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『この子らを世の光に』 Part③ 手をつなぐ健常児と障害児たち
(2021.12.27 投稿)
どうも、おっさーです。
今回のPart③は、「日本における社会福祉の父」と呼ばれる糸賀一雄さんの著書、『この子らを世の光に』 の中から、 障害児や戦争孤児などの施設である近江学園に対して悪意の目を向ける人たちと、学園での生活でめざめていく子どもたちについてのお話となります。
今回の記事の参考書籍と、著者のプロフィールです。
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糸賀 一雄
1938年京都帝国大学文学部哲学科卒業。小学校の代用教員を経て、1940年滋賀県庁に社会教育主事補として奉職し、秘書課長などを歴任する。
1946年11月、戦後の混乱の中で池田太郎、田村一二の要請を受け、戦災孤児を収容するとともに、知的障害児の教育を行う「近江学園」を創設し、園長となる。
その後、落穂寮、信楽寮、あざみ寮、日向弘済学園などの施設を相次いで設立した。糸賀はこれらの施設について、障害者を隔離収容するのではなく、社会との橋渡し機能を持つという意味での「コロニー」と呼んでいる。そして、1963年重症心身障害児施設「びわこ学園」を創設した。
この施設は、東京の島田療育園と並んで、重症心身障害児施設の先駆けとなった。1966年には、二つめの重症心身障害児施設である第二びわこ学園を設立した。
1968年(昭和43年)9月17日、滋賀県大津市での県新入職員のための講演中に持病の心臓発作により倒れ、翌日死去した。享年54歳だった。葬儀は滋賀県葬で営まれ、天皇から祭粢料が下賜された。
悪意の目を向ける人たち
戦争孤児や知的障害児のための施設運営という事業の性質上、学園に悪意の目を向ける人たちは存在しました。
これらの人々について、著者はこのように述べています。
現に学園を創設することだって、二年前のこのころ、決して坦々たる大道を歩むような安易さはなかった。
「ご立派な事業をおはじめになったそうで……」 と祝辞を述べながら、陰では、こんな時世に何を好きこのんで、物好きな、という人もあれば、人気とりだと悪口を言う者もあった。
また、「普通の人間にさえろくにしてやれないのに、世の中のカスやクズに金をかけるのは勿体ない。
どんなに教育が成功したって、そんなのはたかが普通になるだけじゃないか。
天才教育だというのならいざ知らず……」と、攻撃をする者すらあった。
浮浪児や戦災孤児や生活困窮児や、さては知的障害児がだんだん増えて、みんな美しい景色の学園に寝起きをし、きちんとした身なりで勉強したり遊んだりしているのをみて、「ぜいたくだ」という。
園児たちが、みすぼらしい身なりをして、肩をすぼめて、ひそひそとしていれば、憐憫の情ぐらいはかけてやってもよい、と言葉にこそは出さないが、そういいたげな白い眼でみる人達もいないことはなかった。
そんな状態の現在の日本の社会で、園児たちの将来像も保障して、社会的に立派に自立させようという理想に向かって学園を経営してゆくことは、冒険といえば冒険に違いなかった。
どんなに崇高な事業でも、いつの時代でも、必ずアンチはいるものですね。
僕も、障害児を育てている親のひとりです。
娘のために療育手帳と身体障害者手帳を取得し、障害者福祉サービスを遠慮なく受けている上に、サービスのさらなる充実の必要性も訴えています。(実際、欧米など他の先進国に比べ、日本の障害者福祉予算はあまりにも少なすぎます。。。)
今後、さまざまなな批判を受けることがあるかもしれません。
また、この記事を読んでいただいている同じような境遇の方で、差別や批判を受けている人もいるかもしれません。
でも大事なのは、無責任な批判は必ずあるものだと割り切って、自分の信じた道をしっかりと進んでいくことなんだと思います。
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健常児と障害児のつながり
近江学園の当初の考えは、健常者と知的障害者のあたたかい共同生活でした。
そこで学園では、遊びや作業やさまざまな行事などで、なるべく健常児(戦争孤児や浮浪児など知的な障害のない子)と知的障害児が交わるように配慮をしていました。
しかし開園以来、学校独自でおこなってきた中学校3年生の修学旅行は、障害児を一緒につれていくのは無理であり、健常児の方が嫌がるだろうということで、別々に計画していました。
