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5章 99%の人が誤解している瞑想

瞑想について理解するとともに、その誤解についても知っておく必要があります。なぜなら、瞑想について誤解してしまっていると、瞑想法も正しく実践することができなくなるからです。

すでに「瞑想とは何か?」というところで述べたように、瞑想とは「する」(行動)ものだと思っていた人はすでに瞑想を誤解している99%に入ります。

また、瞑想とは「テクニック」だと思っている人も瞑想を誤解している99%に入ります。

そして、何よりも瞑想について理解すべきことは、瞑想は「頭」(マインド)では理解できないということです。頭の理解を超えた現象が瞑想だということです。なぜなら瞑想状態は無心でもあるので、頭がありません。

なので、マインドで理解しようとして、マインドが、「これが瞑想だ」と思っている瞑想は誤解にならざるを得ないことになります。つまり、瞑想はマインドを超えているということ。もっというと瞑想はマインドの死だということです。

ここから何が言えるかというと、マインドは瞑想をやりたくないし、瞑想は時間の無駄だと思うし、瞑想はなんの役にも立たないと思っているということです。それはそうならざるを得ません。なぜなら、瞑想はマインドには理解できないものなので、マインドの尺度では評価もできないものだからです。

ですから、もしあなたが瞑想するのは時間の無駄だと思っているとしたら、それはマインドで瞑想を誤解していることになります。

それに関して、私が気に入っている、面白い例え話があります。

それは第二次世界大戦後のビルマで起こったことだと言われています。日本軍が降伏するときに、小型飛行機を森の中に残して、日本兵たちは森のどこかに隠れました。

その地域には古くからの部族が住んでいて、空飛ぶ飛行機のことを「大きな鳥」と呼んでいました。しかし、その森に隠されていた小型飛行機を見たときに、それを見た人たちはそれが空を飛んでいた「大きな鳥」とは思わなかったのです。

それでみんなはその森に残された飛行機を見たときに、「なんだろう? 車輪がついているから、乗り物だろう」ということになって、人々はそれに二頭の馬につけて、馬車として使うことにしました。

都会に行ったことがある若者がそれを見て、「これは馬車じゃない、車だよ。どうして羽がついているかわからないけど。俺にやらせてみな」と言いながら、試してみると、それが動き出したので、今度はそれを車として使い始めました。

すると、軍隊にいたことがある者がそこを通りかかって言いました。「お前たち何やっているんだ? 飛行機を車にして使っているのか? これは飛べるんだよ!」

そこで部族の者たちが、「これは大きな鳥だったのか?」と聞くと、「そうさ」と言って、パイロットだったその男は、その飛行機で大空を飛んで見せたのでした。

つまり、頭で瞑想を理解しようとしている限り、それは飛行機を馬車や車としか理解していないのです。でも、実はそれは空を飛べる大きな鳥なのです。

頭(マインド)は自分で知っていることしか理解できません。でも、瞑想は、そういう頭の理解を超えた何かである可能性がある、ということを知っておくことで、その瞑想の可能性にも開いていることができます。

瞑想をするにあたっては、頭で考えようとはせずに、そこに起こってくることに対してはオープンマインドでいてください。それが、瞑想をするときの注意として述べた「遊び心」でするということです。

遊び心でいるときには、心が自由で開いています。でも、深刻になってやろうとすると、その時はマインドで瞑想に取り組もうとしているときなので要注意です。そのことに気づいていることが大切です。

瞑想をしている中で、頭で理解できないないことが起きるかもしれません。でも、それは気にしないで、そのときに起こる現象や体験には執着しないでください。ただ、実験として起きていることに対してジャッジせずに気づいていてください。

瞑想に対しては、マインドの既成の固定観念で理解しようとしないことです。そうでないと、せっかくの瞑想の可能性を限定してしまうことになってしまいます。

次に理解すべきことは、瞑想は「集中」ではないということです。瞑想は集中法だと誤解している人が多くいます。

しかし、「集中」するのはマインド(頭脳)であって、瞑想はノーマインド(無心)の状態なので、その集中を超えたところに瞑想(状態)があります。

何かに集中するのはマインドの焦点を何かに合わせているということを意味します。集中とは焦点を合わせているひとつのこと以外のすべてをマインドから排除するマインドの使い方です。

瞑想では、まったく何にも焦点を合わさないで、何ひとつ排除することなく、すべてを含みます。瞑想ではリラックスしますが、集中しているときには緊張します。瞑想では深く安らいでいて、何が起こっていようと、ただ気づいていることができます。

ただ、瞑想の状態でもある「禅定」は集中と似ていますが、集中とは異なった状態です。そこには努力がなく、マインドがありません。

瞑想法には集中を必要とするテクニックが多くあります。「集中」するのはマインドの機能です。ですから、集中力を必要とする瞑想法の実践は集中力を高めることができるので、能力向上や能力開発に役立ちます。

集中することで、雑念はなくなるので瞑想に近づきますが、瞑想はその集中を超えた状態です。集中を超えたところに瞑想が起こってきます。

現在では、脳波の測定によって頭を使っているときの脳波と瞑想状態の脳波とは違っていることがわかっています。

瞑想に入る前の脳波の状態は、頭に雑念がいっぱいで、脳波はβ波(13Hz以上)ですが、心が落ち着き、マインドが静かになっていくとα波(8~13Hz)になり、さらに瞑想が深まっていくとさらに穏やかな脳波になり、θ波になり、さらにδ波というふうに脳波の周波数が変化するのが観測されています。

つまり、脳波の観測から、β波が出ているときは脳を盛んに使っている状態で、瞑想状態が深まるほど脳の活動状態が減り、心が穏やかになっていくのが知られています。つまり、瞑想の状態では脳の活動や思考を使っていない状態であることがわかってきています。

西洋ではメディテーション(黙想)、コンテンプレーション(熟考)、コンセントレーション(集中)という言葉がありますが、それぞれある対象についてどのように考えるかという脳の使い方(考え方)を表しています。

東洋ではサンスクリット語のディヤーナが本来の瞑想に当たる言葉です。仏陀はそれをパーリ語でジニャーナといい、それが中国に渡ってチャンと呼ばれ、日本に渡って禅(ゼン)になったと言われています。

ディヤーナは自分の中心にいて、完全にくつろいでいる状態のことです。それは何かを「する」(行動)のではなく、在り方です。それは頭では理解できない境地です。

そして、私たちはその瞑想というのを頭で理解しようとするあまり、その瞑想の可能性について誤解してしまっていることが多々ある、ということを自覚することが大切だと思われます。

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