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心理臨床の本質は結局のところ人と人との出会いである

案の定忙しくて前回からずいぶん時間が経っちゃいましたが,2本目の記事です。前回予告したとおり,「心理臨床の本質は結局のところ人と人との出会いである」というおはなし。

これはときどきお話するエピソードなんですが,僕は高校時代に父を亡くし,不本意入学ということもあって,大学に入学したばかりの頃はけっこうな不適応状態だったんですね。

なかなか友達もできなかったですし,ひとり情報処理センターという,インターネットに常時接続されたPCがたくさんあるところに1人こもってぶつぶつ独り言を言っているような奴だったんです。キャンパス内を歩いてると,見知らぬ学生たちが自分のことを汚いと思っているんじゃないか,という妄想のようなものがあったこともよく覚えています。当時の自分はボロボロでした。本当にしんどかったです。

昔から心にかかわる仕事がしたいと思って大学に入学したものですから,入部したクラブも「心理学教育学研究部」という,なんとも真面目な名前のクラブでした。そこに入部してからも,クラブ内で友達らしい友達はなかなかできませんでした。思い起こすと,学生時代にカラオケに行ったこともなかったんですよねえ。いま思うとなんとももったいない。まあとにかくしんどかったんです。

当時の文化系クラブというのはなんとものんびりしたところで,心理学の研究をしているのかというと,特にしてなかったんですね。部室でマリオカートやぷよぷよで対戦したり,先輩がギターを弾いていたりと,なんとも自由なところでした。月に1回程度研究会のようなもの(「ミニゼミ」と呼んでました)はやってましたが,それ以外は遊んでばかりでした。僕が1人でいても,それはそれで放っておいてくれるところだったんですね。僕としては,当時はもう本当にしんどかったですから,これぐらいの距離感がちょうどよかったんです。当時の自分は,1人でいても寂しいし,かといって人と話をするのもしんどいしという,いやーいま思い出すとなんともめんどくさい奴だったなーと思います。

何ヶ月か経ったあと,これはあまりよく覚えてないんですが,みんなで買い出しに行こうという話になったか何かのとき,僕はちょっと離れたところからついていってたんですが,なぜかそのときちょっと勇気が出て,同学年の部員に声をかけることができたんです。それを眺めていた当時の部長(元暴走族)が僕のところにきて,ポロッと「押江くんのこと,ずっと心配してたけど,安心したわ」と言ってくれたんですね。当時の僕は,この言葉に本当に救われたのをよく覚えています。それから少しずつ友達ができ,なんとか学生生活をやっていくことができました。当時の部長には本当に感謝しています。

さてさて,このような思い出話をして何が言いたいのかというと,僕はこの部長に本当に救われて,このことがいまでも僕を支え続けている,ということです。

この部長は人情味あふれる人でしたし,大好きでしたが,ここには書けないような結構無茶苦茶なエピソードもあり,そんなにカウンセリングマインドがあるような人ではなかったように思います(ひどい)。しかし,部長との出会いは確実に僕を救ったし,僕の中の何かが変わったように思いますし,いまでもこのことを思い出すと温かい気持ちになることができます。そしてこの経験は,かすたネットほたるネットという,不登校や発達障害等により学校に困難を感じている子どもさんのための居場所をつくるうえで活きています。まさにこれは僕にとって貴重な臨床経験だったのです。

ここから何が言いたいかというと,人が人を支えるというのは結局のところ,人と人との出会いなのではないか,というとてもシンプルなことなんです。

こう思うようになったきっかけは,次の2冊の本との出会いです。1冊目は,いまとても熱い,リレイショナル・デプス本。大好きな1冊です。

パーソン・センタード・セラピーをオリエンテーションとする自分として,クライエントと深い関係性relatinaol depthを目指すというのは,とても納得のいくものがありました。しかし僕としては,自分のセラピー経験の中で,特にスクールカウンセリングのような限られた設定の中で,この本で描かれているような深い関係性をクライエントと築くというのはかなり難しいことのようにも思われました。

一方で,この本にあるような深い関係性がみられなくても,クライエントさんにとってお役に立っているようなことはたくさんあるな,とも思うし,またかすたネットほたるネット起こってくるようなことも,深い関係性とは言い難いようなことばかりのように思えました。そう考えると,自分がやっていることは大したことないのではないかと思えて,若干悲しくなってくるところがあるわけです。

しかし,実際お役に立っているようにも思うし,そういう声も聞こえるわけで,悲しくなっているばかりだとクライエントさんに申し訳ないような気がする。そんな中,神田橋條治先生の対談集に出会いました。

対談のなかで神田橋先生は「心理療法の根幹は『出会い』だ」とおっしゃっておられました。自分が神田橋先生の深遠なお考えをきちんと理解しているとは到底思えないのですが,自分が経験してきたことや,やってきたことを理解する上で,「出会い」を軸に考えるといろいろと納得がいくなあと思うわけです。

つまり心理臨床の本質は,人との「出会い」を通じてその人の中で起こる何かにあるのではないかと。

先程長々と書いた僕自身の経験でいうと,元暴走族の部長にカウンセリングマインドのようなものがあったようにはあまり思えません(やっぱりひどい)。でも,僕自身は部長から「ずっと見守ってくれていたんだ」という彼の思いを受け取って,本当に救われましたし,それにいまでも支えられ続けています。ありがたいことだと思っていますし,本当に感謝しています。

しかし一方で,部長は元暴走族ということもあってちょっと(だいぶ?)怖い人でしたし,苦手だとか,「支えられるなんてないない」と思う人だっていると思うんです。要は,部長と出会った人の中で,その出会いを通じて何が起こってくるかが肝心なんだと思うんです。

誰とどのように出会って何が起こってくるかは,その人自身しかわかりません。それは起こるかもしれないし,起こらないかもしれない。それは誰にもわかりません。

だから,僕にとって臨床とは,人が自分を含むいろいろな人と出会って,その出会いがなるべく活かされる方向に流れるよう願って立ち会おうとすることなのだ,と思うようになりました。

したがって,多様な人と出会うことのできるグループ臨床はとても合理的です。個人臨床の場合,出会う相手はカウンセラー1人のように思えてしまい,それだとかなりリソースが限られてしまいます。クライエントはカウンセラーとの出会いを通じて何かが起こってくるかもしれないし,起こってこないかもしれません。もっと別の人と出会ったほうが,よりよい動きが起こってくるかもしれません。そう考えると,個人臨床はあまりパフォーマンスがよくないようにも思えてしまいます(もちろん個人臨床には個人臨床のよさがあるのですが)。

ただ「グループ」と呼んでしまうと,ある程度方法に型が出来上がってしまっていて窮屈なようにも思います。だからこそ僕はこれを「コミュニティ」だとか,もっと曖昧な「地域」と呼びたいのです。

つまり,コミュニティだとか地域で人は様々な人と出会い,その出会いを通して自分の中で何かが起きてくる,その可能性をファシリテートしたいと僕は願っているのです。だからこそ僕は臨床はすべて地域臨床だと考えているのです。

だからこそ,地域臨床は大事だと思いますし,いろいろな人と出会う機会のあるPCCAや,最近ではオープン・ダイアローグを熱心にやっていると思うのです。

こう考えるようになってから,クライエントとの深い関係性relational depthはたしかに素敵だし,目指していきたいけれど,一方でそれは心理臨床の必須通過点ではないのではないか,と開き直れるようになりました。開き直りも1つの能力だと思って,なんとか開き直っています。

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