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教材理解のない授業は、浅い授業になる

授業づくりでは、
①教材の分析・選択
②生徒の興味・意欲づけ
の2つを分けて考えるフレームがあります。

 ①教材の分析・選択というのは、意味としては、教材の知識量とそれに関わる解釈と考えても差し支えありません。
 それに対して②は、生徒の興味を引く、授業に引き込むための工夫だと考えてもらえばいいかと思います。

どちらも大切なのですが、どちらかだけという極論でいえば、①のほうが良いです。なぜなら、本気の深い教材分析が加えられた授業には、生徒も自然と興味を持つからです。一方、①を抜きにして②に走ると、学習内容の本質からズレたものを生徒に取り込ませてしまいます。最悪、害を与えてしまうことにもなりかねません。


料理に例えると

 ①は、その料理の良さを理解していることと考えられます。つまり、その料理にはどれだけの栄養価があるのか、その料理を食べることによって、どのようなプラスが得られるのか、さらには、その料理は他のどんな料理と一緒に出したら美味しいのか、といったことを理解することです。

 一方で②は、料理の味付けです。調味料のようなイメージです。たとえば、ブロッコリーは栄養価が高く、健康に良い。でも、それだけだとブロッコリーが苦手な子どもはなかなか口に入れない。だから、マヨネーズをかけたり、少し塩をふったり、はたまたサラダに混ぜたりと、そうした工夫をするのです。

 当然ですが、栄養価が高い料理でも、子どもが食べなければ意味がありません。しかしまた、子どもが食べたとしても、栄養価がない料理では意味がありません。それどころか健康を害する可能性があります。

 このように、①も②も、授業においては極めて大切で、このどちらもそろっていると、授業が成功する可能性は高まります。(実際には授業の組み立てを機能させる即時対応力も必要です)


①と②のどちらからやればいいのか?

 僕の個人的な考えですが、①からやったほうが良いです。

 冒頭のツイートにも書いてありますが、①を極めると、自然と子どもがノッてきます。本気で極めれば、ですが。これは、正直なところを言ってしまうと大学生でもできるかもしれません。むしろ、大学生の方が時間的な制約がないので、やりやすいかもしれません。

 教科書を読み、自分なりの解釈をしつつ、専門的知識を投入して教材分析ノートをつくる。それが授業の栄養価を高めることになります。深く教材研究をするということは、指導内容の知識量を増やし、他との関連性を広げることになり、自然と子どもの興味を引くことにもなるのです。

 注意したいのは、「指導法を考えること」とは異なるということです。

 「アクティブラーニング」という言葉が出てきて、教育界には、「どう教えるか」「どのような授業形態にするか」といった情報が溢れるようになりました。しかし、そこは授業の本質ではないと思います。

 指導法=「どう教えるか」。そこではなく。

 「何を教えるか」。そこを明らかにし、教材内容に自分なりの信念を持つこと。それが、授業をする際にまずするべきことなのではないかな、と思うわけです。ここを疎かにするとどうなるかとういと、小学生は教えたことがないのでわかりませんが、中学生は解っちゃうんです。本能的に。「あ、この内容、価値ねえ。意味ねえ。」というのが。それは例えば授業では「私語」という現象で表れます。どれだけグループ活動やペア活動とかを入れたとしても、学ぶ内容の価値を感じていなかったら、中学生はやりません。それか、表面上は先生の話を大人しく聴いているように見えるけれども、実際には何も学んでいないという、学びの空洞化が起きます。

 授業というのは、集団で営む知的探求の場です。

 集団で学び合うのです。それは重要です。

 だからこそ、

「何を」学び合うの?

 というところなんですよね。

 その「何」というところに、「集団でやる価値」や「集団でやる意味」がない、程度の低いものをあてがっても生徒は動かない、というのが、僕がここまで現場でやってきた中での実感です。

 集団で突き詰めていこうとしているものの中に、知的な喜びはあるのか。それは世の中でどういった位置づけなのか、どのような意味をもつのか。それをまずは考える。そのあとで、「じゃあこれを生徒が発見するために、どんな提供の仕方があるかな」と考えるのが僕にとっての自然な流れです。

 人は、何でもかんでも協力するのではありません。互いに助け合わなければ乗り越えられない困難があるから協力するのです。「協力しなければならない」が先にきてしまうと、協力することが目的化します。それは「協力」の空洞化に他なりません。

 教師が本気で教材に向き合って、生徒たちが力を合わせてやっと得ることのできるものを見出すのです。そこから、本物の「学び合い」「協力」が生れるのです。

学問の面白さを感じさせる

 学問の面白さを感じさせることができる先生は強いです。

 なぜなら、子どもが「面白い!」と思う授業は、自然と自ら学ぼうとし、授業での「規律」というものが勝手にできあがるからです。というより、「規律」という概念がそれほど必要ではなくなります。学ぶもの自体の面白さを感じられれば、規律(ルールや決まり)を考えずとも、子どもが学ぼうとするのです。

 そして、学ぶことの面白さ、楽しさを実感した人は、自ら学ぶようになるのです。これこそが、主体的な姿ではないでしょうか。

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