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祖母の話

わたしの下の名前は「はな」。
これは本名ではなく、わたしの祖母からもらったもの。
祖母の名前は山本花子。
わたしが世界で一番大好きな、ハイパーおばあちゃんだ。

祖母は大正14年5月3日生まれ。
現在は祖父と同じお墓に眠っている。

祖母は小さな頃から苦労の多い人だった。
幼いうちに祖母の母は病で亡くなった。
祖母が3歳の時に、祖母の父は新しい母を連れてきたそうだ。

祖母から、子どもの頃の話はあまり聞いた事がない。
話したくなかったのかもしれない。
ただ、ある冬の寒い時にポツリとつぶやいた事がある。
「おばあちゃんはもらわれた子だから、こんな寒い日も冷たい水で一人洗い物をしたっけ」

祖母がどんな苦労をしてきたか、想像もつかない。
幼い頃に母を亡くし、肉親は父だけの家庭で生きるしかなかった。新しい母や新しい兄弟との関係性はわからない。
よかったのかもしれないし、悪かったのかもしれない。
しかし、辛いことも多かったのだろう。

祖母は戦争も経験する。
西区に住んでいた祖母は、名古屋城が焼け落ちる瞬間を見たという。
当時は食器メーカーのノリタケで勤めていた。
空襲警報が鳴ると怖かった、命の危険を感じたと話している。

戦争によって祖母の青春時代は灰色の時代になってしまった。
もし戦争がなかったら、祖母はもっと幸せになれたんだろうか?

戦争が終わると祖父と結婚し、祖母は三児の母となる。
この頃の写真は笑顔も多く、幸せな様子が見受けられた。
当時の話をしている祖母は、顔がイキイキとしていた。

3人の子供が巣立ち、老後は祖父とのんびり過ごすはずだった。
ところが神様はそれを許さない。
祖父が脳梗塞で倒れ、寝たきりになってしまったのだ。

まだ私が生まれる数年前のことだった。
祖母の家で団らん中に、急に様子がおかしくなったらしい。
最初に気づいたのは私の兄(当時2歳)だった。
すぐに救急車で運ばれた。

家で老老介護をすることになった。今のように介護制度も整っておらず、祖母が一人で祖父を介護した。
遠くへ出かけることもできない。
楽しみは近所のスーパーで、掘り出し物の安い服をを見つけること。

苦労ばかりだっただろう。
それでも戦争を経験した人は、辛いと周りに弱音を吐かない。
でも身体は確実にボロボロになっていた。
介護のストレスからか、突発性難聴になった。病院にも行けなかったため、ほとんど耳が聞こえなくなってしまった。

どうして祖母ばかりこんな苦労をしなくてはいけないのか。
私はなぜ何もしてやらなかったのか。
後悔ばかりが募った。

私は子どもの頃からずっと祖母が大好きだった。
夏休みに、親にどこか行きたいところある?と聞かれても「おばあちゃんち!」と答えたものだ。
いつでも絶対に味方でいてくれる祖母は、私にとって心のよりどころだった。

学校がつらくて行きたくない時は、祖母の家までの電車賃をランドセルに忍ばせて登校した。
親には行きたくないというと叱られるが、祖母だけは私の気持ちをうけとめてくれるからだ。
結局は電車に乗ることはなかったが、しんどい時は頼れる場所があるだけで、心は安心できた。
祖母のおかげで、辛いときも乗り越えることができた。


私は大学卒業後就職できず、フリーターの道を選んだ。
その一年後に祖父は息を引き取る。
奇跡的に、私はその瞬間に立ち会えた。
祖父が亡くなった瞬間、祖母は祖父の亡骸にしがみついて「お父さん!お父さん!」とさけんだ。
祖母が大粒の涙を流しながら泣いていた。
人工呼吸器を行うも、祖父は戻ってこない。
祖母は抜け殻のようになった。

祖父が亡くなってから、私は自分の将来を色々と考た結果え、公務員試験を受けることにした。
そして公務員試験の勉強している間、祖母の家にしばらくお世話になることにした。
祖父が亡くなって抜け殻になった祖母は、孫の食事作りやお世話で忙しくするうちに、少しずつ元気を取り戻していった。
私をお世話することで、生きがいを感じたのかもしれない。


数年後、私は結婚し、子どもを産んだ。
祖母にとってはひ孫になる。
その頃には認知症が進み、私を孫と認識できなくなっても、ひ孫を見て「カワイイ…」と言ってくれた。

老人ホームに入ってからも、年に数回会いにいった。
私のことはわからなくなっても、毎回ひ孫には満面の笑みを見せてくれる。
それで十分だと思った。

2年前、父から「おばあちゃんが亡くなった」と電話が来た。
どうしても信じられず、電話中に大声で泣いてしまった。
その時の思いは後悔だらけだった。

どうしてもっと会いに行かなかった。
どうして最期にそばにいてやれなかった。
どうして、どうして。

お葬式が終わっても、私は祖母の死を信じられなかった。
子どもの頃の祖母との思い出が蘇る。

一緒にユニーへ買い物へ行ったね。
スガキヤでたまご入りラーメンを食べたね。
おいしい牛肉を、ザラメと醤油で食べさせてくれたね。
おばあちゃんのぜんざいは、どこのお店よりもおいしかった。

私と一緒にお風呂に入ってくれたおばあちゃん。いつも六一〇ハップを入れたね。
おいしい煮物を作ってくれた。
私が泣いている時には、何も言わずに話を聞いてくれた。
兄の結婚式で、メイクをしてあげたら喜んでくれた。

今でも祖母の小さな写真を財布に入れて持ち歩いている。
施設で撮った、アフロのかつらをかぶって笑っている祖母の写真を。
笑っている顔が祖母らしい、私のお気に入りの写真だ。


もうあの笑顔は見られないけれど、私の心の中に残っている。

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