表情が多かれ少なかれ好きで。
例えるなら、地球の運動が天動説でも一応説明がつけられたのと同じで。知識や経験が無ければ無いなりに、表面的に見える現象から何かを類推することは出来る。
きっと自分が今まで見て感じてきた「人間像」ってそういうことなんだと思う。
この人は本当はこういう人だ、とか。
この人は根は良い人に違いない、とか。
表面的に見える表情や動作にほんの少しの類推を足しただけで、さも真相を突き止めたかのように、分かったかのように感じていたのだと思う。
自分はものわかりの良い人間だと思っていた。
自分はそういう方向に聡い人間なのだとさえ信じていた。
例えば、地球が宇宙の中心だと信じていた天文学者にとって、地球が宇宙の片隅にあるありふれた惑星の1つに過ぎないという結論は、どれほど受け入れ難かったろう。宇宙の真理の一端を知る者というプライドも、己がそれまでの全てを捧げて積み重ねてきた成果も全てが崩れ去る。その時彼ら彼女らは、「学者」の名を捨ててあくまで「古い説の信奉者」に堕ちるか、全てを捨ててでも「学者」でいられるか。それはアカデミックな選択ではなくアイデンティティに関わる選択だ。
宇宙の真理を前にしたら、人ひとりの人生なんて小さ過ぎて観測もされない。
自分は狡い人間だった。
自分は場を繕うための嘘をよくついたし、自分は自分を守るための嘘をよくついた。けど悪人にはなりたくなかった。ここでいう悪人とは、嘘をつかない人のことだ。幼稚園の先生が「嘘つきは悪魔に好かれて地獄に堕ちる」と言っていた。だから先生は決して嘘をつかないのだろうという風に自然と思ったし、良い大人は嘘をついたりしないのだと思っていた。
それから僕は、両親が大きな嘘をつくところを見て育ち、親戚がうちの家族を騙すところを見て育ち、自分を守るための嘘をつき、表面的な見せかけを作っている自分に猛烈な罪悪感を感じながら、自分自身騙し騙しここまでやってきた。それは酷く悪いことなのだと思ってきた。同時に自分同様に、或いは自分以上に嘘を重ねている人のことも酷く憎んだ。どうして嘘をやめてくれないのか、と他人にも自分にも思い続けてきた。
そしてその僕の葛藤は、僕を「嘘」に敏感たらしめた。少なくとも僕はそう信じてきた。これだけ深く思い悩み続けてきたのだから、そこらの人よりは多少は人の心が分かるはずだと信じていた。
けど、もう前提が崩れた。
人は嘘をつくし、嘘をついても地獄には堕ちない。
だから表面的な言葉や表情から、人を理解することも出来ない。
人の心の中身は、自分がこれまで思ってきたよりももっと複雑で、とても自分の小さな心の器で受け止めきれるものではなかったし、もちろん心の器の足りない僕のために一緒になって受け止めてくれるような助けもこの世にはない。だって人はみんな嘘をつくから。嘘の裏にあるものを類推することが「真理の探究」ではないから。
人が嘘をつくんじゃなくて、嘘が人そのものだったのだ。
そんなものに対して。
「信じられない」とか。
「信じたい」とか思ってきた。
諦めきれない天動説論者は、自分を信じるために「コペルニクスを火刑にせよ」と喚くだろう。地動説論者をことごとく地上から排斥すれば、再び天が動き出すと純粋に信じ続けるだろう。
諦めをつけた天動説論者は2通り。地動説に変節するか、それとも宇宙を嫌いになるか。
天動説宇宙が見せる表情が多かれ少なかれ好きで興味を持ったのだろうに、その宇宙は真逆の真理を隠していたのだから、その真理まで好きになってあげるか、嫌いになるか、残された道は2つに1つしかない。
嘘をつく人を好きになってみたかった。
人を好きになって見たかった。
僕自身どうしようもない嘘つきだったし。
僕は僕を好きになりたかったのかもしれない。
けれど僕は、やっぱり好きになれなかった。自分のことも他人のこともどうしても好きになれなかった。
だから信じないことにした。
人のことも信じない。
自分のことも信じない。
言葉って面白いもので、人のことも自分のことも信じられなくなるとまったく何の意味もない文字や音の羅列でしかなくなる。
人に伝えたい気持ちが起こらない。だって伝わってるかどうか判断つかないし、伝わってるかどうかに興味もなくなったから。
自分の気持ちを伝えたいという気も起こらない。だって自分の気持ちが何なのか自分でも分からなくなったし、興味もなくしたから。
ぶっ壊れだ。
何もかもがぶっ壊れ。
信じられたら生きづらさは止むのだと思ってきたけど、もはや生きづらさが止まない自分をどうにかしたいとも思えない。
どうでもいい。
地球が宇宙の中心なら、太陽は地球を照らすために回ってくれていることになる。
けど太陽は誰のことも愛していない。