。

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