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伊兵衛と狸、かく語りき

息子とよく行く公園の側溝で、息子が何か見つけた。

狸だ。死んでいる。死後数日~一週間ほどだろうか、原型は留めているが所々蛆が湧いていた。側溝の上に咲く山茶花から花弁が落ち、死んだ狸を弔っているように見えた。花と蛆。美と醜。生と死。何かに祈るように、私はシャッターを切った。

返ってきたネガを見たら、物言わぬ狸に「勝手に美談にしてくれるなよ」と言われたような気がした。

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木村伊兵衛の自身のエッセイ(『僕とライカ』朝日文庫)より。

カメラは機械である。(中略)それ等は明瞭に物質で、そしてそれ等は疑いもなく存在している。レンズを通して光線が入って来る。乾板或はフィルムに感光する。薬品は数字的である。数字的なものに依って、それはその感光膜を表わして来る。印画紙はその化学変化を整調の黒白灰の三色によって表わす。それを写真という。そして実に、実にたったそれだけの事である。私たちはこれ等の道順の中に、いささかも神秘的な、偶発的な非化学的な現象を摘出し得ない。石の如く、鉄の如く、正確に明瞭にそれ等は私達の周囲にかかるもとしての鉄則の中に君臨する。
精神的にシャッターをきった。それはわかるが、精神的にやったとて、カメラが物理的機械であることに昔も今も変りはなかったようだ。情緒、こうした言葉が何よりも、先ず一番に、カメラ全体の意志を支配した。(中略) 情緒────それの為に焦点はボカされて、それがために近眼の人間が、眼鏡を忘れた時のように、それが為にカンカンのひでりの中で食事をくいはぐれた視覚の如く。(中略)イナズマの光る瞬間に視界に映ずる黒白灰の三色調しかない、自己の持ち味を忘却してしまっていた。
マイエル・グレーフエの言葉をかりる。「もしも芸術が消滅すべきものでないならば、その芸術に適当な領域が芸術的感動を最初に受け容れるものでなければならぬ。しかるのちに人間の理智に芸術的感動を与えなければならぬのであって、その反対であってはいけない。或る一つの作品はそれがいささかも芸術的要求を満足させなくとも最も深い真理を包蔵し得る。しかし思想的なものが、意識的に芸術の中に這入りこむことは常に芸術的方面を侵害するものである
言わしむれば────とにかくうつそうと思った時、うつしたほうが一番良いと言う事になるようだ。理くつでうつしたのでは第一に芸術に反する。理論はその中に含まれたもので、含ますものでないとなると芸術写真のうつし方てな本は命題から間違っていはしないか?

小学生の時に初めて使った写ルンですから数えて25年近く、私の生活の傍には大なり小なりカメラの影があった。小学生の私も今の私も、ファインダーを覗く理由は大きく違っているとは思えないが、それでもまだ「なぜ写真を撮るのか」という問いにはうまく答えられない。私の写真は記録であり、記念であり、ドキュメンタリーなのだと思う。その場に自分が居たという自分史。

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伊兵衛のオジキもああ言ってることだし、私も能書き垂れるよりひたすらに写真を撮り続けようと思います。「ゲージュツとは」などとあれこれ言うのはワイセツ的に感じるし、その瞬間を撮り損ねそう。

ただ、あくまで自分の為の写真だけども、そういった写真を誰かに見てもらった時、「なんかいいね」と言われるとやはり嬉しくなってしまうのです。モノの価値は社会性の中でしか生まれないと思うので。

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