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初めてのフリー雀荘が怖すぎて22年間フリーに行けなかった話

雀歴なにげに40年

ちょっと自分の麻雀を振り返ってみようと思い筆をとってみました。思い返すと、物心ついた頃というか、小学校1年生で既に麻雀ルールも何となく分かってて炬燵に入ってみかんを食べながら家族麻雀を打ててました。当時は1982年ぐらいなので、計算すると麻雀歴40年。何気に経験年数だけで言えば大ベテランの域ですw
家族麻雀以外には小学校高学年頃にファミコンの四人打麻雀を打つという。この四人打麻雀は自分と3人のCPUの合計4人のユーザインタフェースが4行になっていて、当時のファミコンで麻雀を実現したという点を思うと良く考えられてました。これで、結構いろんな役のバリエーションやクイタンという言葉を覚えた気がします。

中学高校はあまり打たない日々

中学高校はお盆とお正月の家族麻雀ぐらいでした。というのも、家が茨城で、お正月に叔父が帰省しないと卓が立たない状況だったので。あとはゲームボーイで麻雀は打ってましたね。たぶん、今の自分がゲームボーイやったら老眼で何も見えないんだろうな~。

大学入学を機に東京へ

1994年、大学入学を期に実家茨城から東京に出てきてひとり暮らし。当時は東急目蒲線(今で言う東急多摩川線)沿線の武蔵新田に住んでました。大学生時代の話は改めてエントリ書きたいと思ってますが、大学は大岡山(場所でお察しの大学)、バイトは蒲田(ハーゲンダッツのショップ)、飲み会は渋谷(千歳会館のレモンハウス懐かしw)みたいな感じでした。サークルは放送研究会に所属。ラジオ番組を制作しつつそれをFM放送で流してたりしてました(1年生の時はSEVENっていうテニスサークルも掛け持ちしたけど辞めちゃったなぁ。ググったらまだ存在していた)。で、その放送研での活動は、大体ラジオ番組の収録(たまに生放送)を夜7時位から10時位まで行い、その後ご飯食べて12時ぐらいに部室に戻る感じで。で、その後、

夜になると麻雀が開始される

部室の真ん中のテーブルの上に建築学科の先輩手作りのスチレンボード製麻雀卓を置いて麻雀開始。BGMは自分たちが作ったラジオ番組やFMの音楽番組で明け方まで。大体週2日ペースぐらいで開催して、成績はすべてノートに残してました。部屋にスーパーファミコンもあるので、5人の場合は2着抜けで抜け番はぷよぷよだったりパネポンで待つみたいなw
部室ばかりじゃなくて、たまには、大岡山駅前にある「順風」っていう雀荘で朝までセット。朝まで打つとお餅が入った味噌汁が出てきてめちゃめちゃ美味しかった思い出があります。あとペヤング美味しかった。

フリー雀荘の広告が目に留まる

そんな日々が続いてましたが、自分がフリー雀荘した思い出も書きたいと思います。デビューしたのは、確か1996年ぐらいの当時大学3年生。
部室には誰かが買ってきた近代麻雀が置いてあって、別冊とゴールドとオリジナルの3種類があった気が。その近代麻雀を細かいところ(シンケン君はなにげに好きだった)まで読んでると、雀荘の広告が数ページ分ぐらいあり、広告に「風速」という言葉とともに数字やピンズの絵が書いてあって。例えば、1-1-3とか(これは、「ピンのワンスリーと読む」)。いわゆる賭けマージャンのレートです。
まあ学生の身分からするとピン(1,000点100円)のレートは高くて。大体ピンだと負けた場合は1半荘で5,000円ぐらいかな。結構金額が大きい。そんな中、当時自分は蒲田でアルバイトしてたんだけど、その蒲田にある雀荘「麻雀トマト」というところが広告を出してまして、他の雀荘の広告が文字や麻雀牌の絵の中で、雀荘トマトだけはトマトのキャラクターの絵の広告で。レートも0.5と良心的な設定。0.5ならば負けても3,000円ぐらい。で、近いしいつか行ってみたいなぁと何となく頭の片隅に置いていて。

ふと思い立ちフリー雀荘へ

大学もバイトもお休みの日、蒲田のパチンコ店でCR大工の源さんを打ってて(確変引くとその後2回大当たり確定で、確変絵柄率1/3はアツかった。今度パチンコ/パチスロの話も書こっと)、その後、ふと近代麻雀の広告で見た雀荘トマトに行ってみようかと。ということで、雀荘とまと(ひらがなだった気もしてきた)に足が向かってました。

蒲田の雀荘とまと

お店に入ると、店員さんお客さん含めて男性しかいなかった気がします。8割ぐらい稼働していて結構盛況だったような。店員さんからひと通り説明を受けて点数計算で分からなければ、言ってください。とか言われた気が。そして、説明受けた後、10,000円ぐらい払って、現金代わりのいろんな色のカードとそれらを入れるカゴを交換。「帰る際には、お金に精算して戻します。」だったかな。あと、負けてカードが全部なくなってもカゴが2,000円分ぐらいの価値として使えるらしく、最後トンだらカゴ払いみたいなリスクヘッジ(?)がされてました。

