見出し画像

「社会で求められていることを書く」

私がなんで文章を書き始めたかというと、
まぁ身の回りに起きた出来事の記録と思考の言語化
というのが主な目的なんだけど、
さらにその目的は何かと突き詰めて考えた時に、
浮かび上がるのはやっぱり単なる自己満とかではなく
読んだ人の心に何かしら残るものがあることを信じてる
というのが本音だと思う

じゃあどういう人に何を残したいのかというと
私は自分のことしかわからないから
当然「自分と似たような人」に向けて書いているわけで

「自分と似たような人」というのを具体的に表すと
たとえば「人と違う自分に自信が持てない人」とか
「何者かになりたくてなれなかった人」
「人との関係で傷ついた経験のある人」
「何者かに脅かされるような不安を抱えている人」
と、結局心に何かしらの傷や弱さを抱える人ということになる

そんな人、どこにでもいそうというか
むしろ現代社会はそんな人ばっかりなのではないか
と言われると確かにそうだと思う
自分でそのことに気づいてない人も含めたら
ほとんどの人がそうだと思う

じゃあそんな人々に何が求められているかというと
それはもう、既に世の中で散々こすり尽くされたような
「ありの〜ままで〜」的世界観だったり
あるいは少し違ったベクトルとして
「学びと成長」的なキラポエだったりするのだけれど
私はどちらもハマらない人に向けてものを書きたい

例えば今私が住んでいる過疎の町がそうであるように
「何もないけど、毎日何かしら起きているよね」とか
あるいは「色々あるけど、結局何も変わらないよね」
みたいな
静かな揺らぎの底にある強固な日常みたいなものを
どこかで求めている人はいると思うのだ
まだ言語化できていないだけで

で、なぜそれを欲するのかといえば
たとえば自分自身の不安定さから逃れて
ひととき息をつける場所であったり
あるいは自分自身には深く影響を及ぼさない程度の
クスッと笑えるような小さな刺激であったり
そういう「ちょうどいい距離感」の
他者との関わりが欲しいという
無意識の欲求であるような気がする
だから私は自分自身のことにしろフィクションにしろ
そういうものを描いていきたい

そうすると今度は
「ちょうどいい距離感」とは何か
という議論になりそうな気がしなくもないけれど
たとえば「死にたい」と言っている人に「死ぬな」と
言わないような立場であると私は思っていて
それこそが中村淳彦さんの言っているような
「悪魔の傾聴」的な態度であるような気がしている

ここで私が学生時代に作ったものの中から
唯一今も残っているもので
なおかつ世間からも一定の評価が得られたものを紹介します


これは大学3年生の時に映像デザインの課題で作ったもので
ACの学生コンペで準グランプリにあたるBS賞を受賞して
嬉しさ余って私がmixiにアップしていたものを
誰かが勝手にニコ動に転載したもののさらに転載なんだけど
集まっているコメントが面白いので時々覗いて元気をもらっている

言っていることは結局そういうことなのだ
死にたい人は誰かに「死ぬな」と言って欲しいのではなくて
ただ黙ってそばにいて、話を聞いて欲しいのだ
当時の私がそう思っていたからこれを作った

「私はあなたの言うことを
 否定も肯定もしないよ」
黙ってそういう態度を示してくれる人や場所の存在が
どんなにありがたいか私は知っているから
これからもそういうことを発信していきたい
それは消極的なメッセージだから
多くの人の目に触れなくてもいい
求めている人にだけ届けばいい
そんな思いで今日も一人PCに向かって文字を打っている

この記事が参加している募集

なりたい自分

with ヒューマンホールディングス

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?