2020/6/25 夢

(今回の"私"の初期状態は、現実の私とほぼ同じであるようだった。)

『暇なら、私の通っている学校の授業に遊びに来ない?』
と友人(現実には面識のない人だったと思う)から提案される。
しかし、なぜか編入学ではなくモグリを勧められる
(お金がないことまで把握されていたのかもしれない)。
私は素直に、美術系の学科の設けられたその専門学校へ足を運ぶ。

その学科に学生は3人のみ。
友人(女性)、同い年の男性、ひとつ年上の女性。
思っていたよりもかなり少人数であったため躊躇いがあったものの、
『授業を聞いている人数が多いほうが先生も張り合いが出るんじゃないか?』
といった友人のポジティブな解釈に背中を押され、
友人のそばで、置物のように存在していることを選ぶ。
教師陣も最初だけはおや?という表情を向けてはきたものの、
見て見ぬフリを決め込むことにしたようだった。
居心地は悪くなく、毎日ではないものの度々通う。

ときは進み、卒制の制作時期。
さすがにこの時期ばかりは友人の邪魔になってはいけないと察し、
自分でも何かをつくり時間を潰すことに決めた。
制作用の教室にあった廃材からパーツを見繕い、
高さ約1.2m、幅1m弱?の、キャンバスのようなものを練成する。
布地に、鉛筆で(おそらく自作の)詩を書き込む。
その書き込みをなぞるようにして、字を縫い付ける。
書いたとおりに縫うことを基本としていたものの、
縫う際に、この語のほうが良いのではないか?
と考え直し改変を加えたものもある。

様子を見に来た教師のひとりから、
(ここに居着くようになってから初めて)声をかけられる。
『あなたのなかでことばが大切な存在であるから、
そうやって縫って、留めておこうと思っているのですか?』
教師の真意は知れないが、
単なる問いかけ、公園で絵を描く老人に向けるもののような、
雑談として処理できるレベルの声かけならしても良いと判断したようだ。

「ことばが大切な存在である、それはご指摘のとおりです。
ただ、なるべく永きに渡って残るような固定、それを実行するときと、
そのことばの生まれたときとでは、
両方の発想者が同じ者であった場合でも、
そのことばに込める意思は厳密には別のものであるはずです。
実際に固定の過程で、このほうがより良い表現だろうと感じ、
もとのことばに手を加え、姿形を変えた、
そういった箇所もところどころ存在しています。
しばらくの間は、書かれたことばがその差異を主張するのでしょうが、
しかし、先に消えてしまうのは、
きっとその書かれたことばのほうでしょう。
そうなってしまったあとで、他者が"そのことばが書かれたときの意思"を読み解くことは、
おそらく非常に困難なものであることでしょう。
残したかった内容の本質以外が削ぎ落とされた、
洗練されたことばであればあるほどに。」

私の答えを聞き終えた教師は、言葉を返すことなく去った。

少しだけ場面は先に進む。
私の背後では私よりひとつ年上の女性が制作をしており、
そちらの作品について問いを投げかける教師に、
彼女が答える声が、断片的に聞こえる。

『それぞれのくじの動物たち(この夢の世界では一般的に、くじには動物の絵が描かれているらしい)を1箇所にあつめて、』
『これまでたくさん出てきたからか、私はうさぎが好きで、』
『この作品は、どのような運命を指す1枚となるのだろう。』
『ここに集められた動物たちにもとの個性はあるだろうか?』

(この夢の記録自体も、
起きてからメモに書き落とす、また、投稿するまでの過程で、
より的確な表現に変えたり、整合性を取ったりと、
そこそこに手を加えている
(後者は無意識的に行っているところもあるかもしれないが))

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