20240422

相談してねって言葉に(真意はどうであれ)特別嫌悪感は感じないけれども、自分の悩み事が数年間に渡る自業自得の積み重ねみたいななんかもう取り返しのつかないところまで来てしまった故なんというか相談したくても出来ねぇよ、と心の中で悪態をついてしまう自分に自己嫌悪が加速する。

好きに生きたいと言う割には過去と今と社会規範に苦しめられているし、真っ当な人生を歩むにはレールから外れすぎてしまったし普通になりたいと考える割には結局孤立の根本にあるアイディンティティを捨てられないだろうし、どっちつかず過ぎるなと目論見が透けて見える空間で実感しました。
結局は私の感情なんてこれっぽっちもそこには含まれていなくて、一般社会に適応することが「善」であり「優」であるのだ、なんて絶望が静かに首を絞めている。 
適応するか適応しないかの二択で選ぶのならば前者の方が良いのかもしれないけれども、人に寄っては根性論精神論なんかじゃ対応できないような、硫酸プールみたいな環境があるのだというそもそもの考えがない。だから思慮が行き届かない。
言葉を大事にしていないからこうなるんだ。
発言ひとつに、それは適切な言葉で一般の定義から外れておらずきちんと意味が伝わるのか考えて喋っているのに上辺の内容しか掬わない。報われない労力。

意図されていないであろうものにくだらない自己投影をしてしまいがちな癖に苦しんでいます。
他人の創った世界を自分勝手に解釈する行為が本当に嫌い。それでもその他人の創った世界にしか救いを求められない質を持ち合わせているのは自分なので、ここでも結局手っ取り早い自己嫌悪という手段に逃げてしまう。

自己矛盾の果てにある自己嫌悪、と言った方が正しいのかもしれない。

言ってしまえば私達が日々享受しているもの(社会に存在するもの)は他人が造ったものであって、そこに人間が居る限り大体は少なからず何かしらの意思が存在しているはず、だと思っているのですが、まあそこの感情については普段意識しないのだなと気が付いては理想がある訳でもないのに少し自分に絶望したり、細々な自分の性格が自分の首を絞めている。

詰まるところ自分が望んでこうなっている訳なのではないか!
それを否定出来る性格が育まれる環境ならそもそもこうなっていなかっただろうからこれは必然と思っても良いのか、それともただの怠惰なのか。
ここまで性根の腐った人間だったことを自覚できなかった。


と、一番他人から言われて恐いであろうことはきっと図星なのだろうから、これも自己からの逃避手段にしかならない。

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