最悪の雀荘デビュー

店員さんに促されて卓へ。客層は見た目ちょっと怖い感じの人が多かったかな~。当時の自分は点数計算の麻雀脳が出来上がってなかったのでアガって即点数計算できず。アガったら「メンタンピンツモサンショクドラウラ、ヨンセンハッセン」と役名をボソボソ言いながら1本1本指で折らないと点数が分からない。でも、今思うと、指を折りながら役を言うってある意味同卓者をアオっているとも捉えられるんですよね(お前の役なんて知らねぇよ!さっさと点数言えよ!という感じ)。
あ、あと、半荘終了時に、点数部分が金額にならないので支払いの計算がスッとできないのは結構困りました。ゲーム終了するとみんな自分の点数見てすっとカードのやり取りしていて、自分の勝ち負け金額が全然分からないので、計算は同卓者にお任せでした。そんな状況なので、同卓した人のイライラは多少募ってたのかもしれません。もしかしたら、イライラしておらず、自分の考えすぎだったのかもしれませんが、今となっては分かりませんが、自分も多少オドオドしていたのは間違いなく、微妙な空気を感じてはいました。とはいえ、大きなトラブルなくすすめられてはいました。

事件発生

そんな感じで進めていると、とあるゲーム中、下家が局の中盤で、九萬ツモ切り、次順でさらに九萬ツモ切り。ここまでは普通だったのですが、次順に下家がツモった時、「カチコーーーーン!」とツモってきた九萬を卓のヘリにたたきつけて300-500!!!やってらんねぇ~っ!みたいなアガりをしていきなり震えあがりましたwww。今考えると、単に待ち換えしてからリーチするなりしようとしてたら3回もツモったのでイラついたみたいです。今であれば、こんな状況でも自分はメンタルはぶれないし、間違いなく雀荘の店員さんが注意してくれるのですが、当時の自分はビビリまくりで店員さんもスルー。正直、もう帰りたい気分でいっぱいでした。

代走をお願いしたら衝撃の真実を目の当たりにしてしまう

最初の店員さんの説明でトイレに行きたい時は代走を頼んでください。と言われてましたが、なかなか言い出せずギリギリまで我慢していたのですが、さすがに限界となり、ドキドキしながら代走を頼みました。すると店員さんが来てくれて何とかトイレに行くことができました。
良かった良かったセーフ。
ふう、そろそろ帰りたいなぁ~。あ、何か張り紙がある。何が書いてあるんだろう~。と、トイレで一息つきながら目を向けてみると、
・お金を払わずに逃亡した客の情報w
・雀荘の内輪トラブルのネタ情報w
・お金が払えないとどうなるかの情報w
\(^o^)/一刻も早く帰りたい~\(^o^)/
\(^o^)/わいはとんでもないところに来てしまった~\(^o^)/
\(^o^)/フリー雀荘は自分には合わないわ~\(^o^)/
と、悟りました。

もうむりぽ。。。限界です。

トイレでメンブレした私はもうその後は、牌をツモって捨てるだけのマシーンになってしまいました。人からアガるのが怖いし、鳴くのも怖いし、安い手でアガったら文句言われるのでは?とか色々考えすぎて何も言えず。
しまいには、上家が捨てた牌にロンできるにも関わらず、気づかずに見逃してしまい、まぁ仕方ないから次出たらアガろうと思って、自分はツモ切りしたら下家が同じ牌を捨てて、「あ、アガろ!」と思った瞬間、ロンという言葉を飲み込みました。上家の捨て牌を誤って見逃してしまったとはいえ、下家からすると、思いっきり山越しロンに見えて、さっきの九萬カチコーーーン以上の点棒バラマキ事件に発展しかねないと・・・って。(でもこれは、今でもアガらなくて良かったと思ってる。アガってたらどうなっていたか怖すぎる)。んで、確かそのままツモ切り続いてテンパイしてたけど、牌姿も見せたくなくてノーテンでそっ閉じしました。最悪。
そして、その後ラス半コールして(もう1ゲームを無のままこなして)何とか無事に雀荘から脱出しました。そう、自分にとっての雀荘は、入った時点から如何に無事に脱出するかの脱出ゲーだったのです。

もうフリー雀荘には行かないと思ってたのに。。。

フリー雀荘は、そんな最悪のデビューだったのでその後全く行かなくなりました。ってか、次にフリーで雀荘に行くのはなんと2018年10月なのです。22年後ってすごくないですか?!?。そして、タイミングもMリーグ開幕と同時タイミングって。
ということで、私のフリー雀荘デビューでした。ある意味昭和感あってシビれる感じでネタにもなるので良かったです。ちなみに、蒲田の「雀荘とまと」で検索すると既に無くなっているようでした。残念。あったら絶対再訪してました。

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