ところが昭和25年の春、中学校3年生になった子どもたちは、知的障害の子どもたちも一緒に修学旅行に行くべきだといい出しました。
これまで別々に旅行をしていたのはいけないことだというのです。
担任の先生はこの申し出に感動し、子どもたちにこう尋ねました。
「合同で旅行をすることについては、君たちは知的障害の子どもたちのことについて、責任がもてるのか?」
すると子どもたちは、
「僕たちが全責任をもちます」
と言い切るのでした。
先生は、「それならば」ということで、彼らに旅行の計画をさせてみました。
子どもたちは自発的に会合をもって、知的障害の子たちをどう伊勢までつれていくか、伊勢でどのように面倒をみるかなどということを、協議するのでした。
この伊勢への修学旅行について、著者はこのように述べています。
この申し出は、私たちにはショッキングであった。
この年頃の子どもたちは、好んで知的障害児と行動を共にしたいなどとは決していわないものだからである。
しかし、同じ屋根の下に長い間くらしてきて、みんな同胞だという気持が、自分たちだけ勝手に楽しい思いをするということに批判をおこさせたものと思われた。
私たちは、彼らの純粋さにカブトを脱いだ形だった。
この年の修学旅行生のなかには、研ちゃんという脳性麻痺の後遺症で、両足がひどく不自由な子どももいた。
この子はとてもみんなについていけないことがはっきりしていたのだが、彼らは研ちゃんもいっしょにつれていくべきだと主張して、その対策を工夫したのである。
研ちゃんのためには、手押車が用意された。
それはみんなで共同製作したものであった。
重度の知的障害のある子たちのためには、彼らがひとりひとりの面倒をみるという班組織や世話役をきめた。
こうして一行は、みたところいかにも珍妙な一団となって、旅行に出かけていった。
いよいよ石山駅から汽車にのりこむと、知的障害の子どもたちはまるで幼稚園の子どものようにはしゃいで、われがちに窓側の方に席をとろうとするのを制して、障害のない子どもたちは、彼らを通路側の方に坐らせて何くれとなく、面倒をみるのであった。
窓側は手や顔を出すとあぶないからだということであった。
ところでお小遣いはこの年はひとり五十円ずつであった。
伊勢の町についてみると土産物店にはみんなほしいものばかり並んでいる。
知的障害の子どもたちは土産物店にとびこんで、みさかいもなく買いたがるのを、ひとりひとり付添っていた彼らはハラハラしながら、いっしょうけんめいでコントロールする。
しかしききわけがなく、駄々をこねる者もでてくる始末で、そうなると自分のお金まで出して買ってやるのであった。
玉砂利を踏んで内宮に参拝ということになった。
研ちゃんは手押車にのせられたまま、「下乗」のところまで来ると、衛士がやってきて、その車を咎めた。
「天皇さまでもここから先はお車をおりられるのだ、降りなさい」
子どもたちは、「おじさん、この子のは車じゃないんです。足なんです。だからどうか許してやってください」
と歎願した。
衛士は研ちゃんをのぞきこんで、肢体不自由であることを認めると、「そうか、そうか、足か、足ならしかたがない。降りなくてもいいよ」 といって、うなずいてくれた。
手押車はこうして内宮の奥ふかくまで、友だちにまもられて、はいっていったのである。
こうしていろいろの面で子どもたちは、環境や心身の障害をのりこえ、手をつないでいった。
僕は、子どもという存在は、結構残酷だよなと思っています。
知識の幅が狭く、社会性が育ちきっていないからだと思うのでですが、大人からすると信じられない汚い暴言を吐いたり、イジメの内容もひどかったりします。
しかし、近江学園の健常児たちは、自発的に知的障害児を仲間に入れ、世話をし、一緒に修学旅行に行くということをしています。
自発的に、子どもたちによるインクルーシブな社会が実現できています。
なぜこのようなことができたのでしょうか?
それは、知的障害児たちと一緒に生活をしていく中で、相手を理解し、仲間意識が育っていったからだと思います。
差別や偏見の原因は相手への無知、無理解です。
そういった意味では、近江学園の健常児たちは、知的障害児との生活の中で、豊かな社会性が育っていったといえるのではないでしょうか。
ちなみに著者は、自分の実の子どもたちでさえも、近江学園に入れて、孤児や障害児と一緒に教育を受けさせています。
ここまで本気で徹底した行動がとれる人って、他にいるのでしょうか。
まだまだ覚悟の足りない僕には、とてもできないなあ。。。
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