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『この子らを世の光に』 Part② 施設とは家庭であり学校であり社会である

(2021.12.15 投稿)

どうも、おっさーです!

今回のPart②は、「日本における社会福祉の父」と呼ばれる糸賀一雄さんの著書、『この子らを世の光にの中から、 開園まもない近江学園で営まれていた、職員の生活についてのお話です。

終戦直後のあらゆるものが不足する中、身を尽くして使命のために働いた職員たちがそこにいました。


著者のプロフィール。

糸賀 一雄

1938年京都帝国大学文学部哲学科卒業。小学校の代用教員を経て、1940年滋賀県庁に社会教育主事補として奉職し、秘書課長などを歴任する。

1946年11月、戦後の混乱の中で池田太郎、田村一二の要請を受け、戦災孤児を収容するとともに、知的障害児の教育を行う「近江学園」を創設し、園長となる。その後、落穂寮、信楽寮、あざみ寮、日向弘済学園などの施設を相次いで設立した。糸賀はこれらの施設について、障害者を隔離収容するのではなく、社会との橋渡し機能を持つという意味での「コロニー」と呼んでいる。

そして、1963年重症心身障害児施設「びわこ学園」を創設した。この施設は、東京の島田療育園と並んで、重症心身障害児施設の先駆けとなった。1966年には、二つめの重症心身障害児施設である第二びわこ学園を設立した。

1968年(昭和43年)9月17日、滋賀県大津市での県新入職員のための講演中に持病の心臓発作により倒れ、翌日死去した。享年54歳だった。葬儀は滋賀県葬で営まれ、天皇から祭粢料が下賜された。

どんぐり金庫と職員の三条件

開園当初の近江学園は、経済的な面では将来の見通しどころか現在の基盤さえも不確かで、どんな困難が押し寄せてもたじろがない、全職員の団結が必要とされていました。

著者はこの団結だけをたよりにしていました。

そのような同士を求めるため、また、自分自身をいましめるため、「近江学園三条件」 を打ち立てました。

1、四六時中勤務

2、忍耐の生活

3、不断の研究

この三条件がもっとも端的にあらわれているのが「どんぐり金庫」です。

どんぐり金庫とはいうのは、職員全員の月給のプールに対して名付けられたものです。

各人がいろいろな財源を探しては確保した月給を、誰が言い出したともなくそれをプールして、ひとつの金庫をつくることになったのです。

その中から僅かのお小遣いを支給し、生活費を学園の会計に支払って共同炊事をし、残額のすべては学園の整備のために惜しみなく使われました。

この「どんぐり金庫」の財源と、経営費に計上された設備費と、共同募金の分配金とで、学園の中庭にはブランコができ、すべり台ができ、いろいろな教材が用意されました。

経営トップの人間がこれを指示したら完全なパワハラですが、誰が言い出したともなくこのような仕組みがつくれるというのは驚きですね。

まさに、職員全員、家族というような一体感があったからこそできたことだと思います。

四六時中勤務

職員はいくつかのクラスにわかれて、そこに、指導員という名の男性職員が一人、保母という女性職員が一人と組になって二名つくのが原則でした。

中学生以下の年齢では、保母がその子どもたちと同じ部屋に寝起きをしました。

男性職員は学園内の「ねぶか堂」という小部屋だとか、大風呂の片隅の廊下を仕切った細長い板敷の部屋 をつくって「夢殿」などと表札を掲げてそこに住んでいたり、学園内のあらゆるところに住んでいたのでした。

