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『この子らを世の光に』 Part① 障害者による自立自営の社会の実現を志した男の物語

(2021.12.08 投稿)

どうも、おっさーです。

今回は、「日本における社会福祉の父」と呼ばれる糸賀一雄さんの著書、『この子らを世の光に』を読んで、僕が学んだことについてお話ししたいと思います。


著者の糸賀一雄さんはこのような方です。

1938年京都帝国大学文学部哲学科卒業。小学校の代用教員を経て、1940年滋賀県庁に社会教育主事補として奉職し、秘書課長などを歴任する。

1946年11月、戦後の混乱の中で池田太郎、田村一二の要請を受け、戦災孤児を収容するとともに、知的障害児の教育を行う「近江学園」を創設し、園長となる。その後、落穂寮、信楽寮、あざみ寮、日向弘済学園などの施設を相次いで設立した。糸賀はこれらの施設について、障害者を隔離収容するのではなく、社会との橋渡し機能を持つという意味での「コロニー」と呼んでいる。

そして、1963年重症心身障害児施設「びわこ学園」を創設した。この施設は、東京の島田療育園と並んで、重症心身障害児施設の先駆けとなった。1966年には、二つめの重症心身障害児施設である第二びわこ学園を設立した。

1968年(昭和43年)9月17日、滋賀県大津市での県新入職員のための講演中に持病の心臓発作により倒れ、翌日死去した。享年54歳だった。葬儀は滋賀県葬で営まれ、天皇から祭粢料が下賜された。

浮浪児狩り

戦災孤児や知的障害児を収容する「近江学園」が設立されたのは戦後すぐのことです。

そのころは、戦災を受けて放り出された子どもたちが、街頭をさまよっていました。

繁華街や駅などにあまりに見苦しい子どもたちが群がるようになると、警察の手によって「浮浪児狩り」がおこなわれます。

子どもたちはトラックに狩り集められて、一時保護所へ連れて行かれるのです。

新聞でもラジオでも「浮浪児狩り」という言葉を使っていました。

敗戦のどさくさの中では、まともに勉強をしていない子どもも多く、そういった中に混じって、知的障害の子どもたちも街に放り出されていました。

悪の片棒を担がされる子も多くいました。

パンパンと呼ばれる在日米軍将兵相手の娼婦や、その立番をして生きているものもいました。

外地から引き揚げてくる孤児たちもいました。

引き揚げてくる途中で父親は殺され、母親は拉致されるというひどい目にあった子もいました。

戦後の1、2年というのは、都会と農村を問わず、ほとんどすべての日本人が、ただ生存のために一切のエネルギーを消耗していたというのが現実でした。

このような社会状況のなか、滋賀県の役人であった著者はその身分を捨て、戦災孤児や知的障害児を収容する「近江学園」を設立することを決意します。

このときの自身の想いについて、このように述べています。

日本の児童問題はこうした状態のなかで、「教育不在」の烙印をおされて、おそるべき姿を露呈しつつあった。

この社会的現実のなかで、あたかもメタンガスのあぶくのように湧き出してくるさまざまな児童問題を、たとえどんな小さな試みであっても、教育の立場でがっちりとうけとめてみて、そのことを通して新しい社会や教育の像を未来につくりあげたいというのが、私たちの願いであった。

それはほんの一隅を照らす底のささやかなこころみであるにはちがいなかった。

それをやったとて天下の大勢に何ほどのひびきも与えるものではなかろう。

しかし私たちはやるべきだと考えていた。

趣意書

近江学園設立にあたっての構想は、著者の記した趣意書にしたためられました。

これからはじまる困難な事業について、著者はこのような決意を述べています。

それにしても、私たちはその経営をなんとしても独立自営にもっていきたかった。

公的な援助をうけないというのではない。また一般の寄附を排除するというのでもない。

ただ自分たちの額に汗して生活を支えるという基本的な構えのないところに、社会事業の発展はないというふうに、私たちは確信していたのである。

そういうことがじっさいに可能かどうか、自信のないことであった。

しかし、理想としては民間の社会事業が、この生産性を確保していないことには、思いきった仕事ができないのではないか。

それは経営的な経済の問題ばかりではない。

お布施で生きている人間が、子どもたちの社会的な自立の根性を養ってやることができるものであろうか。

この世のなかに何のたよるものもなく、風呂敷ひとつもあるかなしの天涯の孤児たちに、ひとりでりっぱに世の中に生きていくのだとはげます資格があるといえるだろうか。

お布施にすがったり、月給にたよっていて、何ができるというのか。

こういった反省が強く迫ってくるのであった。

寄付にたよれば卑屈になり、公費にたよれば官権におさえつけられることにもなろう。

この自前の生産性を求めるのは、理想であるかも知れない。

したがって理想に到達するまでの現実は寄付にも公費にも依存しなければなるまい。

しかしそれだからといって卑屈になったりおさえつけられたりすることはまっぴらごめんである。

障害者雇用などの障害者の社会的な自立は、現代においても大きな課題といえます。

障害者が自立して活躍できる社会の実現は、本人の生きがいのためだけではなく、社会全体のためにもなりますが、今現在の日本においても到底実現できたといえるものではありません。

