ヒーローショーの名前を呼ぶシーン。

 他人とは、すなわち僕に無関心な存在で。僕が何かに熱中すると他人は離れ、僕が力を出せば出すほど他人は力を抜いていく。そんな空回りを幼い時期から感じていた僕は、「みんなで力を合わせて」という言葉が世界で一番大嫌いだった。子供の頃から大嫌いだった。

 子供向けコンテンツというものを昔から冷めた目で見ていた。
 たとえば着ぐるみのヒーローショーによくあるシーン。ピンチになった時、司会のお姉さんが「みんなでヒーローの名前を呼ぼう!」という展開になる。子供たちはみんなで力を合わせて、ヒーローの名をめいっぱい叫ぶ。お姉さんは「その声量では足りない、もっと声を張れ」と煽る。2、3度の合唱の末に、ヒーローが満を持してやってくる。嫌いだ。
 言ってしまえばこんなものは、あらかじめ決められた段取りだ、と僕は子供の頃から思っていた。「呼ばなくてもヒーローは来る、来ざるを得ない」というのを分かっていた。だってステージの上の看板には「○○○○ショー」とそのヒーローの名前が書いてある。その本人が登場しなかったらおかしい。わざわざ呼ぶ意味などない、というのは子供の僕にも分かっていた。

 卒業式の練習を繰り返しさせられる意味も分からなかった。決まり切った文句を言い、歌を歌い、先生から赤ペンで添削された「感謝の言葉」を壇上で発表して、これの一体何が感動なのだろう?と思っていた。流石に小6や中1にもなれば、こんなにも作り込んだ儀式を欺瞞だと感じる者は少なくなかった。それでも親は、ぼろぼろと涙を流すものだ。不思議でならなかった。

 ただ視点を変えると分かることがある。
 20代の頃、イベントスタッフのバイトでヒーローショーを手伝ったことがある。広い公園の芝生にステージが設けられていて、お客さんが座る側とステージとの間にカラーコーンの列が並べられている。僕はそのカラーコーンを背に、子供達がステージ側に入り込まないよう防ぐ監視員をやった。僕は文字通り逆の視点で、キャラクターショーではなくそれを見ている観客たちを終始眺めていたのだ。
 件の「ヒーローの名前を呼ぼう」シーンに差し掛かった時、子供だけでなく周りの親たちもヒーローの名を呼んでいた。むしろ名を呼ばない子に対して「呼びなさい」と促してさえいた。
 小さい子供はキャラクターショー自体をよく理解出来ていなかったりする。またはショーを無視して、1人で手元のおもちゃなどに夢中になっている子も結構いる。そんな子たちに対しても、大人は「さあお姉さんが叫べと言っているよ、一緒に叫ぼうね」と言って促す。虚構を信じるよう子供に要求する。「力を合わせる」よう子供に求める。
 それでわかった。
 ああ、こういうのって大人向けコンテンツなんだな、と。

 大人になって仕事をしていく中で、くだらない虚構や段取りでしかない事に合わせなければならない場面は増える。それこそ、腰が重くてなかなか現場に登場してくれない上司を呼ぶために、周りの人たちと声を揃えて上司の名を呼ばなければならない時もある。メンツとか建前とか、いろいろあるのだ。それがどんなにか虚構的で、段取りでしかないか、自分でも分かっているが、そうしなければならない時もある。それはつまり、いつの間にか自分も「力を合わせて」をやっているということ。それをしなければ大人になれない。
 もしかすると、ヒーローショーの名前を呼ぶシーンや、卒業式の感謝の言葉などが持つ耐え難い虚構性は、同種の虚構性の上に成り立っている大人社会において振る舞うべき建前を教える教習だったのかもしれない。

 子供の頃に子供向けコンテンツに慣れる事が出来ないと、大人になって周囲と協調出来なくなって苦労するのだ。

 ただもし僕が親になって、子供をヒーローショーに連れて行くような事があって、子供がヒーローの名を叫ばないようだったら、僕は褒めてやりたい。
 「こんな虚構を信じるくらいなら、もっとたくさんの現実に触れたい」と子供も思うのではないか。