(2021.12.08 投稿)
どうも、おっさーです。
今回は、「日本における社会福祉の父」と呼ばれる糸賀一雄さんの著書、『この子らを世の光に』を読んで、僕が学んだことについてお話ししたいと思います。
著者の糸賀一雄さんはこのような方です。
浮浪児狩り
戦災孤児や知的障害児を収容する「近江学園」が設立されたのは戦後すぐのことです。
そのころは、戦災を受けて放り出された子どもたちが、街頭をさまよっていました。
繁華街や駅などにあまりに見苦しい子どもたちが群がるようになると、警察の手によって「浮浪児狩り」がおこなわれます。
子どもたちはトラックに狩り集められて、一時保護所へ連れて行かれるのです。
新聞でもラジオでも「浮浪児狩り」という言葉を使っていました。
敗戦のどさくさの中では、まともに勉強をしていない子どもも多く、そういった中に混じって、知的障害の子どもたちも街に放り出されていました。
悪の片棒を担がされる子も多くいました。
パンパンと呼ばれる在日米軍将兵相手の娼婦や、その立番をして生きているものもいました。
外地から引き揚げてくる孤児たちもいました。
引き揚げてくる途中で父親は殺され、母親は拉致されるというひどい目にあった子もいました。
戦後の1、2年というのは、都会と農村を問わず、ほとんどすべての日本人が、ただ生存のために一切のエネルギーを消耗していたというのが現実でした。
このような社会状況のなか、滋賀県の役人であった著者はその身分を捨て、戦災孤児や知的障害児を収容する「近江学園」を設立することを決意します。
このときの自身の想いについて、このように述べています。
趣意書
近江学園設立にあたっての構想は、著者の記した趣意書にしたためられました。
これからはじまる困難な事業について、著者はこのような決意を述べています。
障害者雇用などの障害者の社会的な自立は、現代においても大きな課題といえます。
障害者が自立して活躍できる社会の実現は、本人の生きがいのためだけではなく、社会全体のためにもなりますが、今現在の日本においても到底実現できたといえるものではありません。
それだけ困難な問題なのだと思います。
そのような困難な課題の実現を、終戦当時の混乱の中で志した人がいたんだということには驚きをおぼえます。
使命感と共に飛び込んでくる職員たち
近江学園の構想を聞いて、それまでの身分を捨て馳せ参じる職員は多くいました。
経営的には全くお先真っ暗といってよいような学園に、つぎつぎと若者たちが、職員や教官として飛び込んできたのです。
その中のひとり福永君は、国民学校の先生で23歳、どうしてもこの学園ではたらきたいということでした。
そのときの面談について、著者はこのように述べています。
福祉の仕事は社会的にとても重要な責任の重い仕事ですが、事業に税金が入るので、商売のように大成功して大金持ちになるというようなことは望めません。
それでもこの仕事に就くのは、基本的には、使命感からなんだと思います。
この時代だけでなく、今現在福祉の仕事に就かれている方々も同じく。
僕はこういった方々を尊敬してやみません。
幸子の死
開園以降、近江学園には、知的障害児や満州からの引揚孤児、浮浪児や親子心中未遂の子どもたちがぞくぞくと送り込まれるようになりました。
幸子は、その中のひとりでした。
まとめ
糸賀一雄さんは、社会福祉学の世界では知らない人はいないといった存在のようですが、僕らのような障害児を育てている、福祉のサービスを受ける側の人間にとっても、彼について知ることは大きな意味のあることだと思います。
終戦直後の混乱の中、私利私欲を投げ打って浮浪児や障害児、さらにはその成人後の「医療」、「教育」と「生産」までも含めた、障害者による自立自営の生活を実現しようと志した人が、この時代にいたのです。
現在の社会はどうでしょうか。
糸賀さんの理想が実現されている社会とは、とてもいえない状況だとは思います。
でも、人類が貧困や病気、差別、暴力などを少しづつ乗り越え、少しずつとはいえ社会が良くなっていっているように、障害者福祉も過去の歴史の中で今があり、糸賀さんの事業は、その歴史の中の重要な1ページなのだと思います。
そして、僕たちのような障害児を育てる家族や、障害を持った方々が、未来に向かってどうあるべきか、みんなで考えて行動していけたら、今よりもっと良い社会がつくれるのではないでしょうか。