それだけ困難な問題なのだと思います。

そのような困難な課題の実現を、終戦当時の混乱の中で志した人がいたんだということには驚きをおぼえます。

使命感と共に飛び込んでくる職員たち

近江学園の構想を聞いて、それまでの身分を捨て馳せ参じる職員は多くいました。

経営的には全くお先真っ暗といってよいような学園に、つぎつぎと若者たちが、職員や教官として飛び込んできたのです。

その中のひとり福永君は、国民学校の先生で23歳、どうしてもこの学園ではたらきたいということでした。

そのときの面談について、著者はこのように述べています。

私は福永君に卒直な自分の気持を述べた。

いま開設しようとしている学園は世の常の学園ではないということを強調した。

つまり社会事業的な性格をもった教育機関であるから、第一に四六時中、心の安まるひまもない非常に困難な教育実践であるということ。

第二に経済的には何ら報われることのない、むしろ、マイナスになるかも知れないというような構想をもっているということ。

第三に、そういう悪条件のなかで、しかも研究は猛烈に進めなければならないと考えているのだということである。

これは福永君に敢えて誇示したのではなく、脅かしたのでもなかった。

私たちがこのようにじっさいに考え、かつ感じていた気持をそのままいったまでであった。

福永君は伊吹山の山麓の古い寺の出身であった。

彼は求道の心をもって近江学園を志願したのである。

わたくしが提示した条件を彼は意に介しなかった。

十月末には彼はとびこんできた。

福祉の仕事は社会的にとても重要な責任の重い仕事ですが、事業に税金が入るので、商売のように大成功して大金持ちになるというようなことは望めません。

それでもこの仕事に就くのは、基本的には、使命感からなんだと思います。

この時代だけでなく、今現在福祉の仕事に就かれている方々も同じく。

僕はこういった方々を尊敬してやみません。


幸子の死

開園以降、近江学園には、知的障害児や満州からの引揚孤児、浮浪児や親子心中未遂の子どもたちがぞくぞくと送り込まれるようになりました。

幸子は、その中のひとりでした。

ある寒い日に、浜大津の花村という旅館のおじさんが、乳呑子をかかえてやってきた。

ひと月程まえ、ひとりの妊婦が宿に泊ってこの子を産みおとし、そのまま行方不明になったので、八方手をつくしたがどこにも引受け手がなく、処置に困ってつれてきたというのであった。

碧い眼とカールした金髪の混血児で、すき通るような白い肌の色が、この子の薄命を象徴しているかのようであった。

旅館ではこの子に幸子という名をつけていた。

開園間もないどさくさであるしこの子に専念する保母をだれにしようかとためらっていると、一番働き手の若い保母が、「先生、私にぜひ育てさせてください」と申し出た。

彼女は医局の隣りの四畳半の部屋に陣どって、そこで実の母親も及ぶまいと思われるほど必死の努力で幸子ととり組んだ。

幸子はそのときはもう乳を吸う力もなくなっていて、生まれたときより体重が減っていた。

医局と保母の不眠不休の看病にもかかわらず、幸子は二週間ほどで何の苦しみも顔にあらわさないで死んでいった。

これが開園後はじめての園児の死亡であった。

嬰児とはいえ、ひとりの魂がわれわれの手から奪われたことは、学園にとって大きなショックであり全職員をさらに奪起させた。

そして幸子が死んだということは、浮浪していた子どもたちの心にも、人生の厳粛さをしみじみと思わせることでもあった。

少しはなれた山裾に作った幸子の墓に、子どもたちは椿の花をもって詣ったりした。

まとめ

糸賀一雄さんは、社会福祉学の世界では知らない人はいないといった存在のようですが、僕らのような障害児を育てている、福祉のサービスを受ける側の人間にとっても、彼について知ることは大きな意味のあることだと思います。

終戦直後の混乱の中、私利私欲を投げ打って浮浪児や障害児、さらにはその成人後の「医療」、「教育」と「生産」までも含めた、障害者による自立自営の生活を実現しようと志した人が、この時代にいたのです。

現在の社会はどうでしょうか。

糸賀さんの理想が実現されている社会とは、とてもいえない状況だとは思います。

でも、人類が貧困や病気、差別、暴力などを少しづつ乗り越え、少しずつとはいえ社会が良くなっていっているように、障害者福祉も過去の歴史の中で今があり、糸賀さんの事業は、その歴史の中の重要な1ページなのだと思います。

そして、僕たちのような障害児を育てる家族や、障害を持った方々が、未来に向かってどうあるべきか、みんなで考えて行動していけたら、今よりもっと良い社会がつくれるのではないでしょうか。


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