「四六時中勤務」というのは、文字通りそのままの意味をもっていたのです。

その当時の様子を、著者はこのように述べています。

生活指導の責任者である保母は起床と同時に、その部屋の主婦のように立ちはたらいた。

比較的知能の高い子どもの場合は生活の面では普通児とあまりちがわなかったが、低い子どもたちのグループをあずかる保母はたいへんであった。

朝おきてから夜の消燈まで、生活そのものが彼女の肩にかかっていた。

フトンたたみ、掃除、洗顔、着衣・脱衣、食事、大小便の始末、洗濯、夜は夜で寝小便や寝大便の対策など奔命に疲れるばかりであった。

水の不自由な学園では、保母たちはよく瀬田川まで洗濯におりていった。

そしてすべての汚物をのみこんで清てくれる瀬田川の流れにみいって、自分もそのような広い、ゆるす心になりたいと祈った。

まことに、すべての保母は、母以上の母であった。

子どもの寝顔を見て繕い物をしながら明日の教育計画をたてるひと時が、彼女たちの唯一の慰安の時間であったことは、どの保母にも共通なことであった。

このような体制は、学園が出発してから、かなり長い間続いたようです。

今でいう、ライフワークバランスなんてありません。

生活そのものが仕事であり、仕事そのものが生活といった状態。

このような生活は、自分の利益のためだけにはできません。

まさに、戦災孤児や障害児のために尽くす、使命感と覚悟がなければできないことだと思います。

この時のことを著者は、「苦しくともまた楽しい、夢のようにすぎた創業の日々であった」と振り返っています。

生活即教育、教育即生活

近江学園は、もと料理旅館であった建物が施設に転用されています。

その改造の第一号は、炊事場の改造でした。

改造の第一着手を炊事場にしたのは、著者がそこに根本的な意味を認めていたからにほかなりません。

施設において教育が重要であることはもちろんですが、それよりももっと重要なのは毎日の生活であり、生活の中心となるのは「食」だと考えたのです。

家庭から通ってくる学校とちがって、施設はそれ自体が家庭です。

家庭であり、学校であり、社会なのです。

「生活即教育」「教育即生活」という言葉が学園内ではよく使われていました。

そして、炊事場は教育の場と考えられ、炊事に働く人たちを「先生」とよぶことにしていたのです。

著者は炊事について、このように述べています。

炊事仕事といえばこの学園において、教室における授業と同じく、否あるいはそれ以上の重要さをもっているのである。

児童が一番親しみ、一番苦しくなるのは炊事場である。

炊事場からの個性の観察が教育の上に大きな影響をもたらすともいえる。

一皿の料理に心がこめられるのと否とは長い年月の間に児童にどんな影響を与えるかを考えてみただけで自明のことである。      

炊事主任は人格者でなければならない。

炊事の従事者はひとり残らず立派な心の人でなければなるまい。

下里さんがいろいろ苦しい家庭的な事情をのりこえて、この仕事に自ら進んで従事してくださっていることを自分は何よりも有難く勿体なく思う。

こういう施設のなかで炊事が子どもたちの健康のためにどんなに大切かということは、どんなに強調してもしすぎるということはない。

私たちは、かわいい子どもを学園にあずけて、遠くから見守っている母親の心を思いやってみるということを忘れないようにしたいと語りあった。

それに子どもたちは、学園で与えられるたべもの以外のものは、決して口にはいらないのである。

たべものはしばしば愛情の表現である。

三度三度の食事とおやつにこそ、私たちは深い愛情をこめなければ、子どもたちとの心のかよいが阻まれることになる。

おやつにも事欠くことの多かった開園当初は、たくあん漬がおやつ代わりになった。

私たちは「たくあんのひと切れ」でも、心をこめてあつかえば、りっぱなおやつだと信じていた。


学園の医療

改造工事の第二番目は医局の造成でした。

施設という共同生活、集団生活の公衆衛生的な配慮から、収容している各個人の身体の発育、精神の発達に関心をもって見守りつつ、入園前から背負い込んでいる疾病、たとえば、ぜんそくやてんかんなどと闘わなければなりませんでした。

また、子どもたちだけでなく、職員やその家族、さらには、その頃無医村であったこの地域一帯のためにも門戸を解放しなければなりませんでした。

しかし、そのような任務を施設の医局が担当することで、施設が地域から融絶して閉鎖的になってしまうことを防いで、むしろ地域社会の中にどっしりと位置付けるのに役立ちました。

この頃のできごととして、著者はこのような話を語っています。

開園して一年たった頃であった。

長浜の駅前の駐在所に保護された千代子という八つくらいになる女の子をひきとってほしいという連絡があった。

みぞれの降る寒い日であった。

職員が長浜まで出かけていってひきとってきた。

千代子は二階の大広間の子どもたちの部屋の大火鉢の前に坐ったきり、白い眼をむいてテコでも動かなかった。

そのうち坐ったまま小便をして着ていた着物の裾をぐじやぐじゃにして泣き出した。

「痛い痛い」というのである。  

むりやりに医局に運びこんで本原さんが診察をすると陰部がひどくただれていた。

くわしく調べた結果、千代子は先天性の梅毒に冒されていることがわかった。

病院に送りこんだ方がよいのではないかという私たちの話をきいていた若い保母さんが、「もしさしつかえなかったら、わたくしにこの子の面倒をみさせてください」と申し出た。

「病院で病気はなおるでしょうけれど、この子は心を病んでいるのです。病院ではそれはなおらないでしょう。私たちにやらせてくださいませんか」というのであった。

私はこの申し出にひどく心をゆさぶられた。

本原さんも同様であった。

そこで本原さんの指導で足立さんというその保母は、千代子の看病にあたることになった。

千代子は何週間も笑顔をみせたことがなかった。

扁平な感じの顔で鼻がひくく、いつも三白のうわ眼づかいで、かわい気というものがなかった。どんな親切も素直にうけとるということがなかった。

よっぽどひねくれていたのである。

しかし足立さんはこの子を愛した。

ただれた患部に素手で薬を塗ってやり、一クール、二クールと忍耐づよい闘病生活をつづけた。

私たちは足立さんに手を大事にしてケガなどをしないように気をつけてくれとたのんだ。

どんなに小さな傷口からでも梅毒菌が浸入するかもしれないと聞かされていたからであった。

ある日千代子が足立さんの呼びかけに、はじめて、小さいけれどはっきりと「ハイ」という返事をして、はにかんでニーッと笑ったのである。

足立さんは驚喜して、私たちにこの事実を報告してくれた。

それからはまるで薄紙をはぐように、千代子の顔があかるさを増し、言葉が増え、足立さんとなら、いっしょに廊下を掃いたり拭いたりできるようになってきた。

ある日のこと、「千代ちゃん、大きくなったら何になるの」と足立さんがきくと、千代子は、「うち、保母さんになるんや」といって、にっこり笑った。

足立さんはこの時も眼に泪をいっぱいにためて、私たちに報告するのであった。

まとめ

開園当初、近江学園の職員たちは公私の境目がなく、仕事そのものが生活であり、生活そのものが仕事といったような生活をしていました。

この頃、余暇を楽しむような習慣があったかどうかはわかりませんが、この事業のために、使命のために、浮浪児や障害児のために、金も時間も、自分の生活そのものを捧げて尽くした職員たちに、尊敬の念をいだきます。

障害者による自立自営の社会をつくるといったような理想は、実現できるかもわからない相当困難な事業であることは間違いなく、ここまでの覚悟と徹底した行動が必要だったのかと思います。

また、これは単純な待遇の面という意味からだけではではなく、志の面からもそうなのですが、もしかしたら現代の施設でも、同じような状況や、想いをもって働いている人たちも多いのではないかとも思いました。


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